(『神々の刻印』グラハム・ハンコック著から抜粋)
1~6世紀に北エチオピアのアクスムを中心に栄えた帝国は、ローマ帝国やペルシア帝国と互角の商取引をし、船団をエジプト、インド、中国まで送っていた。
4世紀には、いち早くキリスト教を国教にしていた。
ところが7世紀以降、エチオピアの帝国は孤立した。
それはアラビア半島でイスラム教が興り、戦闘的なイスラム教徒が勢力を伸ばして、キリスト教国のエチオピアはイスラム圏と交易できなくなったからだ。
エドワード・ギボンは著書『ローマ帝国衰亡史』で、こう書いている。
「イスラム勢力に包囲されたエチオピア人は、外界のことを忘れ、外界から忘れ去られて、1000年近くも眠りについた。」
ここでいう1000年とは、7~16世紀である。
だがこの時期でも、エチオピアはほんの少しは外界と接触があった。
例えばエチオピアから亡命したラリベラ王子は、25年も(キリスト教国の)エルサレム王国で亡命生活をした。
ラリベラ王子が1185年に帰国した時、テンプル騎士団が同行した可能性は高い。
その事は別ページに書いた。
ラリベラはエチオピアで王になると、(イスラム圏の)エジプトを飢えさせるために、ナイル川の水量を減らす計画を立てた。
ジェイムズ・ブルースの書いた『ナイル川の水源発見の旅』には、ラリベラ王の治世にふれる数ページがある。
ブルースはこう書いている。
「エチオピア高地を流れる川には、ナイル川に合流するものもある。
その流れを変えれば、エジプトの耕作に適した水かさに達しなくできると気付いた。」
この計画は、当時のテンプル騎士団の野望と合致する。
当時、テンプル騎士団はエジプト占領を狙い、イスラム勢力と何度か合戦していた。
テンプル騎士団は、ダミエッタにある要塞を2年以上も包囲していた。
だがこの計画は、ラリベラ王が死去して中止となった。
そしてラリベラの孫のナアクト・ラアブが王の時に、王座をソロモンの末裔と称するイェクノ・アムラクに譲った。
私は、ベライ・ゲダイ博士から、次のエチオピア伝承を聞いた。
「10世紀に、女王グディトの掠奪を避けるため、契約のアークはアクスムからズワイ湖にある島に移された。
グディトはユダヤ教徒で、アクスムにあるキリスト教の教会を掠奪して火を放った。
アークは、ズワイ湖まで事前に運ばれた。
伝承では70年間ズワイ湖に保管され、それから再びアクスムに持ち帰られた。」
グディトが死んでザグウェ王朝が始まると、ザグウェ王朝はキリスト教に改宗した。
それを見て、アークをアクスムに戻すことにしたのだろう。
(※エチオピアではキリスト教徒とユダヤ教徒が争い、アークをめぐる戦争もあった)
リチャード・パンクハースト教授と話したところ、「1306年にエチオピアの皇帝ウェデム・アラアドが、南フランスのアヴィニヨンに使節を送っている」と教えてくれた。
当時のアヴィニヨンは、ローマ教皇クレメンス5世が居た所である。
その1年後(1307年)に、クレメンス5世はテンプル騎士団の逮捕を命じている。
これは偶然だろうか?
1306年のエチオピア使節について書き残しているのは、イタリアはジェノヴァの地図製作者である、ジョヴァンニ・ダ・カリニャーノである。
カリニャーノは、プレスター・ジョンの領土がインドではなくエチオピアだと断言した人でもある。
エチオピア使節はアヴィニヨンからの帰路でジェノヴァに寄り、そこでカリニャーノと出会った。
カリニャーノは聞いた話を書き残したが、その一部がヤコポ・フィリポ・フォレティの書いた『ベルガモ年代記』に収められて現存する。
次のように書いてある。
「エチオピアの使節は、1306年にアヴィニヨンで、クレメンス5世に会った」
残念なことに、使節が何の目的で教皇に会ったかは、書いていない。
私は推理してみた。
ラリベラ王子と共にエチオピアに入ったテンプル騎士団員は、ザグウェ王朝の下で影響力を持ち続けた。
おそらくテンプル騎士団は、契約のアークを持ち出そうと狙っていたが、それは出来なかった。
その後、1270年にナアクト・ラアブ王が譲位を迫られて、イェクノ・アムラクが即位した。
イェクノ・アムラクは、『ケブラ・ナガスト』を編纂させた人で、自らの王権を正当化するため、自分はソロモン王の末裔だと書かせた。
イェクノ・アムラクは、それまでのザグウェ王朝の王たちと違い、テンプル騎士団という外国兵士を危険視したのかもしれない。
それで子孫のウェデム・アラアド王が、1306年にクレメンス5世に使節を派遣したのではないだろうか。
使節は、契約のアークがエチオピアにあり、それをテンプル騎士団が狙っていると伝えたのではないか。
もちろんクレメンス5世と、それを操るフランス王フィリップ4世が、翌1307年にテンプル騎士団を逮捕したのは、テンプル騎士団のもつ莫大な財産が目当てだったろう。
だが、エチオピア使節の情報も影響したと思える。
1307年に教皇クレメンス5世は、「全てのテンプル騎士団員を逮捕しろ」との大勅書を出した。
当時、スコットランドではロバート・ザ・ブルースが、イングランドと戦争していた。
ロバート・ザ・ブルースは、教皇に従わず、テンプル騎士団をかくまい、自らの軍に加えた。
フリーメイソンの最古のロッジであるスコットランド・ロッジは、バノックバーンの戦いの後に、ロバート・ザ・ブルースが創設したと言われている。
18世紀のスコットランド人のメーソンである、アンドルー・ラムゼイは、著作の中でこの伝承は信頼に値すると述べている。
同時代のドイツ人のメーソン、カール・フォン・フント男爵も、「フリーメイソンはテンプル騎士団を起源とする」と述べている。
18世紀は、フリーメイソンが自らの歴史を公けに語り始めた時期である。
1307年にクレメンス5世がテンプル騎士団の逮捕を命じた時、スコットランドと同様にボルトガルも従わなかった。
ポルトガル王のデニス1世は、一応従うふりをして、1312年に国内のテンプル騎士団の解散を命じた。
しかし6年後の1318年に、ポルトガルのテンプル騎士団は、「イエス・キリストの民兵」 (キリスト騎士団)として生まれ変わった。
そして1319年3月14日には、キリスト騎士団は教皇ヨハネス22世の承認を受けた。
面白いことに、テンプル騎士団が各国で解散させられた後、プレスター・ジョンの国(エチオピア)に関心を持ったのはキリスト騎士団だった。
キリスト騎士団の総長になったエンリケ王子は、1394年の生まれだが、20代になるとプレスター・ジョンの国を目指した。
当時は、地中海ルートでエチオピアに行くのは、イスラム教徒の軍がいて不可能だった。
そこでエンリケは、アフリカ大陸を周航してエチオピアに行こうとし、船を派遣して調査させた。
通説ではエンリケは、エチオピアのキリスト教徒の君主と、反イスラムの同盟を結ぼうとしたという。
エンリケは、キリスト騎士団の総長なので、テンプル騎士団の持っていた秘密の知識を得ていたはずである。
彼は、数学や占星術に没頭し、常にユダヤ教徒の博士を身近に置いていた。
さらにエンリケは、テンプル騎士団の総長と同じく、独身を通した。
1924年に発表されたエンリケの記録によると、プレスター・ジョンの大使がエンリケの死の8年前に訪れていたという。
この会見の2年後に、ポルトガル王のアルフォンソ5世がキリスト騎士団に対し、エチオピアの宗教管轄権を認めたのは、偶然ではないだろう。
エンリケが死んだ1460年に、後継者となるヴァスコ・ダ・ガマがポルトガルに生まれた。
ガマは、キリスト騎士団の団員となり、1497年に喜望峰を回るアフリカ航路を開拓した。
彼はその航海に出る時、プレスター・ジョンに宛てた信任状をたずさえていた。
ガマは、アフリカ探険をしたが、モザンビークで「はるか北にプレスター・ジョンが住んでいる」と聞き、涙を流して喜んだと言われている。
ヴァスコ・ダ・ガマが冒険に出る10年前の1487年に、キリスト騎士団の総長であるポルトガル王ジョアン2世は、プレスター・ジョンに特使を派遣することにし、ペロ・デ・コヴィリャンを送り出した。
コヴィリャンは途中で色々なことに巻き込まれ、エチオピアに入ったのは1493年だった。
彼はエチオピア皇帝に会ったが、軟禁されてしまった。
彼はスパイとして活動していたので、契約のアークについて嗅ぎ回り軟禁されたのかもしれない。
その後、ポルトガルの使節が1520年に、プレスター・ジョンの宮廷に来た。
この時、まだペロ・デ・コヴィリャンは生きていて、そこに居た。
この使節団には、フランシスコ・アルヴァレス神父がいた。
アルヴァレス神父は、「ラリベラにある岩窟教会は白人が造った」という伝承を聞き、著作に書いた人である。
この岩窟教会は、ラリベラ王の時代に造られたもので、私はラリベラと共にエチオピアに来たテンプル騎士団員が造ったと考えている。
アルヴァレスら使節団は、1526年までエチオピアの宮廷にとどまった。
だが結局、エチオピアの皇帝レブナ・デンゲルは、ポルトガルとの同盟を結ばなかった。
1528年に、イスラム教徒の軍を率いてアフメド・イブン・イブラヒーム・エル・ガジ(通称グラニュ)が、エチオピアに攻めてきた。
エチオピアの町や村は焼き払われ、貴重な財物が掠奪された。
1535年にはアクスムも攻撃され、契約のアークを置いていた「シオンの聖マリア教会」も破壊された。
幸いにも、アークはその直前に、別の場所に移されていた。
1535年に、レブナ・デンゲル王は、ポルトガルに軍事援助を頼むことにして、使者をポルトガルに送った。
その結果、1541年にポルトガル人の銃兵隊450人が、エチオピアに来た。
だがこの時には、レブナ・デンゲルは逃亡の中で死去しており、息子のクラウディウスが継いでいた。
エチオピアの年代記に「殺戮を渇望する男たち」と描かれている、ポルトガルの兵士たちは、数々の戦闘で勝利し、イスラム軍を打倒した。
このポルトガル軍の隊長は、クリストヴァン・ダ・ガマで、あのヴァスコ・ダ・ガマの息子であった。
クリストヴァンも、キリスト騎士団の団員だった。
クリストヴァンは、1542年にイスラム軍に捕まり、拷問の後に処刑された。
その1年後に、今度はグラニュが、ポルトガル兵のペーター・レオンに撃ち殺された。
指揮官のグラニュが死んで大混乱になったイスラム軍を、ポルトガル軍とエチオピア軍は追撃し、大殺戮は夜まで続いた。
15年も続いたこの戦争で、エチオピアの文化財は失われ、何世紀も文化は停滞した。
ポルトガル軍は、450人のうち半数以上が戦死した。
エチオピアの死者は、数万人にのぼった。
1600年代の中頃に、皇帝ファシリダスは、シオンの聖マリア教会を再建し、契約のアークをそこに戻した。
エチオピア王室はポルトガル兵に恩義があったが、ファシリダスはポルトガル人たちを追放することにした。
当時、ポルトガル人の入植者は増え続けていた。
ファシリダスは、マッサワのトルコ人たちと取引し、大金を渡してマッサワに到着するポルトガル人を処刑させた。
その後、ボルトガルはエチオピアへ関心を向けなくなった。
(2024年5月30日に作成)