鹿地亘の監禁事件② キャノン機関について

(『戦後秘史・第7巻』大森実著から抜粋)

東大キャンパスと湯島天神のある上野、こんな東京のど真ん中に米軍の秘密謀略センターがあった事を、知っている都民は少ないだろう。

そこは、現在は「東京高等裁判所・書記官研修所」の看板がかかっているが、1945年の敗戦までは三菱財閥の岩崎家の所有で、「岩崎別邸」と呼ばれていた。

その建物は、日本が米軍に占領されていた時代、正確には1947年の末から52年にかけて、『本郷ハウス』と呼ばれていた。

本郷ハウスの主は、ジャック・キャノン中佐であった。

ジャックは米陸軍の諜報・謀略の畑一筋できた男で、GHQではG2のチャールズ・ウィロビー代将の下に組み込まれた。

チャールズ・ウィロビーは、占領開始時にCIS(対敵情報部)のソープ代将が政治犯になっていた日本共産党の幹部を釈放した事に対し、強く反対した人物だ。

その後にソープ代将の追放に成功し、47年末にはG2の傘下にJSOB(総合特殊作戦本部の略)という謀略組織を特設した。

チャールズは、JSOBの長にレイシー大佐を据え、この組織の中にジャック・キャノンを長とする「Z機関(キャノン機関と呼ばれた)」を置いた。

本郷ハウスは、キャノン機関の本部であった。

そこにはジャック・キャノンの他に、ヒロシ大西・大尉、ビクター松井・准尉、ロイ・グラスゴ准尉など、25名ほどの機関幹部がいた。

ちなみにビクター松井は、後にCIAの工作員となり、カンボジアのシアヌーク暗殺計画で主役となったため国際的に知られた男である。

ジャック・キャノンは、無類の射撃狂で、「本郷ハウス」では中庭の松の木をピストルの標的にして、2階の自室からさかんに撃ちまくっていた。

左翼作家の鹿地亘が鵠沼海岸で拉致された時、連れ込まれたのが本郷ハウスであった。

拉致された上にスパイになるよう強要され、自殺してしまった元関東軍・参謀の佐々木克巳が、監禁・拷問されたのも、ここである。

小林秀雄と称する朝鮮人が、発狂してしまうほどの拷問を受けたのも、ここである。

北朝鮮との密航船の船員だった板垣幸三が、深夜に庭でジャック・キャノンからピストルを突き付けられ、変身を誓約させられたのも、ここである。

この謀略センターに、鷹司平通・夫妻や、山口淑子(李香蘭)、田中栄一・警視総監、斎藤昇・国警長官、松川事件を担当した安西光雄・検事、元児玉機関・副長の吉田彦太郎たちが、しげしげと足を運んでいた。

吉田彦太郎は、日米開戦の前夜(1941年4月)に、開戦を望まない近衛文麿・首相を暗殺すべく、辻政信と児玉誉士夫の密命を受けて、参謀本部からもらった時限爆弾を仕掛けようとした人物である。

また、ジャック・キャノンが「日本にも情報機関を作るべきだ」と吉田茂・首相に献策したのをきっかけに、日本政府内に「内閣調査室」が出来たのである。

山田善二郎は、日本の敗戦後に、横浜の職業安定所を通じて、ジャック・キャノンの家の住み込みコックとなった。

善二郎は、足かけ3年に及んだキャノン邸での住み込みコック生活を通じて、ジャック・キャノンの人間性と行動を深く知った。

ジャックは、混血女性と不倫していて、妻ジョゼットとの間で争いごとを絶やした事が無かった。

また、飼っている猫をいつも虐待していた。

ピストルをしょっちゅう邸内で撃ち、妻ジョゼットはヒステリックにそれを阻止して争いが起こった。

タンスにはピストルが無造作に放り込まれており、カラスが飛んでくるとジャックは飛び上がって喜び、ライフルでカラスを撃ち落として悦に入っていた。

ジャックは警戒からか、自分の家に入る時に必ず裏口から帰宅してきた。

どこかで工作活動をやってきたらしく、軍の兵士が着るような作業着で帰宅した事もあった。

ジャックは、横浜でソ連スパイと撃ち合いをして左股を撃たれた後、家族をアメリカに帰した。

この撃ち合いは、在日朝鮮人の麻薬密輸団との内輪もめという説もあった。

(ジャックは麻薬常習者で、キャノン機関は麻薬密売にも関わっていた)

ジャック・キャノンの家族が居なくなったため、山田善二郎はジャックの紹介で、横浜のCICに転勤した。
さらに次には、川崎・新丸子にあるキャノン機関の基地「東川クラブ」でコックとして働くことになった。

それからしばらくした1951年10月上旬に、山田善二郎はジャックの指示でキャノン機関本部の本郷ハウスに呼び出された。

行ってみると、ジャックは「お前はこれから伊藤准尉の命令に従うんだ」と言った。

伊藤は日系二世の下士官で、十数名の米兵を連れて本郷ハウスの倉庫から大量の物資を3台のトラックに積み込んだ。

そして目黒・代官山にある3階建ての赤レンガ造りの大きな邸宅に運び込んだ。

その邸宅の門には、「US-七四〇」のナンバープレートが掲げられていた。

そこは東急社長だった五島慶太の所有する家を、米軍が徴発したもので、「G2-リエゾン・グループ」というマークの付いた大小の梱包や、大きな軍用金庫まで置かれていた。

山田善二郎はコックとして、ウェイターで雇われた山本専二と共に、「US-七四〇」で働き始めた。

そこで善二郎は、意外なものを見た。
高さが3m半もある朝鮮半島の軍用地図であった。(※当時は朝鮮戦争が継続中である)

「US-七四〇」にいる伊藤准尉とデービス中尉は、キャノン機関ではなく、JSOB(総合特殊作戦本部の略)に関連した特殊工作機関の長であるスティックレン大佐に所属していた。

善二郎が働き始めて数日後に、伊藤准尉は善二郎と専二に「外出禁止令」を出した。

こうして善二郎の専二の監禁生活が始まったのである。

伊藤准尉は、善二郎と専二を呼びつけて、「これから我々がここでやろうとしている仕事は、ペンタゴン(国防総省)の直接命令でやる極秘作戦だ」と申し渡した。

それから数日後の深夜12時ころに、US-七四〇に中国人捕虜の集団が連れてこられた。
全部で20名であった。

彼らは20歳代の兵士たちで、表情は怯えていた。

翌々日の夜、さらに20名の捕虜が搬入された。

善二郎は彼らと話し、10人が北朝鮮軍の捕虜だと知った。

伊藤准尉、デービス中尉、白人下士官のバード軍曹が、捕虜と接した。

デービスとバードは中国語が話せる様だった。

捕虜たちは、まず写真と指紋をとられ、個別面接で身元調査された。

それからキリスト教の聖書が渡され、スパイ訓練用の教科書も渡された。

筆者は、上記の山田善二郎の証言を聞いて、沖縄返還前に那覇市の南方にある知念半島にあった、「米陸軍・混成特殊部隊(JSG)」を思いおこした。

そのJSGと呼ばれる米軍の秘密謀略センターは、沖縄住民を完全に遮断して(立入禁止にして)、ベトナムから連れてきた捕虜や台湾人にスパイの訓練をしていた。

そこで特殊訓練を施された者は、ベトナム、ラオス、カンボジアの戦場や、タイの奥地などに輸送され、上空からパラシュートで降下させられた。

キャノン機関に監禁された鹿地亘や、スパイに仕立て上げられたソ連大使館員のラストボロフも、この秘密基地に連れ込まれている。

このようなスパイ訓練の謀略センターが、米軍占領下の日本では、目黒・代官山にも「US-七四〇」として設置されていたのである。

アメリカは、朝鮮戦争の捕虜について、捕虜リストを公開して13万2千名だと発表した。

これに対し中国と北朝鮮側は、「5万人の捕虜が欠けている」と非難した。

「欠けている5万人の捕虜」のほとんどは、韓国・巨済島の捕虜収容所に押し込められ、そこでは暴行・拷問・殺人が行われた。

暴行・拷問・殺人は、捕虜を洗脳するための仕置きで、これがジャーナリストに暴露されて大きな国際的関心を集めた。

この巨済島の捕虜収容所では、韓国大統領の李承晩が暴力団員を大量に投入して、捕虜を拷問して洗脳していた事実も暴露された。

巨済島は当時、「地獄島」と呼ばれていた。

同収容所の暴動はあとを絶たず、ついには収容所の米軍司令官フランシス・ドッド代将の監禁事件も起きた。

山田善二郎がUS-七四〇で接した捕虜集団は、おそらく巨済島捕虜の1グループだったろう。

善二郎の証言では、US-七四〇には台湾から来たと思われる李、王という中国人教官と、金という朝鮮人教官も、洗脳教育に参加していた。

善二郎は、捕虜たちの身体に「反共」とか「耶蘇(やそ)のために死ぬ」との入れ墨が彫られているのを発見した。
この入れ墨は、拷問のあとに彫り込まれたものだろう。

さて。
山田善二郎が「東川クラブ」への再転勤を命じられたのは、1951年11月28日だった。

『東川クラブ』は、神奈川県の武蔵小杉駅の近くにあった、東京銀行のクラブハウスをキャノン機関が徴発したものである。

敷地は広大で、野球場、サッカーグラウンド、テニスコートまであった。

このクラブハウスを、高い有刺鉄線の柵で囲い、一般日本人を完全にシャットアウトした。

柵の周囲には4ヵ所の監視ポストが設けられ、日本人の警備員が配置されていた。

善二郎は東川クラブで約1年をすごす事になるが、その間にいくつかの奇怪な事件を目にした。

以下は彼の証言である。

東川クラブの責任者は、ハワイ生まれの日系二世のマサシ橋本・准尉であった。
その下にウィリアム光田・軍曹がいた。

善二郎は、彼ら(キャノン機関の者たち)が持っている「ブラックジャック」という特殊兵器の恐ろしさを知った。

この凶器は、長さ30cmほどの革の細長い袋に、パチンコ玉よりも小さい鉛の玉を詰め込んだものであった。

これで1発殴られると、たいていの男はうめき声を上げてその場に崩れ落ち、しばらく立つことも出来ない。

ブラックジャックとピストルが、彼らが携行する必需兵器であった。

ある時、朝鮮人の小林秀雄という男が、東川クラブに連行されてきた。

深夜にジープが門内に停車し、頭からすっぽり濃い緑の軍用オーバーを被された男が、ふらふらの足取りでジープから降りてきた。

男が麻酔薬を飲まされていた事を、すぐ後で善二郎は知ることになる。

翌日にマサシ橋本は、善二郎に2粒の小さな薬を渡し、「この薬をヤツに飲ませろ!」と命じた。

善二郎が命じられた通りに秀雄に飲ませると、報告を受けたマサシはニタッと笑って、「これで大丈夫だ、もう逃げられない」と言った。

薬は麻酔薬であった。

秀雄が錠剤の薬を飲むのを拒否し始めると、マサシは「ミルクに入れて飲ませろ」と命じた。

小林秀雄は10ヵ月にわたって東川クラブに監禁され、ついに発狂してしまった。

発狂後は、キャノン機関から派遣されて来たキクオ松岡という日系二世の准尉が、手錠をかけてジープで連れ出してしまった。

善二郎はそれ以来、彼を見なかった。

東川クラブには、元関東軍の参謀である佐々木克巳も連行されてきた。

克巳も麻酔薬を飲まされてジープで運び込まれたが、東川クラブに居たのは2~3日だった。

克巳が来た時、すでにジャック・キャノンからごっつい拷問を受けていて、顔が変形していた。

彼はスパイになることを誓約して釈放されたが、自責の念に耐えかねて首吊り自殺してしまった。

佐々木克巳は、シベリアに戦犯として抑留されている岳父に当たる谷中将の助命嘆願をするため、狸穴のソ連大使館に通っていた。

それに目を付けたキャノン機関によって拉致されたのである。

板垣幸三も、東川クラブに連行された1人である。

幸三は樺太の生まれで、19歳の時にソ連のゲーペーウー(秘密警察)にスカウトされ、マキシム・タールキーの下で4年働いた。

その後は日本に戻り、朝鮮通いの密輸船の船員となった。

そして1951年5月にキャノン機関に捕まったのである。

幸三は、「衣笠丸事件」と黒い糸で繋がっている。

山田善二郎が幸三から聞いた話によると、幸三がキャノン機関に捕まったのは、2年近く乗っていた密輸船で北陸の港に降りた時だった。

幸三は船を降りると、細長い梱包を青森県・三沢の米軍基地に届けるよう依託された。

途中の列車内で、好奇心にかられて梱包を開いたところ、監視されており屈強な男が近づいてきて「ちょっと来い」と声をかけられた。

男は幸三を列車から降ろし、殴り倒して梱包を取り上げた。

恐怖した幸三は逃走し、新潟県・高田地区の警察署に保護された。

警察署で年齢を偽った幸三は、新潟少年鑑別所に送られ、毎日のように新潟CICの取調べを受けた。

3週間後に出所すると、小川という課長に付き添われて新潟駅に送られ、そこでキャノン機関の2人組に引き渡された。

鹿地亘の監禁事件が世の関心を集め、国会でも取り上げられた時、板垣幸三も参考人として呼ばれて、証言をした。

以下は、1953年8月の衆議院における彼の証言の一部である。

『僕は、旧岩崎邸(本郷ハウス)のキャノン機関の本部に連れ込まれ、地下牢に入れられたのです。

その地下牢には水が溜まっていて、横になることも座ることも出来ない状態でした。

翌朝にそこから出されて、キャノン中佐から尋問されました。

「お前が新潟(の警察署)で語ったことは、全部でたらめだ。ここで訂正しないと生きては出られない」と脅迫されました。

3日経っても僕が「何も言い直すことはない」と言うと、彼らは「これから処刑する」と言って、私を目隠しして外に連れ出しました。

そして中庭に僕を座らせて、「どうしても言わねば殺すぞ」とキャノンは言い、ジャックナイフを出して砥石で研いで見せるのです。

グラスゴ(ロイ・グラスゴ准尉)という大男に僕の腕を掴ませておいて、ナイフで首筋が切れない程度に刺すのです。

それでも僕が何も言わないと、今度はコルト45の安全弁を外して僕の下腹部へ突きつけ、「言わないとどてっ腹に風穴が開くぞ」と脅しました。

そういう拷問が、2週間も続きました。

彼らが自供させたかったのは、梱包の内容です。

僕は20分ぐらい拳銃を突きつけられて、「生命の保障を条件にしてくれるなら彼らのために働く」と言いました。

彼らのために働くことを誓約すると、変装用の服を買ってやろうという事になり、神田で日大の制服を買いました。

そしてキャノンは、「これからは福本准尉の言うとおりに活動せい」と申し渡しました。

僕は、伊藤律の線から浮かび上がったという、元アメリカ共産党員で来日してゾルゲの線で活躍したといわれる北林トモの姪が世田谷に住んでいるので、「その女を調べろ」という指令を受けました。

また、キャノン機関は資金稼ぎに密輸をやっていて、その密輸船にも乗せられました。

僕の乗った船は朝鮮へ行って釜山に入港し、荷揚げをしました。
荷の中身は分かりません。

7ヵ所くらに分散して、荷揚げした物資を隠匿しました。

この密輸には、延禎という朝鮮人が立ち合っています。

延禎は太平洋戦争が始まる前までは、アメリカで20数年も生活していたそうです。

日本が敗戦した後は、韓国軍の建設に活躍したそうです。

朝鮮戦争の初期は、韓国海軍の中佐で、軍の司令官をしていたそうです。

そして犯罪を起こして軍事裁判で無期懲役を食らったが、東京に逃げてきて、G2を通じて韓国政府と交渉し、無期懲役をゼロにして「コリアン・ミッション」として日本に置くことになったそうです。

僕の乗った密輸船は、韓国から帰って明石港に入った時、日本の警察の手入れを受けました。

神戸のCICが飛んできて、日本の警察はいっぺんに追い返されました。

僕の月給は5千円でした。
情報を提出すると、2~3万円の報酬をもらいましたが、これはキャノン機関の報酬としては最低額でした。』

(2020年4月4&6日に作成)


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