(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
630年1月に、遊牧民同士の争いで、メッカとメディーナの和約(休戦協定)がやぶれてしまった。
ムハンマドは、1万人の部隊を率いてメッカを襲撃した。
敵わないと観念したメッカのクライシュ族は、すぐに降伏した。
こうして、メッカはムハンマド軍によって無血占領された。
ムハンマドはただちにカーバ神殿に向かい、祀ってある偶像360体を破壊して燃やした。
この時にムハンマドは、有名な演説をした。
「いまや無道の時代は終わった。
これまでの一切の血の負目(部族間の争い)も、一切の賃借
関係も、その他の権利も、完全に清算された。
これまでの階級的な特権も、すべて消滅した。
地位と血筋を誇ることは、もはや何人にも許されない。
諸君は誰もが平等であって、もし優劣があるなら、それは神を
畏れる心の深浅である。」
コーランを翻訳した井筒俊彦は、この『平等宣言』こそがイスラム共同体の理念なのだと強調している。
ムハンマドは、630年末には3万人の大軍を、シリア方面に派遣した。
そしてユダヤ教徒やキリスト教徒との間に、税を支払わせる事で財産と生命を保証する、平和共存協定を結んでいった。
○村本のコメント
ムハンマドの平等は、イスラム教徒の中だけで適用されるものであり、現代から見るとかなり懐の浅いものに思えます。
ですが当時はこれでも、とても斬新だったのでしょう。
ムハンマドは部族や血筋や階級を否定して、「神の前での万人の平等」を実現させようとしました。
しかし歴史を見ると、彼が死んで50年もしないうちに「部族や血筋による住み分け」が復帰し(世襲王朝ウマイヤ朝が誕生し)、それ以後ずっとその流れが続いています。
現在のイスラム世界を見ても、「部族や血筋による住み分け(差別)」はあらゆる所に見られます。
困ってしまうのは、いつの間にか教義が改悪されて、イスラム教の指導者たちが「部族や血筋の住み分け」や「権力者」を擁護する立場にいることです。
この教義の改悪は、キリスト教でもたくさん行われ、それへの反発がプロテスタントを生み出しました。
イスラム教では、『説得力のある宗教改革』はまだ起こっていない気がします。
イスラム原理主義は、ムハンマドの原点に戻ろうとする運動ですが、解釈を間違えているのか人々を幸福に導いていない事が多いです。
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
ムスリム軍がメッカを征服すると、アラビア半島の各地の部族は、ムハンマドと盟約を結んだ。
これにより、原初的なイスラーム国家が姿を現した。
だがムハンマドの家庭生活は、必ずしも幸福ではなかったようだ。
彼は10名以上の女性と結婚したが(つまり4人妻のルールを守っていない)、その多くは戦争で夫を亡くした寡婦を養うためであったり、政略結婚だった。
彼は、従姉妹とも結婚したが、彼女の元夫はムハンマドの養子だった。
信者たちは、「これは近親相姦ではないか」と非難した。
ムハンマドは632年3月に、最後のメッカ巡礼を行った。
これは「別離の巡礼」と呼ばれている。
すべての妻と4万人の信者が同行したが、この時の行った巡礼の仕方が、現在まで続く巡礼の作法となった。
メディーナに戻ったムハンマドは、体調を崩して6月8日に死去した。