(『ケネディ暗殺』ロバート・モロー著から抜粋)
リー・オズワルドとデイブ・フェリーの交友は、1955年に始まる。
オズワルドは、ニューオーリンズの民間哨戒部隊の見習いになり、彼の加わった飛行中隊の隊長がフェリーだった。
この時期に2人が交流したのは、多くの証言で立証されている。
その後、オズワルドはCIAに雇われて、ロシアに潜入した。
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ロシアから帰国後は、CIAの命令でニューオーリンズに行き、すぐにデイブ・フェリーから連絡を受けた。
フェリーは、オズワルドをガイ・バニスターに紹介したが、バニスターはCIA幹部のトレーシー・バーンズから「オズワルドはCIAと関係がある」と教えられた。
オズワルドは1959年に、ロサンゼルスのローランド・マスフェラーの反カストロ・グループに加わろうとしたが、拒否されていた。
このグループは、当時は「エスカンブレイ第二国民戦線」として知られていた。
62年末に、アントニオ・ベシアーナのALPHA66と合併して、『SNFE/ALPHA66』と呼ばれるようになった。
マリオ・ガルシア・コーリーのCMDグループは、マヌエル・ロドリゲス・ケサダを指揮官において、『SNFE/ALPHA66』のキューバ作戦をニューオーリンズから指揮していた。
オズワルドは1963年8月9日に、ニューオーリンズの街頭でカストロ・シンパのビラを配り、乱闘騒ぎで逮捕された。
そのビラにある活動組織の所在地は、ガイ・バニスターのオフィスのあるビルだった。
同ビルには、マフィアの一員でJFK暗殺の数分後にディーリー・プラザで逮捕された、ユージン・ヘイル・ブレイディング(ジム・ブレイドン)もオフィスを構えていた。
この乱闘騒ぎでは、オズワルドは過激な反ケネディ派のカルロス・ブリンギエルと衝突した。
だが、その2~3週間前には、オズワルドはブリンギエルに接触し、「反カストロの軍事訓練を手伝いたい」と申し出ている。
この矛盾を説明するには、オズワルドがCIAの命令で働いていて、任務が与えられていたと考えるしかない。
オズワルドは、カストロ・シンパのふりをするように指示されて、逮捕される事でカストロ支持者として描写される記録が残された。
この記録は、JFK暗殺後に役立つのである。
この時の逮捕では、オズワルドの保釈金を出したのは、カルロス・マルセロの片腕のノフィオ・ペコーラだった。
1963年の8月か9月に、デイブ・フェリーとクレイ・ショーは、オズワルドと一緒にいるのがルイジアナ州クリントンで目撃されている。
この事実を証言した6人には、州議会議員や保安官代理もいる。
オズワルドは、イーストルイジアナ州立病院(精神病院)に求職し、手続きのためにクリントンに現れたのだ。
そして、一緒にいた人物がフェリーとショーだったと確認された。
オズワルドは、叔父のチャールズ・マレーと子供時代の大部分を共に過ごしたが、マレーはマフィアと繋がりがあった。
マレーは、サム・サイアと付き合っていた。
サイアはマフィアの幹部であり、カルロス・マルセロのトップ馬券屋だった。
(2016年4月8日、5月2日に作成)