(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)
エチオピアでは、ソロモン王とシェバの女王の間に生まれたとされるメネリック1世から続く、「ソロモン王朝」が長く続いた。
しかし980年に、女首長グディトがクーデターを成功させて、ソロモン王朝を倒した。
グディトは熱心なユダヤ教徒で、彼女は首都アクスムを攻めて破壊し、ソロモン王朝の皇帝を殺し、2人の王子も殺した。
だが王子の1人が逃げのびて、約250年後にソロモン王朝は復活することになる。
グディトは、「アガウ」という部族連合の長で、彼女が死んで50年後に、北エチオピアはアガウの血を引くザグウェ王が統一した。
この「サグウェ王朝」は、途中でキリスト教に改宗したらしい。
ザグウェ王朝のラリベラ王子は、1140年頃に生まれた。
しかし異母兄のハルバイ王が王座を奪われると心配し、ラリベラを毒殺しようとした。
それでラリベラは、1160年頃にエルサレム王国に亡命した。
ラリべラは、1185年までエルサレムで亡命生活を続けた。
1185年に帰国したラリベラは、ハルバイを退位させて、王位に就いた。
ラリベラは王になると、「11の岩窟教会」を建設した。
プレスター・ジョンは、1165年にヨーロッパの王たちに親書を送っている。
これに対し、1177年にローマ教皇アレクサンドル3世が、プレスター・ジョンへ返書した。
この返書では、エルサレムにある聖墳墓教会の譲渡について触れている。
別ページで詳述したが、プレスター・ジョンとはエチオピアの王である。
だから、1165年にローマ教皇らに親書を送ったのは、ハルバイ王である。
ハルバイ王は、聖墳墓教会の譲渡をローマ教皇に求めたのだ。
だが譲渡について、その後に進展は無かった。
ところが1187年に、サラディンが率いるイスラム軍がエルサレムを征服して、十字軍を追い出した。
するとエチオピア王になっていたラリベラが、1189年にサラディンに使節を送り、聖墳墓教会の礼拝堂を譲り受けた。
その後、ラリベラの孫のナアクト・ラアブは、1270年にソロモンの子孫を名乗るイェクノ・アムラクに譲位させられた。
そしてザグウェ王朝は滅び、ソロモン王朝が復活した。
1165年にプレスター・ジョンは、キリスト教の君主たちに出した親書で、こう書いている。
「私の王国には大勢のユダヤ教徒がいて、半自治権を有しており、しばしばキリスト教徒と衝突している。」
これは当時のエチオピアの状況とそっくりである。
またプレスター・ジョンがフランス王にあてた親書では、「裏切り者のテンプル騎士団どもを処刑されんことを」と書いており、テンプル騎士団を非難している。
(※テンプル騎士団は、フランスの貴族が創設した団体である)
1165年の当時、すでにエルサレムにラリベラ王子が亡命していた。
そしてラリベラを、テンプル騎士団が保護していたと思われる。
だからプレスター・ジョンことハルバイ王は、テンプル騎士団を非難したのだろう。
ザグウェ王朝の君主たちは、皆がジャン(Jan)という称号を使っていた。
これは「王」や「陛下」を意味する言葉だが、「ジョン」と混同されやすかったようだ。
さらにザグウェの王には、聖職者もいたので、『プレスター・ジョン』とヨーロッパで呼ばれたらしい。
(※プレスターとは聖職者の意味である)
『パルチヴァール』では、聖杯組合の団員が独白の中で、「アフリカの奥深く・・・ ローハスを越えて行く」と語っている所がある。
このローハス(Rohas)は、ラリベラが帰国してから首都に定めた町ロハ(Roha)のことだと思われる。
テンプル騎士団は、契約のアークを探し求めていた。
アークはエチオピアに運ばれたとの伝承があり、その国の王子だったラリベラが、テンプル騎士団のいるエルサレムに長く亡命していた。
とすると、契約のアークがエチオピアにあるとの話を、テンプル騎士団が聞いた可能性は高い。
ならば、ラリベラが1185年にエチオピアに帰国した時、テンプル騎士団員が同行したのではないか?
その証拠はあるだろうか。
私は、ラリベラの町(ロハの町をラリベラ王はラリベラに改名し、現在もその名である)を訪れた時に、ベータ・マリアム岩窟教会の天井で 「赤い十字架」を見つけていた。
その十字架は、テンプル騎士団の紋章と同じだ。
実は、ラリベラの町にある、ラリベラ王が造らせた11の岩窟教会は、エチオピアの建築史上でも群を抜いた出来である。
その建設には、外国人が関与したと言われているが、テンプル騎士団は高度な建築技術を持っていた集団だ。
『インド諸国のプレスター・ジョン』という、1520~26年にエチオピアに滞在したポルトガル使節のフランシスコ・アルヴァレス神父が書いた本がある。
これは1881年にスタンレー男爵によって英訳された。
アルヴァレスの記述は、誇張のない信頼に足る詳細なもので、良質の資料とされている。
『インド諸国のプレスター・ジョン』には、アルヴァレスがラリベラを訪れた時の話もある。
彼は教会に行って、高位の僧たちと会話しているが、僧はこう述べている。
「岩窟教会をすべて完成させるのに24年かかり、工事にあたったのは白人であると言います。
工事を命じたのはラリベラ王です。」
教会の工事に従事した白人とは、テンプル騎士団ではないのか。
『パルチヴァール』を書いたヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは、おそらくテンプル騎士団員のギヨー・ド・プロヴァンから情報を得て、アークとエチオピアのつながりを知った。
そして『パルチヴァール』の物語に、その事を暗号化して組み込んだ。
『パルチヴァール』のような民間に流布される物語に、秘密を暗号化して入れておけば、秘密は文化の中でいつまでも保持される。
そして暗号を解読する力のある者ならば、何世紀を経てもアークにたどり着く機会を得られる。
ごくわずかな人にとっては、宝の地図になるのである。
(2024年5月29日に作成)