(『イスラム・パワー』松村清二郎著から抜粋)
メディーナ移住後の課題は、ムハンマドに従ってメディーナに移住してきた人々の生活保障であった。
主に商業をしていたムハージルーン(メッカからの移住組)は、メディーナのオアシス農耕に従事するのは困難だった。
そこでムハンマドは、当時の遊牧民が合法だと考えてごく普通に行っていた、「隊商を襲って略奪すること」を始めた。
目的は、戦利品の獲得と、捕虜の身代金収入である。
623年中に数回の略奪計画が立てられたが、すべて失敗した。
624年に、シリアからメッカへの大隊商を、ムハンマド軍は襲撃した。
大隊商の方が3倍の兵力だったが、ムハンマドは密集体形で突撃して勝利した。
これは、画期的な新戦術だった。
これは、「バドルの会戦」と呼ばれている。
ムハンマド軍(イスラム軍)の「規律の良さ」と「死を恐れない精神」は、以後のイスラム軍の特色となった。
(『イスラム世界のこれが常識』から抜粋)
ムハンマドは、自分を追放した町メッカと戦う決意を固め、624年のバドルの戦い、625年のウフドの戦い、627年のハンダクの戦い、とメッカ軍と戦っていった。
バドルの戦いで勝利した結果、メディーナにおけるムハンマドの地位は一挙に向上した。
預言者(ナビー)を称するようになり、信徒に服従を要求する地位に立ったのである。
(『世界の歴史⑧ イスラーム世界の興隆』から抜粋)
624年の3月に、「1000頭のラクダを連ねたクライシュ族の隊商が、シリアからメッカに戻ってくる」との情報が、ムハンマドに届いた。
この隊商は、アブド・シャムス家(ウマイヤ家)のアブー・スフヤーンの指揮の下、70名の護衛に守られていた。
ムハンマドは、メディーナにいる男子信者の全員(86名のムハージルーンと238名のアンサール)を率いて出撃した。
メッカはこの知らせを受けると、アブー・ジャフルが950名の援軍を率いて出発した。
ムスリム軍とメッカ軍は、紅海沿岸のバドルの水場で会戦した。
アブー・ジャフルら70名を討ち取ったムスリム軍は、圧倒的な勝利をおさめた。
自信を得たムハンマドは、これ以後、「神の使徒」の称号に加えて「預言者(ナビー)」も称するようになった。