タイトル武満徹と大江健三郎、谷川俊太郎の対談 

(『武満徹対談集 創造の周辺』から抜粋)

〇武満徹と大江健三郎の対談

武満徹(作曲家)

大江さんはオペラがとてもお好きだし、音楽と言葉について等を話していただけたらと思います。

大江健三郎(作家)

僕は、武満さんの新作「カトレーン」を先日に聴きに行って、色んな事を考えたんです。

少し前にラジオで、日本人の演奏するメシアン作曲の「ときの終わりのための四重奏曲」が流れた。

とても惹きつけられて、翌日にレコードを買いに行きました。

そのジャケットを読んでいたら、メシアンは「この曲は神の国が来る時のための四重奏曲で、色んな人がこの大きい主題に取り組まねばならない」と書いていた。

それから一週間して、武満さんから電話があり、同じ編成で曲を書いていると言われて、とてもありがたい気がした。

その演奏会を聴きに行って、とても感動したわけです。

これまでは武満さんとの思い出で一番浮かぶのは、武満さんがハプニングをやっている時で、ハプニングの舞台でカードとか時間とか、ある偶然性みたいなもので音楽をやっていた時の、自信のあるような無いような顔でした。

あの当時は、武満さんの音楽は僕の中に入ってこなかった。

それが「カトレーン」を聴いて、ここまで武満さんが来られたと強く思ったのです。

メシアンは自分自身と和解しているが、武満さんは自身と対立している。

自己否定の方向で音楽を作っておられるから、メシアンとすっかり違うと結論しました。

武満

実は「カトレーン」は、僕の音楽では今までと違ったものです。

カトレーンには、調性への志向があります。

ヨーロッパの新しい音楽(クラシック界の現代音楽)は、調性を破壊する事から始まりました。

調性を否定する事から、シェーンベルクとかウェーベルンの音楽が出てきた。

だけど僕は、音楽を単純に調性とか非調性で捉えられなくなった。

僕が調性を志向した事を、音楽的な後退と見る人もいますが、一面的な見方だと思います。

僕は過去の音楽に帰るのではなくて、調性の中から役立つものを整理して、今度の作品を書いたのです。

大江さんの指摘されたハプニングとか、これまでの試行錯誤は、あまり実らなかったけれども、それを経て調性への見方がずいぶん変化した。

いま多くの(クラシック界の)作曲家が、過去(調性のある音楽)を怖れているけど、調性を避けることでかえって自由がない。

それについて僕は反省しました。

あとは、僕はもう20年も音楽をやっていて、先日に45歳になりましたが、これから出来る事はさして多くないのではと思って、必要なこと以外はやりたくない気持ちがあります。

大江

僕は、武満さんは前に進んでいると思う。

僕の息子は、絶対音感があるけども、特殊学級に行っている子です。

武満さんのカトレーンを息子と聴いていたら、息子が苦しみ始めた。
苦しんで僕を蹴っ飛ばす。

彼はレコードをよく聴くけど、回転数がほんの少しおかしくなっても気付く耳を持ってます。

彼は音楽を聴くと調性で捉えようとして、ある調は他の調とすっかり違うと感じるらしいのです。

それで別の調が始まると、その瞬間にクスクス笑ったりして幸福そうな顔をする。

武満

メシアンは、色聴というものを持っていて、ある音には色が見えるらしいです。

僕は絶対音感を持ってないから判りませんが、1つの調はそれぞれ独自のものがあるんですね。

大江

うちの子は、「武満さんの曲は調が無い」と言う。
「調がバラバラだ」と言って怒る。

今度のカトレーンも、やはり調が無いとうちの子は考えているわけです。

武満

僕は、調性というものは閉ざされたイメージを与えるけども、本来は開かれたものだったと思うんです。

僕は調性を否定するんじゃなくて、大きな調性、全的な調性を肯定したいのです。

メシアンは熱烈なカトリック信者ですが、僕が信じられるものは音楽そのものなんです。

僕の書いた「カトレーン」は、明らかにモデルとして「ときの終わりのための四重奏曲」がありました。

あれを書く前に、今年の3月に5時間くらいメシアンの個人レッスンをニューヨークで受けた。

メシアン先生に、この編成で作品を書きたいと思うと言ったら、日本人が書いたらとても面白いかもしれないと言われて、あれを書いたのです。

大江

僕はカトレーンの演奏会で、演奏家たちから主題の把握や方法の把握からくる自由さを感じました。

前衛音楽は、「本当に理解されたのかという不安が作曲家にあるのかな」と思ってきたけど、カトレーンにはその不安がなかった。

武満

音楽作品は演奏されることで、生きた情報や信号になると思うんです。

それが最近の僕たちがやっている音楽は、あまりに美学的な音楽を目指しすぎている。

それはなぜかというと、人間がサイレント・インフォメーションに頼りすぎるからです。

テレビは、サイレント・インフォメーションと言っていいと思う。

やはり音楽は、サイレントじゃなくて、生きたインフォメーションにならなきゃいけない。

大江

音楽は、音が暗号として我々の心に入ってきて、それがダイナミックな力を巻き起こして情報になると思うんです。

文学では、イメージがその暗号であって、その暗号の無いものは文学的な表現力を持たないと思います。

作家は、色んな暗号を仕組み得るような、豊かな言葉に憧れている。

音楽と日本語に話を移すと、沖縄の音楽や詩歌は日本と違うと感じます。

沖縄の人のリズム感覚や発声も、我々とは違う。

武満

昨日はNHKホールで韓国の古い音楽を聴いたのです。

日本の雅楽の起源は、朝鮮や中国から入ったものですが、韓国の音楽を聴いたら日本と全く違う。
非常に生き生きしている。

朝鮮の歌のリズムは、大体は3とか6が基本で、速度を変えることで2に感じられたり、また3に感じられたりする。
実に立体的です。

ところがそれが日本に入ってくると、なぜだか他との関係で動くことを拒否するものにされている。

僕たち日本人が未来の音楽を考えるとき、朝鮮の音楽が非常に参考になると思うんです。

日本の音楽の元になった朝鮮の音楽などに、ヨーロッパ音楽に対するように目を向けないとダメなんじゃないか。

日本は今、アジアで音楽の先進国みたくなっているけど、ひとつも先進国じゃない。

大江

日本人は、「朝鮮の側から日本を見る、そしてそれを自分の中に取り込んだ上で日本人を見る」というダイナミックな態度がなかなか出てこない。

日本の文学は、「ヨーロッパやアメリカの影響がある」と言いながら、持ってきたものをすぐに一面化してしまう。

だからダイナミックな力が生まれない。

武満

物事を多様なダイナミックな関係でとらえない。

そういう日本人の気質を、加藤周一は「遡行性記憶喪失症」とか言ってましたね。

大江

日本人は、ダイナミックな(動的な)ものよりは、スタティックな(静的な)、統一されたものを愛する態度が根本にあるんじゃないか。

それは政治でいえば天皇制で、天皇制への根本的な否定が出ない。

「民主主義を考えよう」と言う人達が、憲法的な根拠があるか分からないのに天皇を陛下と呼んで、天皇の園遊会に出掛けていく。

朝鮮の問題でも、「北朝鮮を原爆で叩く」とアメリカが言って、日本の大学の先生がそれに賛成するというおかしな事が起きる。

朝鮮人への侮蔑は、天皇ヒエラルキーの下の日本の保守層にずっとありますね。

それを克服しないで、朝鮮文化を学ぼうと言ってもダメです。

自分の中にダイナミックな対立的なものを取り込む、訓練をしなければいけません。

そして自分の中の絶対的なものを取り除いていかなければならない。

そこを考えないで、日本人の新しい表現はないと思うんです。

〇武満徹と谷川俊太郎の対談

武満徹(作曲家)

近頃の日本の音楽家たちは、日本語を扱う困難や苦しみを感じるようになったと思う。

それで音と言葉について話したいんです。

谷川俊太郎(詩人)

俺は、日本語に関して苦しいとか困難を全然感じない。

日本の詩が行き詰っているとの気持ちは全くない。

むしろ詩の世界は少し開けて、自由になってきてる。

武満

僕はひところ、詩の雑誌などに拒絶反応を起こしていた。

読んでも分からないし、しちめんどくさいものがあった。

それが近頃は、マシになりつつある。

谷川

詩を書いている人間は、日本語の特質とかは意識してない気がするわけ。

僕らは一種の勘で言葉をつかまえている。

その勘は、時代と一緒に動くし、自分の年齢とも一緒に動いている。
勘は固定したものじゃない。

武満

でも僕は、音を使うことの困難さは確かにあるわけ。

それに日本語の問題は、ずいぶんと論じられています。

谷川

あなたの感じる困難は、どういう困難なの?

創造行為は、常に困難を含んでいるわけで、スラスラ書けるのは天才かバカ以外にいないと思う。

武満

僕が使いたい音は、ある意味ですでに音として充足しているわけです。
それだけで、ある美しさを持っている。

日本の楽器は、かなりそういう所があります。

それで、うっかりするとその音に自分の身体ごと浸かって淫してしまい、その音を磨くことだけに夢中になってしまう。

谷川

俺は仕事をどっかで選んでいる。

何を基準の選んでいるかが、ときどき分からなくなるわけよ。

あなたも流行歌を書かないでしょ。

芸術には、一種の階級制度がある。

音楽でも、クラシックが上で、ポピュラーや演歌や下みたいに、勝手に上下をつける。

俺が困難を感じるのは、そういうものなの。

武満

僕は、ジャズやロックや流行歌を差別しないし、聴いて楽しんでいる。

だけれど自分が作る曲は全く違う。

女房は、「ロックやジャズに色気を見せている、だらしない」と言うんです。

僕は仕事の選り好みが激しくて、自分でもその辺りがよく分からないのです。

近頃は僕の所にまで、「テレビのCMに出て下さい」なんて言ってくる。

それも、作曲ではもらえないような大金で言ってくるわけ。

だけど僕は、「私を何だと思っているのか」なんて言っちゃうんだ。

ところが野坂昭如なんかはテレビに出るでしょう。三島由紀夫もそうだ。

僕は「なんだよ、あいつ」と思いながら、反面では「ステキだな」と思いもする。

谷川

俺は詩を書き始めた頃、詩だけじゃ食えなかったから、仕事を広げてきた。

それが数年前から、すごく仕事の幅を閉じてきつつある。

東京から群馬に引っ込んで、マスコミとの接触も少なくしていきたい。

俺がいま一番感じるのは、言葉も音楽も、現実の把握の仕方が希薄な気がするわけ。

我々は、現実生活と切り離して自分の仕事だけを問題にしてたけど、もっとトータルに生きないと創作で当面している問題を解決できない気がしている。

武満

僕が仕事を選ぶ基準は、肯定できる人間関係をつくり出せるかどうかだな。

そこには聴衆や観客も含まれる。

外国の作曲家は、「音楽とは何か」なんてあまり論じないね。

それを論じなければならない、日本の特殊な現実がある。

谷川

日本は音楽に限らず、根本から常に問い直さないと全てが分からなくなる。

それはやっぱり、明治維新で一種の空白状態が生まれて、それが未だに埋まっていない。

という事は、100年くらいでは本当の手触り(現実生活や文化)は出てこないという事なのよね。

だから詩人でも鋭敏な人は、かろうじて残っている手触りを、江戸文化の残り火に求めるわけ。

武満

でも僕は、日本の古楽器で作曲する時、納得いかない面がたくさんある。

「本当にこいつら(日本の楽器)が過去のものだったらありがたいのに」と思ってしまう。

中途はんぱな形で現在に残っているし、もしかしたら過去の亡霊かもしれない。

僕は、明治からの日本は部分的に間違っていたにせよ、簡単には否定できない。

僕が詩にいつも感じるのは、今の詩人はとてもおかしく感じられるわけ。

詩人が毎月、雑誌に詩を載せるようなことに、非常に違和感がある。

詩というのは、嘘も真実もひっくるめた、大きな真実だと思うんだ。

その大きな真実を、今の詩人は生きていないと感じるわけ。

谷川

その通りだと思う。

今あなたが言った事を、俺の言葉で言えば、猥雑で大量な現実から、詩は栄養をとっているはずなんだよね。

それが、抽象的な観念から詩は栄養をとれると、誤解したところがあると思う。

武満

本当の美しさや澄んだものは、非常に猥雑なものの上にしか生まれない。

谷川

あなたが今の詩人に違和感があるのは、詩人に才能がないのではなく、日本語がダメなのでもなくて、詩人が本当の生活をしてないからだと思うんだ。

詩人は、もっと本気で生きなきゃいけないんだよ。

本気で生きれば、晩ご飯で飲んだ味噌汁と自分の詩がつながるはず。

武満

つながると、非常に分かりやすくつながるから困るんだよね。
単純につながっちゃうから。

この間、作曲コンクールの作品を聴いていて、「どうしてこう生活がないのか」と思ったなあ。

谷川

でも、俺があなたの対話シリーズを読んで感じたのは、あなたがイマジナリーな世界に生きているという事。

俺はもっと現実的な世界に生きてる。それは非常に感じた。

俺は、1本の釘とか1個のコップがすごい気になるわけ。

あなたに俺が「1つの椅子を想像して下さい」と言った時、あなたはすぐに「絵の中の椅子を想像する」と言った。

あなたにとって椅子は、現実にここにある椅子じゃなくて、絵の中の椅子なのよ。

武満

僕はゴッホの絵の椅子とかが、すぐに浮かぶんだな。

谷川

それはとてもイマジナリーなの。

俺はむしろシュールリアリズムをほとんど理解できない。

例えば生演奏を聴いていると、プレイヤーが舞台の上で弾いてるほうが先で、それを排除して音楽に入るのにすごく抵抗がある。

武満

言われてみると、いつも作曲するとき、人一倍「演奏者の肉体」とか言っているのに、演奏者のことを考えていないな。

谷川

イマジナリーな世界を強く見ている人は、芸術家タイプで素晴らしいことなんだよ。

俺は逆のタイプだから、その素晴らしさがよく分かる。

イマジナリーな人は、少数派ですよ。

大江健三郎さんもあなたも、想像力という言葉に高い価値を与えて使うでしょう。

でも俺に言わせると、想像力にはうさん臭いものがあるわけ。

武満

ある程度、分かる気がする。

谷川

あまりにもイマジナリーな世界で、フワフワ風船みたいに浮いてるのは意味がないと思うわけ。

日常の手触りがないと、おかしいと思うんだよね。

俺の想像力は、「自分の女がどう思っているんだろう」とか、「俺がこういう態度だったら、あいつはどう感じるだろうか」とかなの。

あなたの想像力は、それとは違うね。

武満

いや、僕は現実を冷ややかに見ている部分もあるんだ。
そうでなければ作曲できない。

作曲は、陶酔しつつ、それを冷ややかに見なければ、譜面に書けない。

ときどき、音楽が身体の中で鳴る時があります。1年に1度か2度。

それを音符にするには、物理的な時間が要るわけ。
そうすると、途中でしらけてくる。

だから身体の中で鳴ったものが、音楽になった事はまだありません。

谷川

その場で歌えばいいんだよ。

武満

自分が歌えたらどんなに良いかと思う。

音楽なんて、オーケストラの形じゃ残らないし、これまでの音楽が後々まで影響を及ぼすことも少ないと思う。

谷川

それは、そう「なる」ものじゃなくて、我々が「する」という面があるわけでしょう。

武満

日本は、西洋音楽のモルグ(屍体置き場)になってきている。

ヨーロッパでは、オーケストラが平服で演奏しているのに、日本人だけがドレスアップしてたりする。

日本の音楽家は、西洋音楽のスタンダードを大事にしようという意識がとても強い。

昨年の暮れは、東京だけでベートーヴェンの「第九」が6ヵ所で演奏された。
考えてみると、凄くグロテスクなことだよね。

谷川

この間の国連での演奏会は、酷いもんだったね。

武満

あんなに酷いものはない。

僕の仲間が作曲したり指揮していたけど、「いつもあんなにいい気な態度でやっていたのか」と思った。

あんなものは、やらないほうがいいよ。

(2023年1月31日~2月1日に作成)


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