(『死海文書の謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リーの共著から抜粋)
『死海文書』については、論点がいくつもある。
死海文書の巻物たちは、キリスト教以前のものなのか、以後のものなのか。
西暦30年頃のイエスの活動と近い時期に作成されたのか。
40~65年頃に書かれた、(新約聖書にある)パウロの旅行や書簡とは、近い時期のものなのか。
もし死海文書の巻物が、イエスよりも少し前のものならば、そこにはイエスが語った事と同じことがいくつも書かれているから、イエスの教えの一部は彼の独創ではなくなる。
もしイエスと同時代のものならば、巻物に出てくる「義の教師」はイエスとそっくりだし、イエスは同時代の人々に神的な存在だと思われていなかった証拠となる。
そういうわけで、死海文書は、キリスト教カトリック派の研究者によって、イエスの時代よりずっと前のものとされた。
ドゥ・ヴォー神父の研究チームが、死海文書について到達した結論は、次のとおりだった。
①年代は、キリスト教(イエス)の時代よりもずっと以前である
②死海文書は、隠遁的な共同体の文書で、その時代のユダヤ教の主流ではなく、(ユダヤ教徒の)戦闘的・革命的な集団からは切り離されていた
③(死海文書の見つかった)クムランにいた共同体は、66~73年のユダヤ教徒の反乱(第一次・ユダヤ戦争)の最中に破壊された
④クムラン共同体の信仰は、キリスト教とは全く違い、死海文書に出てくる義の教師はイエスではない
⑤洗礼者ヨハネは、クムラン共同体の教えとあまりに近く、彼はキリスト教にとっては単なる先駆者でしかなかった
ドゥ・ヴォー神父らの結論は、間違っている。
その事を、これから書いていく。
死海文書の内容は、新約聖書に書かれている最初期のキリスト教(いわゆる初代教会、実体はユダヤ教イエス派)と、多くの共通点がある。
第一に、死海文書を読むと、クムラン共同体では、キリスト教の洗礼に酷似した儀式が行われていた。
第二に、新約聖書の『使徒言行録』によると、初代教会のメンバーは「全てのものを共有していた」が、クムランの『共同体規則』でも全ての物を共有している。
第三に、『使徒言行録』では初代教会の指導者は12人だったが、クムランの共同体も12人から成る「評議会」に統治されていた。
第四に、初代教会もクムラン共同体も、メシア主義を持っていた。
初代教会はイエスを、クムラン共同体は義の教師を、カリスマ的な中心人物にしていた。
死海文書に出てくる「義の教師」は、読むとほとんどイエスの事を述べているように思える。
第五に、初代教会のテクスト(言い回し)とクムランのテクストは、驚くほど似ている。
『使徒言行録』でパウロは、クムラン共同体に似た言葉やイメージを、ふんだんに使っている。
ただしクムラン共同体は律法と義の教師を信じていたが、それがパウロだと律法に服従せず、イエス・キリストだけを信じろと説いていた。
パウロの手紙を見ると、クムランの共同体が用いていた(死海文書に出てくる)譬え、言い回し、レトリックを、パウロが知っていたのは明らかである。
クムランの共同体は、旧約聖書にある律法を最も重要とし、彼らの『共同体規則』では「モーセの律法を破る者は、すべて追放される」と書いてある。
イエスも律法に固着した人で、「山上の説教」でこう語っている。
「私が来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである。
天地が消え失せるまで、律法の文字から1点1画も消え去る事はない。
この掟を破る、または破るよう人に教える者は、天国で最も小さい者と呼ばれる。」
パウロは律法を軽視したから、イエスの教えを裏切っている。
イエスの教えは、長い間、それまでにない良き知らせ、福音だとされてきた。
だが死海文書の発見で、同じ教えを説く集団があったと明らかになった。
ここからは死海文書のうち、いくつかを紹介する。
『銅の巻物』は、目録という形で、金や銀を隠した64の場所を挙げている。
隠し場所の多くはエルサレムにある。
隠し財産の総量は、金26トン、銀65トンにもなるが、ソロモン神殿に由来する宝だろう。
68年にローマ軍がエルサレムに侵攻してきた時、その直前にソロモン神殿から宝を運び出して隠したと思われる。
しかし書かれている場所や地形は、2千年前のものなので、現在では変わっており、見つけるのは難しい。
『共同体規則』は、死海文書の見つかったクムランで生活していた共同体の規則が書いてある。
すべての成員は「神の前で契約を結ぶ」、そのような服従を遂行する者は「すべての罪から清められる」とある。
儀式には、洗礼による清めと浄化があり、夜明けと日没に行う祈りもあった。
また典礼的な会衆の食事は、新約聖書・福音書にある最後の晩餐と酷似している。
クムラン共同体とイエスを引き離そうとする学者たちは、クムランの教えには贖罪の観念がないと強調する。
しかし『共同体規則』には、贖罪が明らかに現れている。
『戦争の巻物』は、戦争の戦略や戦術が書いてある。
この文書は、侵略してくる敵「キッティーム」つまりローマ軍に対する、士気を駆り立てる意図もあった。
「キッティーム」と戦う最高司令官は、明瞭に「メシア」と呼ばれている。
メシアを星の子と結びつけているが、これは他の文書でも見られる。
132~135年にローマ支配に対してユダヤ教徒は反乱したが、指導者のシメオン・バル・コクバは自らを「星の子」と呼んでいた。
『戦争の巻物』は、「キッティーム」との戦いを、「光の子」と「闇の子」の激突として描いている。
『神殿の巻物』は、エルサレムの神殿のデザインや調度品を書いている。
興味深いのは、イスラエルの王制を規定する法律が書いてあることだ。
外国人が王になることや、王が2人以上の妻を持つことを禁じている。
さらに王が、自分の姉妹、叔母、兄弟の妻、姪と結婚するのを禁じている。
これらの定めは旧約聖書の『レビ記』に見られるが、王が姪と結婚するのを禁じるのは新しい部分で、後述する『ダマスカス文書』にも見られる。
イスラエルではずっと外国人の王は居なかったが、ローマ軍に占領されて、傀儡の王としてヘロデ大王が誕生した。
ヘロデはイドマヤ出身のアラビア系の人で、最初の外国人の王となった。
そしてヘロデ王朝の王は、自分の姪と結婚した。
この事から、『神殿の巻物』と、次に述べる『ダマスカス文書』は、ヘロデ王朝を批判した文書と考えられる。
ヘロデ大王は、前37年から前4年まで王位にあった。
その息子のアルケラオス(アケラオ)は、王ではなく分封王として、前4~後6年まで統治した。
アルケラオスの弟であるヘロデ・アンティパスも、分封王となり、前4~後39年に統治した。
『ダマスカス文書』は、死海文書で見つかる前に、別の場所で見つかっていた。
1896年に、エジプトのカイロのスィナゴグ(ユダヤ教の会堂)で発見された。
これは欠落部分が多かったが、R・H・チャールズの1913年の編著『旧約聖書の外典の偽典』に収録された。
死海文書には、『ダマスカス文書』も含まれていた。
『ダマスカス文書』では、律法に忠実な者たちが、義の教師によってダマスカスに連れて行かれ、神と新しい契約を結ぶ。
その契約は、前述した『共同体規則』と同じ内容である。
ここに書かれたダマスカスが、有名なシリアの都市を指すのでないことは、文書の内容から明らかである。
ここに書かれたダマスカスは、クムランを指すと思われる。
なぜクムランの場所名が隠されたかは、当時のユダヤ教徒がローマ支配に反乱していた事を考えれば理解できる。
『ダマスカス文書』には、『共同体規則』にはない規定もある。
その1つは、結婚と子供に関するものである。
ドゥ・ヴォー神父は、クムランの住人を独身主義のエッセネ派としたが、そうではなかった事を、この規定は証明している。
さらに、パレスチナに散在する同系の共同体についても書いており、クムランはドゥ・ヴォーの言うような孤立した存在でもなかった。
ダマスカス文書は、『神殿の巻物』と同様に、妻を2人以上持つことや、姪との結婚を非難している。
また、ダマスカスで新しい契約を結んだのに、裏切って偽り者の許へ去っていった者たちについて述べている。
ダマスカス(ダマスコ)という地名は、新約聖書の『使徒言行録』に出てくるが、タルソのサウロが改心して、パウロに改名したのは、ダマスコに行く途中である。
サウロはこの時、エルサレム神殿の大祭司が派遣した、「異端審問官」であった。
サウロは、ダマスカスにいる異端的なユダヤ教徒を取り締まる任務を帯びて、ダマスカスに向かった。
当時の大祭司はローマ軍への協力者であり、サウロはその手先だったのである。
サウロは、最初期のキリスト教徒とされているステファノを石打ち刑で殺した時、それに関与していた。
改心する前の彼は、大祭司やローマ軍の手先で、大祭司やローマ軍(支配者階級)に従わないユダヤ教徒を積極的に迫害していた。
(※サウロは、生まれつきローマ市民権を持っており、裕福な家の出である)
この事を考えると、サウロがダマスカスに向かった時、おそらく武装した男たちを伴っていて、大祭司から逮捕状を渡されていただろう。
当時、エルサレムもシリアもローマ帝国の支配下だったが、エルサレムの大祭司がシリアという離れた地に異端審問の攻撃部隊を派遣して、逮捕や暗殺を行わせるのは、ローマ法的に不可能である。
しかしダマスカスが、シリアの都市ではなく、クムランだったならば、クムランはエルサレムから20マイルのイェリコ近郊なので、可能である。
『ハバクク書注解』は、死海文書の中で、クムラン共同体の年代記に近いものだ。
クムラン共同体が、「偽り者」と呼ばれる者によって、破壊された事を書いている。
偽り者は、高い地位で共同体に受け入れられたが、離反した。
『ハバクク書注解』は、「勝利したローマ軍が軍旗に犠牲を捧げた」と書いている。
これは、共和制時代のローマ軍では行われなかった。
前27年にローマが帝国になり、皇帝が神の位を受けてから、行われるようになった。
だから『ハバクク書注解』は、『神殿の巻物』などと同じく、ヘロデ王朝の時代の文書である。
前63年にエルサレムを侵略したポンペイウスのローマ軍は、まだ共和制の軍だった。
ローマが帝国になったのは、前27年である。
前述した『戦争の巻物』は、侵略者(ローマ軍)の王や君主について語っている。
これも、共和制ではなく、帝制のローマを示している。
要するに死海文書は、イエスの時代や、その後に起きたユダヤ教徒の反乱や、鎮圧しに来たローマ軍との戦いを書いている。
オックスフォード大学のゴッドフレイ・ドライヴァー教授は、ハバクク書注解に焦点を当てながら、「死海文書にある侵略者たちは、66年のユダヤ教徒反乱の時代のローマ軍しかあり得ない」と結論している。
クムランの発掘調査では、ほぼ450枚の青銅の硬貨が見つかった。
それらの主な年代は、次のとおりである。
前103~76年のものが143枚。
後6~41年(プロクラトルの時代)が91枚。
(※プロクラトルは、ローマ帝国の行政官のことである)
後37~44年(アグリッパ1世の治世)のものが78枚。
(※アグリッパ1世とは、ヘロデ・アグリッパというヘロデ王朝の王で、37~44年に王位にあった)
後67年(ユダヤ教徒の反乱の2年目)のものが83枚。
(この分布を見ても、クムランの住民がイエスと同時代の人だと分かる)
クムランの遺跡は、加熱炉の遺跡もあり、矢も複数で見つかっている。
シカゴ大学のゴルブ教授は、「クムランは全くの軍事施設である」と述べている。
ドゥ・ヴォー神父らの国際チームは、クムランには平和主義者のエッセネ派が暮らしていたとするが、それは正しくない。
(2023年5月4&9日に作成)