CIAは、薬物を使った尋問の実験や、
過激派への支援を行う

(『CIA秘録』ティム・ワイナー著から抜粋)

アレン・ダレスCIA副長官は、1952年5月に行われた非公開の会議で、こう語っている。

「結局のところ、朝鮮戦争ではアメリカ人は10万人が犠牲になった。

 アジアでそれだけの犠牲を我々は受け入れたのだから、
 欧州の鉄のカーテンの向こう側で少々の死者が出ても、
 心配する必要なんてない。

 少々の犠牲は必然であり、誰かが死ななければならないのだ。」

(この時点では朝鮮戦争はまだ終わっておらず、最終的にはアメリカ兵はこの戦争で17万人が亡くなる事になります)

ダレスは、秘密工作で共産主義を破滅させられると信じていた。

朝鮮戦争がまだ続いている中、統合参謀本部はCIAのフランク・ウィズナーに、「ソ連に対する大規模な隠密攻勢をかけろ」と命じた。

西ヨーロッパで行っているマーシャル・プランは、アメリカの同盟国に武器を提供する条約に変貌しつつあった。

すでにウィズナーは、西ヨーロッパ諸国において、来るべき戦争に備えて湖に金塊を沈めたり、大量の武器を地中に埋めたりしていた。

ベデル・スミスCIA長官は、ダレスとウィズナーの暴走を危惧し、信頼を置いているトラスコット中将をドイツに派遣した。

(ダレスとウィズナーは、長官の命令を無視して、勝手に工作を実施していました。これについては、こちらなどを見て下さい。)

トラスコットの任務は、ウィズナーの部下が何をしているか調べて、危険な計画を中止させる事だった。

そして、『海外での尋問プログラム』とCIAが呼ぶ、暗い作戦を見つけた。

CIAは、尋問をするための監禁場所を設置していた。

1つはドイツ、1つは日本にあり、最大規模のものはパナマに置かれていた。

パナマ運河は、アメリカが場所を押さえて造ったもので、運河地帯にあるアメリカ軍の海軍基地には監禁施設があった。

そこにはCIAの運営する監房もあり、極秘に尋問の実験も行っていた。

薬物を使ってマインド・コントロールを試みたり、洗脳したり、といった実験である。

『海外での尋問プログラム』は、1950年6月に朝鮮戦争が始まるとスタートした。

50年夏には、パナマにロシア人亡命者2人が送られ、薬を投与されて尋問を受けた。

これと並行して、日本の米軍基地では、二重スパイの疑いをかけられた北朝鮮人4人が、同じ扱いを受けた。

上の6人は、『プロジェクト・アーティチョーク』と名付けられたプログラムで、最初に実験動物にされた人間である。

CIAのマインド・コントロールの実験・研究は、15年間も続いていく。

(つまりトラスコットは、この危険な実験を中止にしなかった)

この人体実験プロジェクトは、アレン・ダレス、フランク・ウィズナー、リチャード・ヘルムズが主導していた。

1952年5月15日にダレスとウィズナーは、『プロジェクト・アーティチョーク』に関する報告を受け取った。

これには、ヘロイン、アンタフェミン、睡眠薬、新しく発見されたLSD、といったものの4年にわたる実験が、詳細に記されていた。

(少なくとも1948年には実験が始まっていた事が、この記述で分かります)

それから数ヵ月後にダレスは、『ウルトラ』と名付ける新しいプログラムを承認した。

このプログラムの下で、ケンタッキー州の刑務所で7人の囚人にLSDが投与され、77日連続でハイにさせられた。

民間人のフランク・オルソンにも投与され、オルソンはホテルの窓から飛び降りてしまった。

CIAは、プログラムが世に知られるのを恐れて、ほとんどの記録を破棄してしまった。

残っている証拠は断片的だが、プログラムが50年代にずっと続いた事を示唆している。

『プロジェクト・アーティチョーク』の進捗具合を討議する月例会合は、1956年まで続いた。

(これを見ると、ベデル・スミスCIA長官も承認したと考えるのが自然でしょう)

トラスコットが中止させた作戦の中には、「ヤング・ジャーマンズ(ドイツ青年団)」と呼称するグループを支援するプロジェクトがあった。

ヤング・ジャーマンズの指導者は元ヒトラー・ユーゲントで、会員数は2万人を超えていた。

彼らは、CIAから武器・無線機・現金を受け取り、国内のあちこちで地中に埋めていた。

さらに、暗殺の対象とする西ドイツのリベラル政治家のリストを作り始めていた。

ところが、その存在と暗殺リストが世間に知られてしまった。

当時トラスコットの下で働いていたジョン・マクマーンは、こう語る。

「秘密がばれたため、CIAはパニックに陥った」

(つまり、この作戦をトラスコットが中止したのは、人道的に間違っていると判断したからではない)

ベルリンでは、CIAのヘンリー・ヘクシャーが、ホルスト・エルトマンを支援していた。

エルトマンは、「自由法律家委員会」という組織のトップで、東ベルリンで共産主義体制に抵抗を続けており、国家による犯罪の資料を収集していた。

フランク・ウィズナーは、自由法律家委員会を武装組織にしようとした。

ヘクシャーは抗議したが、ウィズナーはラインハルト・ゲーレンの部下を派遣して、武装させた。

しかし、ソ連軍兵士に見つかり、メンバーは全員が逮捕された。

ウィズナーとその部下たちは、ポーランドでも暗躍し、解放軍「自由と独立運動(WIN)」を支援していた。

500万ドル相当の金の延べ棒や武器を、ポーランドに投下していた。

だが、ソ連の後押しを受けるポーランド秘密警察は、すでに1947年にWINを壊滅させていた。

CIAは作戦は上手くいっていると思っていたが、ソ連とポーランドの諜報機関は数年をかけて罠を仕掛けていたのだ。

CIAは、抵抗勢力と勘違いして、ソ連の工作員をせっせと集めていた。

ジョン・マクマーンは言う。

「CIAの工作員たち数十人が、ポーランドにパラシュート降下作戦を決行したが、待ち構えていた秘密警察に一網打尽にされた。」

5年の歳月をかけて、何百万ドルも投じた作戦は、こうして終わった。

(2015年1月25日に作成)


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