(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
『第一次内乱』でアリーを支持した人々は、やがて『シーア派』と呼ばれるようになった。
彼らは、「預言者ムハンマドの血縁であるアリーの血統こそが、真のカリフである」と信じていた。
シーア派は、第4代カリフのアリーが殺されると、アリーの長男であるハサンをカリフに担ぎ出した。
ところが軟弱なハサンは、ウマイヤ家のムアーウィヤ軍が出撃してくると、カリフの位を放棄して引退してしまった。
ハサンはその後、670年に毒殺された。
ハサンの死後、シーア派の人々はハサンの弟フサインを担ぎ出した。
(この蜂起も失敗する。詳しくは後述。)
シーア派の人々は、アリーとその子孫を最高指導者(イマーム)として崇め、神聖な存在とした。
これをスンニ派は、「シーア派は、神ではなく人を崇めている」と非難した。
○村本のコメント
シーア派は、一言で言うと『血統を何よりも重視する人々』です。
日本にも、こういう価値観の人はいますよね。
この手の人は、「高貴な家に生まれた人物は、神に選ばれた特別な人なのだ」と考えます。
私は血統に何の価値も置いていないので、共感できないです。
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
第4代カリフのアリーには、ハサンとフサインという2人の息子がいた。
アリーが暗殺されると、シーア派の人々は長子ハサンに望みを託した。
しかしハサンには野心はなく、カリフ位を放棄する代わりに、ムアーウィヤから巨額の年金を受け取る道を選んだ。
彼はメディーナに隠棲して享楽的な生活をし、45歳で亡くなるまでに100回以上の結婚と離婚を繰り返して、「離婚の達人」とあだ名された。
弟のフサイン(626~680年)も、ムアーウィヤの治世中はメディーナでひっそりと暮らしていた。
しかし680年にムアーウィヤが亡くなり、息子のヤズィードがカリフ位を継承すると、これを拒否してメッカに居を移した。
イラクの軍営都市クーファは、シーア派の拠点になっていたが、彼らはフサインに手紙を送り決起を促した。
680年9月に、フサインは一族郎党の70名を率いて、密かにメッカを抜け出した。
彼はクーファの支援を期待していたが、ヤズィードが弾圧をしていたためクーファの人々はフサインに呼応できなかった。
クーファ総督のウバイド・アッラーフは、4000の兵と共にフサインを待ち構えた。
フサイン他の70余名は、680年10月10日にウバイド軍と戦ったが、女・子供を残して全員が殺されてしまった。
フサインの悲惨な死は、シーア派ムスリムに罪悪感を持たせた。
彼らは背信行為を悔やみ、カリフ(ウマイヤ家)に対する復讐を誓った。
これは後に、反ウマイヤ運動として実を結び、ウマイヤ王朝を倒すことに繋がる。
シーア派の人々は、フサインの死んだ日(アーシューラー)が来ると、哀悼祭を催すようになった。
これが公式行事となったのは、シーア派のブワイフ政権下にイラクがあった10世紀半ばとされている。
シーア派は、「ムハンマドからアリーは後継者に指名された」と主張する。
ムハンマドは632年3月に、メッカ巡礼を終えてガディール・フンムの水場で休憩した。
この時に、彼は同行の人々にこう語った。
「私は、あなた方が自分自身に対するよりも、あなた方の
近くにいる。
私が近くでお仕えする人には、アリーもまたお仕えするのだ。」
この伝承を、シーア派の人々は、アリーを後継者に指名したと解釈したのである。
スンナ派の起源は、シーア派が結成された時に、彼らと一線を画して中立を守ったグループにあるとされる。
彼らは、ムアーウィヤの正統性を承認した。
そしてハディースを重視し、スンナ派の学者はハディースの収集と検証に努力を傾けた。