(『死海文書の謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リーの共著から抜粋)
クムランに住み、『死海文書』を残した人々は、本当にドゥ・ヴォー神父の研究チームが言うようにユダヤ教エッセネ派だったのだろうか。
プリニウス、フィロン、ヨセフスという当時の著述家は、エッセネ派をユダヤ教の一派として描いている。
彼らはエッセネ派を、独身主義の隠遁者としている。
彼らによると、エッセネ派はすべての物を共同で所有し、孤立した共同体として暮らしたが、その一方ではパレスチナのあらゆる町にも居住していた。
ヨセフスはエッセネ派について、参加を志願する者は3年間の見習い期間があること、共同の部屋で一緒に食事すること、預言の訓練を受けたこと、を書いている。
ヨセフスによると、エッセネ派の教義は、「人は堕落した肉体という牢獄に捕らえられており、肉体が死ぬと魂が自由になる」というものだ。
さらに彼らは、モーセの律法に固着していた。
しかし平和主義で、権力者とは融和的で、ヘロデ王から高く評価されていた。
長い間、エッセネ派は平和主義で独身主義と考えられてきた。
だから、「イエスはエッセネ派の出身である」と言う学者や作家も多かった。
しかしヨセフスは、エッセネ派について、こうも書いている。
「彼らは名誉の死を、生命よりも価値あるものとする。
彼らの魂は、ローマ人との戦いで最高度に試される。
ローマ人は、エッセネ派の人々を苦しめようと、かつてない拷問を加えた。」
こうなるとエッセネ派は、ローマ支配に反乱してマサダ要塞に立て籠ったユダヤ教徒たちや、ユダヤ教徒の過激派だったゼロテ党(熱心党)あるいはスィーカリ派(シカリ派)に見えてくる。
ドゥ・ヴォー神父と彼の研究チームは、死海文書を調べてみて、「この文書を書いたクムランの共同体は、エッセネ派の入植地だった」とした。
彼ら国際チームの見解は、こうである。
「クムランの共同体は、ずっと昔に放棄された砦に、前134年頃に死海文書を残した人々が住みついたものである。
この共同体は、前31年の地震と、それに続いた火災で全滅した。
しかしヘロデ大王が死んだ後4年の頃から、また人が住みついた。
その後は政治的に中立を保ち、68年に(ユダヤ教徒の反乱の時に)ローマ軍に攻撃され破壊された。
ローマ軍はこの砦に駐屯したが、132~135年にユダヤ教徒が再び反乱した時、ユダヤ教徒が占拠した。」
上の見解は、死海文書が、現在のキリスト教(主にカトリック派)の教えや権威を崩さないように、工夫した解釈と言える。
ドゥ・ヴォー神父ら国際チームの見解の、問題点を列記する。
①ヨセフスらはエッセネ派を独身主義とするが、クムランには女性や子供の墓もあり、彼らの『共同体規則』には結婚や子育ての規則もある
②ユダヤ暦は太陰暦だが、クムラン共同体は太陽暦を用いていた
③死海文書のどこにも、エッセネ派という言葉がない
④死海文書は、ヘロデ王朝に敵意を見せている
そしてクムラン共同体は、ヘロデ大王の時期は迫害され無人となっていた
⑤クムランの遺跡には、軍事施設がある
死海文書を見ても、『戦争の巻物』など武力に関するものがある
そもそも「エッセネ」とは、ギリシア語で、正確には「エッセノイ」あるいは「エッサイオイ」と書かれる。
これは、アラム語かヘブライ語の翻訳か音訳と考えられる。
クムラン共同体の人々は、アラム語かヘブライ語を用いていたが、オックスフォード大学のゲザ・ヴァーメッシによれば、「エッセネ」はアラム語の「アッサッイャー」(治療者の意味)に由来する。
しかし死海文書に「アッサッイャー」の言葉は見つからず、治療に言及したものも無い。
当時の著述家フィロンは、ギリシア語の「オセーオス」(聖なるの意味)に由来するとしているが、クムランの人々はギリシア語と縁遠い。
ロバート・アイゼンマンは、死海文書の1つである『ハバクク書注解』にある「オセイ、ハ・トーラー」(律法を行う者たちの意味)に注目した。
この複数形は「オスィーム」である。
だがスコットランドの聖アンドリュー大学のマスュー・ブラック教授は、こう書いている。
「エッセネ派は、狭い定義を下すのではなく、当時に広がっていた反パリサイ派(反ローマ帝国)の運動と理解すればいいのではないか。」
初期キリスト教徒のエピファニオスの著作には、「ナゾレ派」と呼ばれる最初期のキリスト教徒たちが、「イェッサエ派」としても知られていたとある。
私たちは、「エッセネ派」、「オスィーム」、「イェッサエ派」、「ナゾレ派」は、同じものを指していると考える。
ブラック教授の言う、「当時に広がっていた運動」を指すのである。
そういうわけで、クムランの共同体は、エルサレムに本部があった「初代教会」、つまり「イエスの兄弟ヤコブ」が指導者だったナゾレ派と、同じ思想の集団だったろう。
(2023年5月15日に作成)
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