鹿地亘の監禁事件①

(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)

1951年11月25日の午後7時ごろ、神奈川県藤沢市の鵠沼に転地療養していた鹿地亘は、散歩中に2台の米軍車両に挟まれた。

車から降りてきた5~6人の米軍人は、亘を車内に連れ込み手錠をかけて、目隠しをして連れ去った。

これが鹿地事件の発端である。

亘が最初に監禁されたのは、東京都本郷の岩崎別邸(通称は岩崎ハウス)にあるキャノン機関の本拠であった。

ここで4日間を過ごし、29日には川崎市の東銀川崎クラブに移された。

最後は茅ヶ崎の家屋に留置された。

のちに亘が、衆院の法務委員会で証言したところによると、経過は次の通りである。

「散歩中に軍用車がやって来て、中から軍人が出て来て、殴り倒されて車中に引きずり込まれた。

私は病気のため大声を上げられなかった。

1時間ほど連れて行かれ、建物の1室に連れ込まれ、夜明けまで尋問が続いた。

キャノン少佐(のちに中佐)は、私に対し『拷問は嫌いだが、場合によっては止むを得ない』と云い、『静脈に麻薬を入れて無意識のうちにしゃべらせてやる』とも云った。

1週間後くらいに米人の医者が治療をしに来たが(※鹿地亘は結核患者である)、『このままでは半年も持たない』と云った。

私の監視に付いたのは、光田ともビル田中とも云う男で、外部との接触は全く断たれた。

11月29日に川崎に連行され、そこで監禁された。

光田は怠け者だったらしく、日本人の山田善二郎を代わりに監視役にした。

この人が次第に私に同情してきたので、事情を打ち明けて、内山完造さんに手紙を渡してもらうように頼んだ。

12月2日の未明に、私は自殺を図った。

シャンデリヤに帯を下げて首を吊ったが、気が付くとベルトが切れていた。

これはしまったと思い、側にあったクレゾールを3分の2ばかり飲み、意識を失った。

ところが翌日の夕刻に意識がさめると、手当を受けていた。

喉が焼けて、しばらくは水一滴も入らなかった。

これ以後、(米側は)このままではいかぬと思ったらしく、非常に紳士的な態度を装って接触してきた。

自分も再び自殺の機会はないと思い、誇りを失わぬ限度で話もしようと考えた。

52年2月末ごろ、ガルシェー大佐が来て、キャノン少佐は『私の用事は済んだ。今度はこの人たちに引き渡す』と云った。

光田の他に、新たにジャック高橋という日系二世と、白系露人らしいジミーという男が監視役になった。

なおガルシェー大佐は、『自分が最高決定者ではない』と云っていたから、もっと関係者があるのだと思う。

米軍が私に求めたのは、『中国で君がやっていた事を、米軍と協力してやってくれ』だった。

具体的な事は云わなかった。

私は、『米国の極東政策に不賛成だから協力できない』と答えた。

私は中国共産党にも日本共産党にも入っていない。」

鹿地亘が、代官山の家(USハウス70号)に移されたのは1952年7月で、12月に入って突然に沖縄に連行された。

そして再び本土に戻され、12月7日に釈放された。

亘は鵠沼で誘拐されてから、約1年も監禁されていたわけだ。

ここで鹿地亘の略歴を述べよう。

彼は1904年(明治36年)に生まれ、東大を卒業した。

卒業後はプロレタリア作家同盟(旧ナップ)に加入し、ナップがプロレタリア文化聯盟へと発展するとその書記長となった。

創作は少なく、共産党員ではなかったと云われている。

当時、プロレタリア作家は「階級運動における特等席にいる者」として、日和見的な態度を党より批判されたものである。

その後、リンチ共産党事件で2年入獄し、1936年に出獄した。

出獄後は上海に渡り、内山完造の世話で魯迅に会い、中国の青年作家の作品を毎月1本ずつ雑誌『改造』に掲載することにして、その翻訳に当った。

魯迅全集の翻訳などをして、わりに豊かな生活をしていて、左翼運動は全然やらなかった。

1937年の夏になって、支那事変の動乱は上海にも及び、亘は重慶に逃れた。

この時は、孫文夫人の宗慶齢と郭沫若の手引きによると云われた。

重慶では政治部長の陳誠の下に付き、主として対日宣伝を担当して、終戦時までその仕事をした。

この期間中に、対日機関としての反戦同盟を作ったのである。

さて、1952年11月23日号の『週刊朝日』では、鹿地亘の失踪について書いているが、次の一節がある。

「この事件には目撃者がいた。

鹿地氏は拉致されると、横浜のCICの建物に運ばれた。
そこで言語に絶する拷問にあった。

この話を伝えてくれたのは、その米軍機関(CIC)に勤務する日本人通訳で、鵠沼の拉致現場にも立ち会い、横浜でも鹿地氏を監視していたが、ひどい有様に同情して奥さん(鹿地夫人)へ知らせて来てくれたのだ。

その時奥さんは、鹿地氏が書いた紙片を渡された。

そこには『誰かに売られた。自殺しようとしてクレゾールを飲んだが、目的を果たせなかった。我を忘れよ。子供を頼む。白公館にて』とあった。

その日本人通訳は、その後も2度やって来たが、姓は山田といって伊豆に住んでいるという。

この話は、怪文書(改造社などに発送されたもの)の内容とぴったり一致する。」

この中に出てくる山田が、山田善二郎である。

彼は川崎・新丸子の東川クラブのコックとして住み込んでいたが、鹿地亘の世話をしていた。

亘が、茅ヶ崎のC31ハウスに移される事になった時、亘から家族の住所を教えてもらい、休日に探したが見つからず、2回目には内山完造宅を訪ねて事情を報せたのだ。

山田善二郎はその後、11月24日に退職した。
これは亘と内通した事が米軍に感づかれそうになったからだ。

とにかく、善二郎が完造や日中友好協会に訴えた事が、亘の釈放の糸口になったといえる。

鹿地夫人は、12月6日に社会党の代議士である猪俣浩三を訪れて、夫の救出と山田善二郎の保護を頼んだ。

浩三はこれを人権擁護委員会に持ちこみ、さらに衆院で緊急質問する手筈を整えた。

すると翌7日に、亘は釈放された。

つまり、善二郎の活動をきっかけに事件が公けになり、日本の新聞も騒ぎ出したため、釈放せざるを得なくなったのだ。

この事件について、駐日アメリカ大使館のスポークスマンは、「鹿地氏が抑留された理由は、某外国のスパイだからだ。事件の詳細はすでに日本の国警に移されており、国警が調査を行っていると了解している」と発表した。

同日に、斎藤昇・国警長官は国会で、「鹿地氏の署名入りの自供書を、米軍から受け取った。これによると鹿地氏は米国の諜報網の一員である」と答弁した。

この「鹿地亘の署名入りの自供書」とはどんなものか。

それは亘の手記から窺える。

「私の意識が曖昧でものも云えない状態でも、キャノンはやかましい尋問を始める。

私を診た医者は『誰もモノを云わしてはいけない』と云ったが、4~5日するとキャノンがやって来て『ゆっくりでいいから、これまでの自白書を書け』と強いた。

こうして彼の構想による自白のスジ書きが私に渡され、自白書は1週間ばかりで出来上がった。

自白書の詳しい内容は憶えていないが、その中にはある外国人のレポに会い、三橋某への橋渡しをしたという虚構の経過が述べられている。

むろん歯ぎしりするほど口惜しかったが、無力さを感じて書いたのである。

それが出来上がると、彼らの態度は一変した。
いや、私が自殺を決行したのち、彼らの態度は変わってきたのだ。」

鹿地亘の自供書に出てくる「三橋」は、1952年12月10日に警視庁に逮捕された。

容疑は電波法違反で、証拠物件として三橋正雄の自宅から送信機や受信機などを押収した。

ところが13日になって、斎藤昇・国警長官は「三橋正雄は逮捕ではなく、身の危険を感じて自首してきた」と国会で報告した。

そして正雄の自供内容として、①モスクワで無電技術の訓練を受け、帰国後にカネをもらって某国と無電送受信を行っていた ②鹿地とは仲介者を通じて連絡があった と報告した。

三橋正雄は、日本陸軍の通信兵だったが、終戦後にソ連に抑留されてスパイの訓練を受け、1947年12月に帰国した。

48年1月ごろからレポと会合し、暗号情報を月3回くらい発信していた。

正雄は、鹿地亘との連絡について詳しく述べている。

「私は日本へ送還される寸前になり、上野公園で男に会えと指令された。

48年1月に指令の通り、ソ連人らしい男と会った。

無電機を受領し、レポを通じて暗号通信を行った。

日本人の最初のレポは、49年8月からの佐々木克己だ。

鹿地がレポになったのは51年8月からで、ソ連人らしい男の紹介で会った。

やがて、自分がアメリカ側にも協力している事が分かってしまったと思い、不安がつのって自首した。」

しかるに、国警は捜査を行った結果、52年12月28日に報告書を作成し、新たな情報を発表した。

三橋正雄は48年1月上旬ごろに、復員者を監視していた在日米軍のCICから、東京本郷の旧岩崎別邸(岩崎ハウス)への呼び出しをうけ、ここで米軍のスパイもすると誓った。

49年3月ごろに、在日ソ連代表部へ行き、無電送信の任務と暗号表を授けられ、第1回の発信を行った。

49年8月ごろ、日本人レポの佐々木克己と初めて会った。

51年8月上旬に、ソ連代表部に呼びつけられ、江ノ電鵠沼の付近をぶらついている男が「本鵠沼はどちらでしょうか」と訊くから、「それは私の付近です」と答えよ、これが君の指令者だと命じられた。

その場所で会ったのが鹿地亘だが、そこでの連絡内容は3日以内に米軍関係者に報告していた。

鹿地亘は、自分が連絡役だったのを全面否認し、衆議院は1953年8月4日に鹿地亘と三橋正雄を証人喚問している。

ここでも亘は「三橋正雄と会ってない」と云い、正雄は「会っている」と云い、平行線に終わった。

結局、国会の法務委員会は次の結論を出した。

「8ヵ月にわたる調査の結果、①講和条約の発効後も鹿地氏が不法監禁された ②講和後も在日米軍は日本政府に監禁を通知しなかった と結論する。

この2点は遺憾である。
政府を通じて在日米軍に伝え、今後はこの種の事件が発生せぬよう要望する。」

こうして鹿地事件は、アイマイな感じで終了した。

三橋正雄は電波法違反で起訴され、直ちに服役した。
鹿地亘は病気入院のため裁判が延びている。

以上が、鹿地事件の概略であるが、どうもすっきりしない。

検察側も鹿地亘も、全部を公けに出し切っていない感じがする。

亘が監禁中に書かされた自供書は、第10節「ソ連人との関係」が1953年2月15日号の週刊朝日で公表されている。

これはアメリカ側から国警に送られ、衆院・法務委員会の秘密会で発表された。

その要旨はこうである。

「私は鵠沼の海岸近くに部屋を借りて結核の療養をしていたが、1951年6月中旬にロシア人と知り合った。

彼と何回が会ううちに、彼は目的を語り出した。

米国は日本と単独講和を実現し、その機会にソ連代表部などを廃止して、日本を独占的に制圧すると思われる。
従ってその前に秘密グループを作って日本に残す必要がある。

この活動に、私の協力を要請したのだ。

こうして私は、三橋正雄と会うことになり、9月初旬に初めて会った。

三橋との連絡は、その後3ヵ月間、11月末に私が捕まるまで続いた。」

鹿地亘は、手記でこの「自供書」を書くハメになったのを、「最初に経歴の要求に応じた時が、早くも失敗の一歩だった」と述べている。

その「経歴」とは恐らく、彼が太平洋戦争中に重慶で果たした任務を指している。

亘と共に重慶で工作活動をした青山和夫は、著書で述べている。

「鹿地亘は(第二次大戦中に)、OSS(アメリカ謀略機関であるCIAの前身)に忠誠書を差し出してOSS員となったため、中国国民党の宣伝部は鹿地と手を切った。

このOSS参加が、後年の鹿地事件を発生させた原因である。」

重慶で投降した日本軍人30名ばかりを組織した「反戦同盟」の統率者だった鹿地亘は、アメリカの謀略機関と結び付いていたのである。

当時の亘は、蒋介石の顧問格で、陳誠や郭沫若と親しかった。

ここで、鹿地亘と三橋正雄の自供書を読み比べてみる。

すると、かなりうまく一致するのだ。

だが作られた感じが強く、両人に書かせた筋書き作者がいると思う。

亘の自供書では、スパイになるよう誘ってきたソ連人について、「名前を聞き洩らした」とある。

こんなバカげた話はなく、作られた話としか思えない。

それに亘が受け渡した情報も、どういう内容か一切触れられていない。

また、アメリカとも繋がりのあった高名な亘に、レポを渡す事をソ連側がするだろうか。

三橋正雄の自供で見逃してはならないのは、亘の前任者が佐々木克己だった事だ。

佐々木克己は、1950年11月に自宅の物置で縊死している。

彼は1941年に駐ソ大使館・武官室秘書としてソ連に赴任し、1年1ヵ月、ソ連にいた。

1950年8月30日の晩、彼は外国人の車に拉致された。
翌朝に顔を紫色に腫らして家に帰ってきたが、非常に怯えている様子で、これ以来ひどい神経衰弱になった。

そして11月19日に自殺したのである。

克己は生前、しきりとソ連関係の元日本将校を歴訪していた事実がある。

「国警では、三橋の密告で佐々木克己がアメリカ側に逮捕され責められたと見ている」というのが新聞の観測だった。

三橋正雄の自供書でもっともおかしいのは、自首の所である。

というのは、鹿地亘はキャノン機関によって1年も拘禁されたのだから、この期間は正雄とは連絡していなかったわけだ。

1年も連絡を断たれた正雄が、亘の釈放を知っていきなり「自分の身辺が危うい」と感じて自首するとは一体どういうわけか。

普通ならば、亘が行方不明になった時点で、身の危険を感じるはずだ。

作られた芝居の筋書きは、この辺でも馬脚を現わしている。

話を戦時中に戻すが、鹿地亘が重慶でOSSに協力を依頼された時、アメリカ側は3つの条件を出した。

① アメリカ政府に忠誠を誓うこと

② アメリカの防諜法を遵守すること

③ 捕虜の身分として協力すること

これに対し亘は、次の態度をとったと云われる。

①については拒否、②については反対するが申し入れてもらえば秘密を洩らさない、③については拒否。

結局、紳士協定という了解が成立したというのが、亘の言い分である。

当時、亘はアメリカから非常に高く評価され、国務省の日本部長ジョン・エマーソンは亘の家に泊まっていたほどだという。

アメリカが亘を拉致監禁したのは、重慶時代のアメリカとの協力を裏切ってソ連の手先となった背信に怒ったためかもしれない。

彼を責めた上で、米側への再協力を強制したのであろう。

亘の手記には、こうある。

「彼らがしきりに知りたがったのは、中国で私が一緒に反戦運動をやってきた仲間たちが今どうしているか、また連絡と組織を保持しているのではないか、という事だった。

彼らは太平洋戦争の頃から、反戦運動の日本人を買い取ろうとしてきた。

米軍やOSSは、資金と資材は自分達が出すから、協力して日本に対する反戦と平和の宣伝機関を作ろう、と云うのだった。

当時の私たちは、中国の人々に守られながら反戦同盟を作り、日本の侵略戦争の停止を目標に活動していた。

アメリカはそれを銭で買い取り、自分の手先にしようと企んだのだ。

私たちは相談に応じたが、彼らの魂胆が分かるとそれを刎ねつけた。」

このOSSとの提携が、「紳士協定」になって成立したのは前記のとおりだ。

さて、鹿地監禁事件では、キャノン中佐とかガルシェー大佐の名前が出ている。

もし事件を本気で追及するなら、アメリカ側はこの2人を証人として出すべきである。

ところがアメリカ側は、「キャノン中佐は10ヵ月も前に日本を去っている。ガルシェーという名前は軍人名簿にない」と云う。

当時、外務省の伊関・国際協力局長は、この件でターナー駐日公使と会ったのち、新聞記者にこう云っている。

「いろいろ訊いたら、貴官は外交官を辞めて探偵になったのか、とターナー公使から云われた」

講和条約を結び独立した日本の外務省幹部に、「貴官は探偵になったのか」とは酷い云い方である。

こんな風にナメられては、キャノン中佐を喚問するどころの話ではない。

監禁中に鹿地亘が家族に宛てた手紙では、その最後に「白公館にて」とさりげなく書いている。

これは、実は或る意味が込めらていた。

鹿地亘は手記に、こう書いている。

「太平洋戦争が終わりに近づく頃、OSSは蒋介石の泣く子も黙ると云われた兇悪な戴笠特務機関と協力し、中米合作社(SACCO)を設立した。

これはアメリカの科学技術で蒋介石の爪牙を武装させ、大量の手先を養成し、それをアメリカが支配しようとするものだった。

重慶から15kmばかり離れた、嘉陵江辺の磁器口と呼ばれる村に、その基地が設けられた。

そこには沢山の学生や労働者がさらわれて行き、戦後に土地が解放されると坑内から沢山の人骨や屍体が掘り出された。

西安事件で蒋介石に反抗した楊虎城・将軍も、屍体になって発見された。

付近の住民は、ここを『白公館』と呼んで恐れていた。

アメリカの謀略機関は、白公館もそうだったし、雲南の崑湖の小島もそうだったが、必ず景勝の地を選び、恰かも広大な別荘を構えている様に見せかけて、そこで恐ろしい事をやっていた。

だから私がキャノンらに捕まって『熱海』と聞いた時も(亘は拉致された時、車の中で米軍人からこれから熱海に行くと聞かされた)、あれじゃないかと白公館が思い浮かんだ。

彼らの一隊(キャノン機関員)は、夜になるとどこかへ出かけて行く。

そして帰って来た例の日系二世が頬を輝かせて、『また1人来ましたよ、今夜は忙しいぞ』と云う。

地下室に犠牲者は連れ込まれたらしい。

深夜、ピストルが鳴り響いた。あとはしんとしている。肌が粟立った。」

CICの下にいるキャノン機関のアジトは、米軍・第8軍司令部内の横浜のビル2階、横浜市内の個人アジト、本郷ハウスと呼ばれる湯島の旧岩崎別邸、川崎の東川クラブ、茅ヶ崎郊外の茅ヶ崎C31ハウス、代官山駅の付近にあるUSハウス740号、渋谷区猿楽小学校の付近の代官山ハウス、にあった。

さらに北海道、関西、九州にもアジトがあったと云われる。

とすれば、テロ的な謀略機関が日本中に設置されていた事になる。

もし山田善二郎が動かなければ、キャノン機関は鹿地亘をどのような運命にしたか分からない。

(2019年11月6日~9日に作成)


『鹿地亘の監禁事件② キャノン機関について』 に進む

『日本史の勉強 敗戦・GHQの占領下~形だけの独立まで』 目次に戻る

『日本史の勉強』 トップページに戻る

サイトのトップページへ行く