タイトル武満徹と五木寛之、加藤周一の対談
日本の伝統音楽について

(『武満徹対談集 創造の周辺』から抜粋)

〇武満徹と五木寛之の対談

武満徹(作曲家)

僕は満州に家族と移住して、生まれて1ヵ月後から7年ほど住みました。

その間は、大連や奉天に住みました。

五木寛之(作家)

僕は朝鮮育ちですが、満州育ちの人は国際的に仕事をしている人が多いですね。

武満

大島渚さんと話したら、「君も満州か。植民地育ちは皆、よく仕事をする」と言っていた。
作曲家では、入野義朗も満州育ちです。

五木

満州育ちは、気楽に外国に出て仕事する人が多い。

それと、ジャンルにこだわらない人が多いです。

武満

僕の父は、ディキシーランド・ジャズが大好きで、大連でしっちゅう聴いてました。

五木

大連やハルピンという町は、アジアの中ですごくヨーロッパ的だから、そういうモダニズムがあった。

第二次大戦中に、南里文雄ら日本のジャズ演奏家は、ジャズを日本で演奏していると右翼が日本刀を持って殴り込んできて、「頽廃音楽をやるとは何事だ!」と言われるのに嫌気がさして、ハルピンや上海に移住しました。

武満

僕の父はダンスの名人で、家にはダンス・コンテストの賞牌がありました。

玉置真吉さん(ダンス教師の草分けの人)は父が教えたのではと思います。

それに父はビリヤードも名人でした。

五木

ロシアの小説に出てくる将校や貴族は、ビリヤード、トランプ、ダンスが必須になっている。

大連やハルピンは、白系ロシア人がたくさんいた所だったから。

武満

僕が子供の時に遊んでいたのは、ほとんどがロシア人の子供でした。

五木

ロシア帝国がハルピンを造った時、フランスのパリと同じように真ん中に広場をつくって、そこから放射状に道路をつくった。

ハルピンは、パリをひな型にして造った町です。

武満

父は身体が悪くなると、家に引きこもって、小鳥を飼い、一日中、尺八を吹いていました。

それで僕は親戚の家に預けられた。
そこは琴の師匠の家で、琴ばかり聴いて反感を持ちました。

今でも、本当に好きだから尺八の曲を書いているとは言えないです。
愛憎こもごもです。

五木

僕は、邦楽を日本の音楽だと感じないんです。

僕は3年ごとに転居する癖があり、京都にも3年ほど住みました。

京都は懐かしい感じがあり、前に来たことがあると感じましたが、分析したところ子供の頃に育った韓国の慶州あたりと非常に似ています。

僕は、周りが朝鮮人だけの田舎の村で育ちましたが、そこと同じ空気を京都で感じたんです。

京都は、日本の中で朝鮮半島や中国大陸の雰囲気を濃厚に持った町で、夏は暑く冬は寒い。

お寺の瓦屋根の傾斜が、朝鮮の民家の屋根の傾斜とそっくりです。

尺八、三味線、琴といった邦楽の楽器は、非常に懐かしい音色ですが、朝鮮半島・中国大陸的な音色なんですよ。

邦楽といわれるものは、それなりに日本に消化させてますが、京都のように日本にとっては異質なものだったと思うのです。

(方丈記を書いた)鴨長明という男は、最初から世捨て人ではなく、出世欲もあり、中国から来た外国酒を飲んで、当時のエレキ・ギターみたいな珍しい楽器の琵琶を弾き、ドラッグ・パーティみたいな事をやっていた。

中国風の外国で流行している服や髪型をして、夜中に仲間と騒いでいて、讒訴された。

それで出世の道を閉ざされて、山の中に籠ったのです。

当時の京都を考えると、ものすごい高層建築の町で、人々は最新流行の服を着て、琵琶などの外国の音楽を弾いていた。

だから京都は、日本の中の異国だったと思う。

仏教のお経は、日本に入ってきた時は、何声部かのコード進行を持つものだったそうです。

それが日本に入ってから、一声部のみの斉唱になった。

リズム・セクションも、入ってきた時はバンドで来たものが、木魚は木魚だけでポクポク叩くし、太鼓は太鼓だけになった。

みんなバラバラになるのが、日本的だと思うのです。

それで邦楽は本質的に、京都と同じで外来のものなんです。

武満

僕が日本の音楽に真面目に取り組めたのは、どうも日本の音楽じゃないと気付いたからなのです。

オリジナルは日本のものじゃない。

例えば琵琶は、ペルシャ辺りにさかのぼる。

雅楽も、朝鮮半島や中国のものです。

外来のものが、どうやって日本化されたかが、僕にとっては大問題なのです。

五木

日本は、どの学問もオリジナルは全部、外国です。

外国から入ってくると、日本の場合は溜まってしまう。
これが日本の文化や歴史の特徴ですね。

つまり入ってきたものが、土着の文化と衝突して勝負し、新しい文化を生み出すのではない。

古代の日本では、外来の文化や外来の勢力が、圧倒的な力で入ってきました。

それで土着のものが制圧されてしまった。
スペインに征服されたアメリカ大陸のインディオみたいに。

さらに外来文化は、北からも南からも入ってきて、一体となって日本に溜まり、(日本はアジアの端っこにあるので)よそへ抜けていかない。

日本の琵琶法師は、外国から新しく三味線が入ってきて流行すると、大胆な奴が三味線に移って弾き始める。

しかし琵琶も元は外来のものです。

そして琵琶も三味線も残っていく。
これが日本の特徴でしょう。

日本に仏教が入ってきた時も、神道が迎え撃ってキリスト教のカトリックとプロテスタントのような戦争になるかというと、そうならなかった。

天皇をはじめとして、皆がワーッと仏教に行った。

それでいて神道も用い続けた。

武満

琵琶の原形はイランにあります。

その原形を聴くと、非常に技巧的で、複雑なことを両手で弾いたりする。

しかし日本の琵琶は、下の弦はほとんど触りません。

琴も、昔は左手も使って技巧的なことをしていた。
しかし今日では、左手は使わず単純なことしかやらない。
礼儀正しく型とおりに弾くだけです。

五木

それは要するに、ポリフォニック(多声部、重層的)じゃないという事でしょう。

外国からオーケストラ的なものが入ってくると、日本ではモノトーン的になる。

日本の音楽がなぜポリフォニックじゃないかというと、外国から入ってくるものが圧倒的に力が強くて、五分と五分の対立がないからです。

言葉でも、元々の日本語と外来の言葉の激烈な抗争はなかった。

音楽でいうと、洋楽が入ってきた時に、邦楽はそれとケンカせずに、細々と生き残っちゃう。

日本の文化は、戦闘を回避する傾向があると思います。

武満

おっしゃる通りで、それは天皇制とも関わりがあると思います。

五木

天皇家は、全力で将軍家(武家)と戦うことはせずに、脇へ退いて生き残りました。

外国から日本に入ってきたものが、どこかの外国に抜けて行けば、そこに流れができます。

流れがあると、必ず渦巻きとか対流が生じる。

だけど入ってきて溜まるだけだと、ある意味では無風状態になるわけです。

それから日本では、身分差別の問題が大きくて、文化全体に悲しみや哀感があります。

「なんで日本の流行歌はセンチメンタルな曲ばかりなんだ、もっと前向きの歌を書け」という人がいるけど、差別問題が根底にあるのです。

日本のポピュラー音楽を支えているのは、差別されてきた階級の人と、蔑視される在日朝鮮人と、ヤクザです。

これは音楽だけじゃなくて、映画や演劇や文学もそうです。

ヨーロッパでもシプシーという差別されてきた人々が、文化で大きな役割を果たしているが、文化を支える状態ではありません。

ヨーロッパはエリート(貴族)が文化を支えてきたが、最近はそのエリート文化が行き詰っています。

私たちは日本の庭園を見ると、「すごく日本的だな」と思うけど、最初に日本で庭園を造ったのは百済(朝鮮)から移民してきた人だと思います。

百済移民の中に、身体に白い斑点のある人がいて、病人だから海に捨てろと言われた時に、「あれは庭を造るのに巧みなのだ」と言う人がいて、天皇家の庭にその男は須弥山という山を造ってみせた。

それに天皇や公卿が感動して、あちこちに造園させた。

それから平安時代の末期までは、中国に留学して帰ってきた禅僧が、石立僧という名で庭を造ってました。

それで、禅僧たちが自分で石を運んできたり土を掘ったりするのではなく、作業は河原者がやってました。

山水河原者と呼ばれる被差別者たちが、僧のプランに従って庭造りをした。

その河原者の中から、善阿弥という庭造りの天才が出た。

善阿弥の息子の又四郎も名人で、足利義政・将軍の同朋衆として迎えられ、天下一の称号をもらった。

芸能全般について、差別される人達が担ってきた歴史が、日本にはあります。

又四郎は天下一の称号を得たが、それでも差別されているという、二重構造があるわけです。

だから彼らの作品には、悲しみとルサンチマンがこもっている。

歌に話を移すと、浪速節の発声を見てもそうですが、声を潰して矮小化していくような方向に美を追求してます。

名人と言われる美空ひばりの歌も、口先だけで歌うものです。

日本語は、腹式呼吸では言葉がはっきりしないのです。

日本語がきれいに分かる歌い方は、腹から出すのはダメで、口先に息をためて歌う声しかちゃんと聞こえない。

言葉には、それぞれ発声法があります。

武満

全くその通りです。

五木

日本の言葉は、四畳半で息をひそめて、辺りをはばかって話すでしょう。

共鳴するような家屋じゃないし、壁をへだてた隣に別の家族が住んでいるから、辺りをはばかる感じがある。

日本人が石で造った響きの良い家に住み、大きな声で伸び伸びと話す生活になれば、歌も明るく変わるでしょう。

(日本共産党の機関紙)赤旗はときどき、「日本の流行歌は涙とか別れを列記して不健康だ」と言うけど、理由があるのです。

武満

あの批判はどうしようもないですね。

僕は沢山の人がスクラムを組んで歌うほうが、不健康に感じられます。

五木

日本共産党とそのシンパは、1952年の時点ではジャズはアメリカ帝国主義の頽廃音楽だと言ってました。

それが3~4年経つと、ジャズはアメリカの黒人たちの喜びと悲しみを歌ったヒューマンな音楽だから、聴かなきゃだめだと言うようになった。

武満

僕が琵琶と尺八とオーケストラのために作曲した時、日本共産党系の批評家から、「1960年の安保闘争の時点であれば良かったが、今の1967年の時点では自民党のプログラムに完全に一致している」と批判されました。

五木

それは、日本回帰の風潮が出ている時に、それを行ったという事ですか。

武満

そうです。

僕が邦楽器を使ったのは、日本への回帰ではなく、全くその反対でした。

五木

武満さんにすごく共鳴できるのは、そこですね。

実は日本回帰を底まで突っ込んで行くと、外国のものに抜けるのです。

武満

同じ考えです。
僕らの仕事はトンネル掘りです。

五木

例えば、「津軽三味線が日本的だ」と多くの人は言うけど、さかのぼっていくと琵琶に行きます。

さらに掘ってさかのぼると、中国大陸に行きます。

さらに掘るとインドに行き、もっと掘るとイランに行く。

恐山のイタコをエキゾチックととらえる人が多いけども、あれは京都のイタクにさかのぼれて、もっと掘ると宮崎県のおしら様に行き、もっと掘ると南方系の外国のシャーマンに行きます。

恐山にイタコが来たのは、大正時代の末です。

天皇家も掘っていけば、何者であるかがはっきりするでしょう。

君が代のメロディだって、向こうのものじゃないですか。

僕は日本回帰に大賛成で、もっともっと堀り下げて行ったらいい。

演歌にしても、元は明治・大正時代の演説から来ていると言われているが、本当は艶の歌が元です。

一休禅師が日記で、遊女の艶歌を聴いて心淋しかったと書いてます。

それを明治の自由民権運動をやった人達が、プロパガンダを加えて演歌にしたのです。

流行歌だと、森進一が代表的ですが、声が上ずったり下がったりするでしょう。

「音程を外すほど声をゆさぶるのは不自然だ」と言う人もいますが、あれは装飾的なゆさぶりなんですよ。

武満

だけど、量産されている流行歌は、下らないものが多いと思う。

フォークソングにしても、下らないものが多い。

五木

僕も今の流行歌はダメだと思う。

非常にイージーだし、ダメなのが多いです。

だけど流行歌で面白いところは、明治時代から音楽教育はドレミファソラシドの枠にはめられてきたけど、歌手の村田英雄も森進一も、フレーズの終わりの所は音程が上ずる。

あれは音程が悪いのではなく、ブルースにブルーノートがあるように、艶歌ノートだと思うのです。

民謡だって語尾が上ずる。

それで日本の流行歌手には、「両性具現の歌手」と「単性の歌手」があります。

東北出身の歌手は、単性歌手です。

これに対し南の出身の歌手は、西郷輝彦、森進一、前川清、にしきのあきら、郷ひろみなど、両性具現のものがある。

日本の神話では、日本武尊が熊襲の征伐をした時、彼は女装した。

それで熊襲の兄には女として近づき、油断させて殺した。

次に熊襲の弟には男で近づき、弟の尻の穴に剣を刺すわけです。

その時に熊襲の弟は、「その剣を抜かないでくれ。お前はなんと素晴らしいのだ。私は死ぬが、あなたはこれから日本武尊と名乗りなさい」と言って、喜悦の表情で死んだ。

一種の情死みたいなものです。

熊襲の住んでいた九州は、昔から稚児の本場で、両性具現の要素があります。

女装することで、女の力を加えて、両性具現になる。

大本教の出口王仁三郎は、神がかりの事をする時は、女装した。
この女装は、女の力を加えるもので、男の力はそのまま残っている。

両性具現は、一人の人間の中で精神的な生殖を行うことです。

歌舞伎の女形は、男が女になることで、両性具現の美を発揮するわけです。

石川啄木や宮沢賢治といった北の芸術家は、哲学性や観念性が濃厚にある。

それに対し南の芸術家は、肉体的で官能性がある。

日本の音楽を論じる時に、差別の問題と性の問題に光を当てないと、全部嘘になると思っています。

〇武満徹と加藤周一の対談

武満徹

僕は変則な形で作曲家になったと思うんです。

日本が敗戦した時(1945年)に中学生でしたが、教室に帰ってみたら学校は全く魅力のないものになっていました。

身体を悪くして寝ていたら、進駐軍の放送でトスカニーニやワルターなどのクラシック音楽を聴くようになり、心の奥底から鼓舞された。

それまでクラシック音楽には全く興味がなかったんです。

僕は伯母の家で育てられたのですが、伯母は琴の師匠でした。

だけど琴に心が動かされることはなくて、どっちかというと嫌いでした。

僕はベートーヴェンのような音楽家になりたいと思ったが、周りにそういう音楽をやっている知己がありませんでした。

それで、ベートーヴェンなどを聴いて勉強している時、文楽を見に行って三味線の連弾きにとてもびっくりした。
日本にもこういう凄い音楽があったのかと。

それからは日本の音楽も、最初はとっつきにくかったですが、聴き始めました。

僕はベートーヴェンたちの西洋音楽に深い所で鼓舞されるけど、自分の音感は三味線なんかがよく分かるんです。

琵琶に興味を持って、筑前琵琶の先生に2年ほど習いました。

それで日本の楽器を使って作曲もしましたが、最近になってもう一度ヨーロッパの音楽を勉強し直したいと思うようになりました。

自分は今まで、本当にはヨーロッパ音楽から正しい影響を受けなかった気がしてならないんです。

僕が気になっているのは、『日本の音楽は元々は日本のものではなく、外国から来て日本化したものだ』という事です。

加藤さんが書かれた『日本文学史序説』を読みましたが、外来のものが日本化する問題を書いています。

文学と音楽の日本化は、根は同じだと思います。

音楽だと、日本化の過程で、うっかりすると頽廃的な所に落ちていく気がします。

加藤周一(評論家)

日本に入ってきた音楽は、どう変わっているのでしょうか?

武満

インド、朝鮮、インドネシアなどの音楽や楽器を調べると、それが日本に入ると、音階から離れていきます。

日本では、音階をどちらかというと拒否して、1つの音で充足して、さらにそれを磨き込んでいく事で無に向かう。

つまり日本では音楽が、自然界の雑音と同じものになって行くのです。

例えばインドの音楽では、大事なのはラーガという音階で、朝の音階や雨の音階があります。

リズムもターラという構造があり、数学的な精緻なリズムです。

インドネシアにしても、五つの穴を持つ竹の縦笛があり、それは音が出しやすくて、明るい音階です。

ところが日本に入ってきて尺八になると、音を出しにくくして、1つの音を非常に複雑にしていきます。

加藤

日本の発声法もそうでしょう。

日本では、楽器を声楽化する(人間の声に近づける)。

尺八は、楽器の声楽化とも言えるのではないか。

日本の発声法は、わざとしわがれたような声にして、非常に複雑な音にしている。

武満さんの言うように、その根は深くて、多くの日本文化が同じ根から出ていると思います。

例えば焼き物でもそうで、中国の焼き物は明るくて綺麗な形に整っている。

その典型は宋磁で、あれだけ綺麗な焼き物は世界でも他に無いかもしれない。

それが日本に入ってくると、表面が複雑でザラザラしたものになり、形もいびつになる。
自然の土や何かに近づいているわけです。

だから日本のものは、こっちの面はザラザラで、こっちの面はなめらかという具合に、部分部分が独立した意味を持っている。

日本の伝統音楽も、全体の構造よりも、1つ1つの音が自己完結的な意味を持ってくるんです。

文学でも同じで、中国の種本があって、それを日本人が手直しした説話がたくさんある。

中国の原文と日本のものを比較すると、話は同じなのだが、中国の原文は話の筋に関係ないことは省くわけです。

ところが日本のは、必ずある部分が詳しく書かれている。
しかも、その部分の詳しさが、話の全体を理解するために全く必要がない。

武満

日本の江戸期の音楽を言うと、大体は芝居にくっついていて、音楽は極めて限られた手になっています。

音楽はパターンがはっきり作られて、それを組み合わせるだけなんです。

だから江戸時代に演奏の名人が出て、新しい手を作ったりしても、新しい旋律を作るとか、新しい歌を作る感じではない。

加藤

それはつまり、標準化ですよ。

日本は部分を大事にするだけでなく、標準化して組み合わせる、プレハブ建築のスタイルなんです。

能を見ても、型を1つ1つ固定して、標準化し、様式化しています。

この傾向は実に強いと思う。

武満

よくベートーヴェンの音楽は「音による建築だ」と言いますが、あれは石やレンガの建築ですね。

1つ1つのレンガは、ドレミファのドと同じで、それ自体は単純です。

ところが日本の音楽は、1つの音に大変な意味がある。

1つの音が洗練されて複雑なので、作曲する側からすると非常に具合が悪いのです。

尺八は、1つの音を「ふーっ」と吹くと、それでもう1つの世界が出来ちゃうわけです。

僕の知っている尺八の先生は、無作為に1つの音を吹いて、その音だけを1時間くらい吹き続けて練習することがある。

ところがヨーロッパ音楽の練習は、まずドレミファといった音階をやるでしょう。

僕は常々、日本の作曲家はヨーロッパで言う「アレグロ」(快速のリズム)を書けないと思ってます。

日本の曲は、どちらかというと遅くて、スタティック(静的)で、そこに内部運動のようなものがある。

あと僕は、素晴らしい様式だと思いながらも、ヨーロッパのソナタ形式で曲が書けません。

ヨーロッパの音楽で最も親近性を感じるのは、ドビュッシーの音楽です。

僕はオーケストラの曲を書いても、およそ非ヨーロッパ的にオケを使っちゃう所があるんです。

加藤

西ヨーロッパの音楽、ことに近代音楽は、1つ1つの音はわりに簡単で、全体の構造で勝負するでしょう。

だから他の楽器でその曲を弾いても、違和感がない。

それと日本の伝統音楽は真逆だと思う。

武満さんはドビュッシーに親近感があると言ったけど、ドビュッシーは1つ1つの音がわりに独立していて、ヨーロッパの中では特殊だと思います。

それにソナタ形式は、アメリカでも馴染まなかったでしょう。
アメリカの作曲家でソナタを書いた人はいないんじゃないか。

武満

厳密には居ないでしょう。

加藤

ドイツとオーストリア以外では、本当に大事なソナタは書かれていない。

それと同じに、19世紀の印象派の絵画も、多くの画家が真似したけども、フランスの外では一流作品は作られなかった。

要するに、ソナタ形式とか印象派は、地方的な言語だと思うんですよ。

建築で言えば、ゴシックは少し普遍的で、北フランスで生まれたけど、ヨ-ロッパの各国で傑作が生まれた。

だから日本人が外国の芸術をやる場合、普遍的な言語を見分けないといけないと思います。

それでシェーンベルクやストラヴィンスキー以後の(現代音楽の)言語は、ソナタよりも普遍的と思うんです。

武満

たしかにドビュッシーやシェーンベルクの以後(のクラシック音楽)は、普遍的な言語だと思います。

シェーンベルクの12音という考え方は、調性の機能を壊したけど、普遍的な言語という所から出発しているのです。

西ヨーロッパの音楽は、普遍化と記号化を進めて、世界のどこでも同じように演奏できるようになった。

ところがインドの音楽を見ると、共同体的なもので、他所へ運ぶと変わってしまうので持ち運べない。

さらに日本の音楽だと、共同体でもなくて、個人の芸として完結しちゃう性質がある。

加藤

それは、芸術の共同体への組み込まれ方だと思う。

インド音楽の共同体は、演奏者だけでなく、聴衆を含めての共同体でしょう。

持ち運びできないというのは、音楽の共同体への組み込まれ方が高いということ。

持ち運べるのは、社会と音楽が切れていて、抽象化されているわけです。

ヨーロッパの音楽でも、昔の閉ざされた村で村人が集まって合唱したような音楽ならば、音楽と生活が一体になっているから、その感動はカーネギー・ホールで歌わせても再現できないでしょう。

共同体から離れていくと、持ち運びが可能になり、文学ならば翻訳が可能になっていく。

日本の伝統芸術は、むしろ生活や社会にくっついていく傾向が強い。

さらに演奏者の肉体ともくっついていく。

尺八の表現は、感情も入るけど、身体的な表現も入る。

日本では器楽も肉声化するので、その人の感情がはり付いていく。

イタリアのオペラだと、言葉と音楽がだんだん離れる。

だから話の筋を知らずに歌だけ聴くと、喜んでいるのか悲しんでいるのか分からない事もある。

日本はそうじゃなくて、言葉や感情に即そうとする。

武満

日本の音は、1つ1つが複雑なので、うっかりすると頽廃的になっていきます。

最近の日本の作曲家は、僕を含めて邦楽器を使うのが盛んです。

ところが、指揮者が出てきて棒を振り、それに琵琶や尺八まで合わせてドーンとやったりすると、非常に具合が悪い。

それだと、日本の音の良さは無くなっちゃうわけです。

加藤

珍しい形なので聴き映えはするのでしょうが、つまらない事だと思いますね。

武満

日本の楽器と西ヨーロッパの楽器を一緒に使う場合、ブレンドするのではなくて、この2つで仮設的な提示をするより仕方ないと思うんです。

ブレンドさせると、音楽的に面白くても、よく考えると違うなと思うのです。

(2023年1月26日~2月1日に作成)


NEXT次のページに進む

目次【音楽の勉強】 目次に戻る

目次【私の愛するジャズアルバム】 目次に行く

home【サイトのトップページ】に行く