(『武満徹対談集 創造の周辺』から抜粋)
〇武満徹と三善晃の対談
武満徹(作曲家)
僕は歌を書きたいけれど、いつも臆病になって書けない。
日本語を汚く発音させることが何よりも怖いのです。
それと(他の人の書いた)詩を読んでみて、詩の持つ自由な働きかけを、自分が曲にすることで限定してしまうのが怖い。
あと、日本の色々な歌を聴いても、好きなものが少ない。
その詩と同じくらいに膨らんでいる歌の作品があまりない。
最近、ラヴェルの生誕100年で、彼の歌曲が盛んに演奏されてます。
それで初めて聴いたものがずいぶんあるけど、素晴らしいんだ、膨らみ方が。
今までドビュッシーの歌曲を素晴らしいと思っていたが、ラヴェルも素晴らしいと気付いた。
三善晃(作曲家)
武満さんが素晴らしいと思うのは、音楽が自律性を持っていると感じるからでしょう?
武満
そう。つまり詩と音楽が理想的な状態と感じます。
三善
私は今、合唱曲を書いてますが、言葉(詩)がもう決まった旋律を、初めから持っているのです。
だから旋律を動かすことができず、困っています。
武満
とてもよく分かる。
僕も日本の楽器を曲に使う時、似たような問題を感じます。
でも言葉のほうが深刻ですね。
日本語で面白いと思うのは、「生かす」とか「いく」という言葉が、2つの顔を持っている事です。
花を活けるとか、生きるは、語源は同じでしょう。
それで「いける」という言葉には、生かす意味と、死んだものを埋める意味と、2つの意味がある。
僕は琵琶とか尺八という日本の楽器を使う時、どうやって生かすかを考えるけど、どのような弔い方をするかも考えます。
三善
生と死が1つである時に、それはドラマであると思う。
日本語は生と死を合わせて含むという意味で、即時的にドラマになっちゃう。
武満さんが邦楽器を使う時も、その1音の中に僕はドラマを感じるのです、1音の中に。
生と死が同一の形質を持っているために、日本語の歌曲に武満さんの好きな作品がないのかもしれない。
武満
自分の作品を含めて、邦楽器を使った曲の中に好きな作品がないんだ。
面白い作品だと思っても、好きになれないのです。
三善
明治時代からある小学校の唱歌のほうが好きなんじゃない?
武満
あのほうがずっと好きなんだ。
三善
それはラヴェルの歌曲を良いと思うのと、無関係じゃないと思う。
武満
最近、僕の文章を読んだ人から手紙が来て、その人は共感したと言って手紙をくれた。
でも全く違う受け取られ方をしていて失望しました。
その方は、「西洋の音と違う日本の音があることを、よくぞ指摘してくれた」と言うのだけど、僕は西洋の音がどんなに僕にとって大事かを言いたかったわけ。
日本の場合、2つのもの、例えば善と悪でもいいけど、それを判断する絶対的な価値基準がない。
それは神が無いと言ってもいい。
(※神がないのではなく、あらゆるものが神だと考える文化が日本にはあるというのが正しいと思う)
日本の音楽は、特殊な洗練のされ方や発酵の仕方をしていて、頽廃が感じられるんです。
そういう音になったのは、宗教からの離脱が原因だと考えています。
だからといってキリスト教に入信するといった解決をする気はないですが。
僕は作曲する時、かなり緻密なプランを立てます。
でも実際に書き始めると、プランから離れようとする意識が強くなって、出来上がるものはまるで違ったりする。
日本の音にひそむ情念を褒める向きもあるけど、僕はそれに従って作曲したいとは思わない。
近頃の日本の現代邦楽は、情念のカスばかりが聴こえて仕方ない。
僕は、三善さんが邦楽器とオーケストラのコンチェルトを書いていると聞いて、ちょっとショックだった。
でも結局、書かなかったでしょう?
三善
書けなかったんだ。
そういえばあなたは、「三善は邦楽器を使わないから好きだ」と言った事がある。
僕は作曲している途中で、楽器たちと自分がコミューン(共同体)の中にいる気がするのです。
作曲では、そのコミューンを構造として即時的にするために、ディスコミュニケーション(コミュニケーションを断つことを)しなければいけない。
そうなると、2年も3年も怖くてしょうがなくなる。
ある時、楽器が置いてある部屋に1人で入ったら、楽器たちが会話していて僕が入ったために止めたという感じがした。
その頃から、楽器が何をできるかを考え始めた。
それまでは逆だったと思う。
あと、学生から「結婚したり子供ができると作曲は変わるか」と訊かれた事があるけど、変わりますね。
僕はデッサンを書きまくるタイプだったけど、結婚してからしなくなった。
武満
僕は今でももの凄くデッサンをとる。
最後のデッサンになってくると、ほとんどスコア(総譜)と同じくらいになるけど、そんなにデッサンをとらないほうが良いんじゃないかな。
三善
武満さんは、書き加えるよりも、削っていくでしょう?
武満
どっちかというと削ります。
ところが最近、音の呼吸とか、次を生かすための掛け声的な仕掛けを考えるようになった。
僕は来年は歌曲を書こうと思っています。
三善
人の声って、同じソプラノ歌手でも楽器が違うくらいに違いますね。
武満
ソプラノ歌手でも、レナータ・テバルディとマリア・カラスは全然違う声をしている。
三善
話は変わりますが、武満さんは現音(日本現代音楽協会)を辞めたのですか。
武満
現音もトランソニック(作曲家のための音楽雑誌)も辞めました。
先日にトランソニックの同人から質問があって、「音楽による政治参加は可能か」と訊かれた。
僕は音楽による政治参加は不可能だと思うのです。
音楽が政治的な効用を果たすとすれば、それはもう音楽ではなく政治です。
僕は音楽をやることに、十全の意味を感じている。
僕の立場は、どちらかというと社会主義ですが、音楽が革命の武器になり得るとしたら、それはその音楽をやっている個人においてで、他者との問題ではないと思うんだ。
僕は最近インドネシアに行って、そこの音楽を聴いてショックを受け、雑誌に書いた。
それに対して高橋悠治(作曲家)は、「それは日本が東南アジアに持っているブラザーシップと同質で、一種の帝国主義である」と批判した。
高橋の論理はあまりに粗雑だし、これまでの仲間から帝国主義者よわばりを受けると思わなかった。
したがって僕は袂を分かったのです。
〇武満徹と湯浅譲二の対談
武満徹(作曲家)
日本の音楽界は、「保守」と「前衛」の対立図式で語るでしょう。
とてもおかしい、大雑把な分け方だと思う。
僕は前衛に入ると思うけど、前衛という言葉が好きじゃない。
湯浅譲二(作曲家)
音楽の本質な問題は、創造にどう向かっていくかだよね。
昨日と全く違う作品が今日できることはないし、いろんな段階があるわけで、保守と前衛というのは非常に乱暴な論議だと思う。
大岡信さん(詩人、評論家)が書いていたけど、「本当の創造は、それまでの概念を変革していく力を持つものでなければならない」というのは正しいと思った。
武満
山根銀二さん(音楽評論家)が、「日本の前衛は西洋の真似ばかりで、現代音楽が聴衆を失っているのは作曲家の責任で、良い作品がないからだ」と書いていた。
西洋を手本にして、西洋音楽の形式に日本の音をぶち込む不自然さは、認めるよ。
アメリカに行くと、アメリカの作曲家たちはヨーロッパ音楽の現状をあまり知らないね。
僕のほうがヨーロッパの現状をよく知っているわけ。
それで気付いたが、彼らの興味は音楽を生み出す人間や環境にあるようだ。
日本人は技術的なことに関心を持って学ぶけど、人間についてあまり興味を持たないね。
湯浅
日本の西洋文明の受け入れ方が、明治以来そういう形をとってきたのが、今でも残っているんじゃないか。
武満
日本の音楽批評を見ていると、未だにドイツ音楽が一番良いとされていて、カール・ベーム(ドイツとオーストリアで活躍した指揮者)が君が代を演奏してもベタ褒めする。
絵画だとフランスが一番で、生活の面ではイギリスが一番という、おかしな固定観念が支配的なわけ。
本人たちはそれが正統な保守だと思っているが、違うと思うんだよ。
湯浅
それも昔の日本のやり方で、陸軍はフランス式が一番、海軍はイギリス式が一番というのと同じだよね。
武満
明治時代だったら、音楽はドイツから学び、絵画はフランスから学ぶのは、選択としてそう間違いではなかった。
だけど100年も続けるのは、大変に保守的だね。
湯浅
幕末に鎖国をやめた日本が、早く西洋文明を取り入れる時代では、上手い方法だったと思う。
ところが今となっては、形だけ早く取り入れるのは遂げた気がする。
武満
僕たちは、日本のことをいたずらに卑下したり、逆にとても国家主義的になって「日本は西洋よりずっと素晴らしい」と肩をいからせてしまう。
湯浅
それも、やっぱり明治以来の態度じゃないかな。
武満
改めなきゃダメだね。
音楽なんて、何気なくやるものだよね。
湯浅
僕も本当にそう思うんだ。
武満
それにしても、こんなに日本論が盛んなのは、戦後でも珍しい。
音楽でも、邦楽器を使う曲がとても多いでしょう。
君は能に詳しいし、いまの現代邦楽をどう考えていますか。
湯浅
日本の素材を使って、西洋のやり方で料理するのは、全く反対だね。
考え方が西洋で、素材は日本というのは、全く不毛だと思う。
楽器とか奏法とか音階は、音楽の末節的なもので、一番大切なのは音楽に対する考え方や感じ方といった、思考や感性です。
そこから発展できるなら、楽器は邦楽器でも洋楽器でも問題にならないと思うわけ。
もう1つは、矛盾する言い方になるけど、邦楽器はそれ自体が音色など主張するものがあるから、それを使うことが大切。
邦楽器をヨーロッパの音階で使うとか、邦楽器の技法を否定して洋楽器の技法でやることは、意味がないと思う。
日本の伝統音楽を扱うには、背反する問題があるから、安易にやれないと思っている。
武満
僕は邦楽器を使ってみて、反省がある。
邦楽器を感情でとらえて、論理的にとらえなかった。
僕は尺八と琵琶しか使ってなくて、琴には抵抗がある。
琴は初発的なもの、魔術的なものが希薄だと感じている。
邦楽器を勉強していくと、それに影響を及ぼしてきた東洋の外国の音楽や楽器に、目を向けざるを得なかった。
君の最初のフリュートの曲「相即相入」は、日本の音楽にある呼吸法に影響されていると思った。
日本音楽は君にどういう影響を与えている?
湯浅
時間と空間を断ち切っていったり、あるいは繋いていったりと、世界に対する感じ方だね。
西洋のダンスだと、ある空間、つまりヴェーキャンシー(空き地)があって、その中でダンサーが踊り回る。
引力を振り切って跳び上がるとか、拮抗する力がある。
それに対し、日本の能の舞だと、踊り手は空間を切り進んでいく。
むしろ外側の存在空間と(演者が)一体化しなければ、その中(空間)に入れない感じがするわけ。
そういうのが日本の音楽にもある気がして。
「相即相入」では、拍で数えないで、息というか気韻で経過する時間を考えた。
武満
次に、言葉と音楽について話したい。
湯浅
これは非常に大問題だ。
武満
音と言葉を、僕たちは切り離して考えがちだけど、本来は1つなわけ。
チベットのある地域では、2kmくらい離れた距離の遊牧の人たちが、声だけで通信をする。
そうなると、言葉はある種の音楽的な表現にならざるを得ない。
本来は繋がっている言葉と音楽が、活字文化が進んできた結果、分離の考えが広まった。
湯浅
そうなんだよね。
発音を音楽ととらえて突っ込んでいけば、発音の違いは一種の音色の違いなわけ。
栗津則雄さん(評論家)が君との対談で、「山田耕作の『からたちの花』を聴くと気持ちが悪い」と言っていた。
それは音楽そのものが気持ち悪いのか、歌手の発声法が気持ち悪いのか、気になった。
山田耕作は、日本語の標準語のイントネーションで西洋式に作曲した初めての人でしょう。
三和音で作曲したことも、気持ち悪さの一部分かもしれない。
僕は演歌や浪花節が好きじゃないけど、発声だけを考えると、洋楽的な歌い方よりも日本語としての必然性を持っていると思う。
武満
僕も同意見です。
湯浅
このあいだの定期公演で「芭蕉」をやった時、山(ヤマ)の発音の仕方を謡の発音でいこうと思って、こまかく子音を楽譜に書いた。
「イ=ヤ=ン=m=ム=ア」という風に、はっきり分けて、その間を移り変わっていく発音をさせるように書いた。
でも歌い手は、うっかりすると洋楽的な声の響かせ方をして、パッと最初から口の中を広く開けて「ヤア」と発音しちゃうわけ。
「ヤー」と「イヤー」は全く違うのよ。
日本のオペラを、ベルカントでプッチーニのように歌うとかは、本当にバカげていて、論じる価値もないほどだ。
武満
プッチーニを持ってきて、日本語に移し変えて歌うのは、僕もバカげていると思う。
湯浅
発音は、方言とか、人の個体差もあるから、追求していくとキリがない。
方言の問題も、なおざりにはできない。
地方ごとの音楽性の違いは、日本の中にも多少はあると思う。
その違いは、かなりが言葉(方言)によって培われている。
武満
昔の音楽を見ても、上方には義太夫があり、江戸には歌舞伎の長唄などがあった。
その違いは、言葉の問題があるわけ。
幕末に江戸の勝海舟と薩摩の西郷隆盛が会談したとき、両者の方言が違うので、狂言の言葉で話したという。
狂言は教養として皆が知っているから理解できた。
それからしばらくして、日本政府が標準語をつくって、(文化的には)ずいぶん間違ったことをした。
僕が歌を書いたのは、大岡信さんの「環礁」だけです。
あれはピエール・ブーレーズの歌わせ方のイミテーションみたいなもの。
結局、日本語の問題を僕は何も解決できていない。
(2023年1月31日~2月3日に作成)