(『戦後秘史・第7巻』大森実著から抜粋)
(※この記事は、下山事件①と②に書いた内容を補足する部分を抜粋しています。初めての方は、①&②を先に読む事をお勧めします。)
国鉄総裁の下山定則が、出勤の途中で消息を絶ったのは、1949年7月5日(火)であった。
定則は車で自宅を出て、「今朝は佐藤栄作さんに会うんだ」と運転手に言ったが、それを諦め日比谷方向に進んだ。
栄作と定則は、国鉄一家の先輩と後輩で、定則が東鉄局長になった時に、栄作は運輸次官だった。
下山事件の時、佐藤栄作は民自党の政調会長だった。
民自党は、自由党が改名したものである。
下山定則は、運転手に「三越へ行け」と命じたが、まだ開店しておらず、「神田駅へ回ってくれ」と命じた。
だが定則は、神田駅で降りず、「三菱銀行に行け」と命じた。
三菱銀行は、財閥解体令で三菱の商号が使えなくなり、千代田銀行に改称していたが、定則は旧名を使ったのだ。
定則は千代田銀行に入って行ったが、それは開店まもない9時5分ごろであった。
定則は地下の私金庫を開けて、何かを取り出した後、銀行から出てきた。
そして三越百貨店に着いた時は、開店時間の9時半をすぎる頃だった。
三越に入り、そのまま消息を絶った彼は、翌6日の午前0時25分に、列車に轢かれたバラバラ死体となって発見された。
下山定則の死体は、解剖の結果「他殺の疑いあり」となり、7月6日の19時10分に捜査当局は「他殺はほぼ決定的」と発表した。
定則の家族・友人・国鉄当局も、こぞって自殺説を強く否定した。
最高検察庁も、死体解剖が終了した6日19時半から記者会見をしたが、その発表でも他殺説がほぼ断定的であった。
「死体に見られる傷跡の所見から、死後に轢断されたものと認められる」と発表したのだ。
堀・検事正はこう述べた。「轢断された傷跡にメスを入れた結果、出血はない。つまり轢かれた時には死んでいた。」
検察は、殺人で捜査する方針を明らかにした。
死体解剖に加わった東大医学部・法医学主任の古畑種基は、次の所見を記者団に述べた。
「他殺か自殺かの判定のポイントは、死体に生活反応があるかどうかだ。
下山氏の死体にはそれが無い。
そこで、死体になってからレールに投げ込まれたという仮定も成り立つ。
しかし一面から言うと、当夜は激しい雨であったため、血液が洗い流されたことも考えられる。
胃には内容物はなく、わずかに腸の下部に少量の食物があった。
それから見て、昼も夜も食事は採ってないようだ。
死後何時間ぐらい経過しているかだが、断定はできないが、死後12~16時間かと思う。
殺されてからレールに投げ込まれたとしても、生命を奪われた
時刻は、列車に轢かれた時刻と相当に近いといえよう。」
日本政府の増田・官房長官も、6日正午の記者会見で「鉄道の専門家たちは自殺ではないと見ている。魅かれる前に死んでいたとの見方が強い」と発言した。
このように他殺が濃厚な事件だったのに、警視庁は49年12月31日に田中栄一・総監の命令で、捜査本部を解体してしまった。
しかも警視庁は、ガリ版500ページの「下山事件白書」なるものを20冊印刷して、共同通信社を通じて公開させた。
この白書は、自殺と印象づける内容で、つまり事件を終幕させようとするものだった。
この強引な警視庁の態度に、国民の猜疑心は募るばかりであった。
当時は、日本の警察がGHQによって改組されていた。
1948年2月21日に「地方自治体の警察」が発足したが、これはアメリカの警察制度の導入で、GS(民政局)の進歩派が考えた政策だった。
だが敗戦で財政の枯渇している地方自治体は、警察を育てるだけの金がなく、地方の顔役が警察に介入する絶好の機会となってしまった。
田舎の町村では、成り金が公安委員に任命され、警察を壟断した。
吉田茂らは、警察力の地方分権化に反対し、GSと対立しているG2側に加担した。
そして吉田茂・首相は、地方自治体警察に傾斜していた斎藤昇・国警長官を、下山事件の起きた7月5日に罷免しようとした。
下山総裁の轢死体が発見されて大騒ぎしている7月6日に、茂は罷免を強く要求し、辻二郎・国家公安委員長がそれをハネ返すという一幕があった。
GHQのシャグノン中佐の下で、国鉄は「日本国有鉄道」という公社に分離独立させられ、下山定則がこの公社の初代総裁に任命されたのは1949年6月1日であった。
そして下山総裁に対して、9.5万名の首切り命令がシャグノンから発せられた。
第一次の首切りリスト3万7百人が、各職場に発表されたのは、下山事件が起きる前日の7月4日であった。
国鉄の労組は、この首切りにストライキで対抗しようと考えていた。
当時の状況を見ると、下山事件の狙いは、日本共産党を加害者と印象づけることで評判を落とし、労組を弱体化させて、GHQの経済9原則(ドッジライン)の障害を除こうとしたと考えられる。
事実、事件の後に国鉄の大量の首切りは計画どおりに進んだし、民間企業の首切りも円滑に進んだ。
下山事件では、日本の新聞が自殺説をとった毎日新聞と、他殺説をとった朝日、読売新聞に分裂した事も、異常であったと言える。
毎日新聞が自殺説を採ったことの責任者は、平正一・社会部副部長であった。
筆者は、当時は毎日新聞の記者であったが、平正一が下山事件の取材班を指揮している最中に、彼から情報を聴いた。
筆者は「根本元陸軍中将らの渡台事件」の取材中だったが、それに正一は協力してくれただけでなく、下山事件について2晩、夜を徹して語ってくれた。
7月6日の朝、下山定則の轢断死体が発見された直後に、現場付近を取材中だった入社歴1年の若い記者から、目撃者発見の報告が平正一に届いた。
その目撃者は成島正男(38歳)で、「けさの新聞を見て、5日の夕方に五反野の現場付近で会った紳士の人相にそっくりだ」と言う。
正一は取材不足を感じ、ベテラン記者を送って再取材を命じた。
6日の18時すぎに帰社してきたが、成島正男は目撃した紳士が履いていた短靴の絵を描き、その靴の爪先に馬蹄型の縫い取りがあり、靴の色はチョコレート色であったと証言した。
正一が轢断現場で見つかった靴の写真を見たところ、馬蹄型の縫い取りがあり衝撃を受けた。
だが19時すぎに下山定則の遺体解剖の結果が出て、警視庁は東京地検を通じて「死後に轢断された」と発表した。
これを重く見た正一は、翌7日の朝刊は「他殺の疑いが濃厚」とし、成島正男の目撃談は小さく載せた。
正一が自殺説に大きく傾斜したのは、五反野に住む山崎たけ(43歳)からも「下山総裁らしい人を目撃した」と届け出があり、7日16時ごろに入社1年記者が「末広旅館で下山総裁が休んだ」と電話してきたからである。
その1年記者は、五反野で取材を続けていたが、7日の朝に末広旅館の前を通った時、5~6人の男が急ぎ足で出てくるのを見た。
そこで旅館に入り、女将に「今の人達は誰ですか」と聞くと、「警視庁の人達だ」と答えた。
「お宅に犯人でも泊まったのですか」と訊くと、女将は「国鉄の下山さんがお休みになったのです。間違わないで下さいよ。」と答えた。
これを聞いた平正一は、デカ長と呼ばれている事件記者を派遣した。
デカ長は20時ごろに帰社し、末広旅館の女将である長島ふく(46歳)の談話が報告された。
長島ふくによると、5日の14時ごろに旅館に1人の紳士が現われ、「18時ごろまで休ませてほしい」と言った。
2階の部屋に案内したが、宿泊カードを出すと「それは勘弁してくれ」と彼は記入を断った。
17時20分ごろ、2階で手が鳴り、廊下に出ると紳士はすでに階段を降りてきて、部屋代200円の他に、100円のチップをおいて出て行った。
翌朝の新聞で下山総裁の写真を見て、紳士そっくりだったので警察に届け出た。
女将は下山定則の靴だけではなく、靴下の色を「紺の無地」と証言した。
平正一はすでに定則の顔写真や靴についてはラジオで放送されていたが、靴下の色はまだ報じられていないので、調査を命じた。
すると下山家を担当する記者が、下山夫人から「当日は紺色の靴下を履いて出た」との話をきいて伝えてきた。
その頃までに正一の手許には、下山定則が7月4日の17時すぎに、東京駅2階に芥川・鉄道公安局長を突然に訪れた事実も届けられた。
定則はこの時、うわの空でアイスクリームをポタポタと膝に滴る雫にも気付かず食べ、夕刊をしばらく見て「そうか、3万7百人も首を切ったか」と嘆息し、ふらふらと部屋を出て行ってしまった。
定則が、シャグノンの首切り命令と労組の板挟みになり、神経衰弱になったと思える話である。
シャグノンが深夜に下山邸を訪れ、ピストルを出して脅しながら首切りの断行を強要したのは、7月3日であった。
7月8日の朝刊から、毎日新聞は自殺説を打ち出した。
すると中傷と非難の声が殺到した。「毎日新聞の社会部には共産党員がいる」「非国民新聞など買ってやらない」などである。
平正一は、改めて取材する必要があると考えた。
そして記者を、慶応大学・法医学教室の中館久平の許に派遣した。
東京都内で発生した事故死体の司法解剖は、中央線を境にして、北側が東大・法医学教室の古畑種基、南側が中館久平の縄張りになっていた。
久平は取材に対し、こう述べた。
「死後経過時間の判定は、最も難しいもので、総合的にはカンで判断する以外にない。
現在、全犯罪の中で法医学を含む科学捜査で解決できるのは4~5%にすぎない。
法医学は、警察の普通捜査に優先しない。」
平正一の所に、名古屋大学・法医学教室にいた小宮喬介が訪ねてきた。
喬介はかつて、自殺を偽装した轢断死体を解剖して、警察の自殺説を覆す所見を出した事があった。
その事件では、線路のレールの横に下駄が脱ぎ揃えてあり、自殺に見える形だったが、喬介は死体の頭部の傷を「列車によるものとは認めがたい」として、他殺と断定した。
この鑑定が根拠で、元警察官の犯人が逮捕された。
小宮喬介が平正一に語ったのは、次のとおりであった。
「下山事件の新聞はくまなく読んでいるが、ある新聞に下山総裁を轢いた機関車に血痕が付着していたとの記事があった。
僕はこの血痕の状態を聞いてみたが、ゼリー状を呈していたという。
ゼリー状とはある程度固まった状態だが、そのような血液は生体から出た血液に限るんだ。
死体から出たものは凝固しない。
だから死後轢断ではなく、生体轢断とみる。」
以上が、平正一(毎日新聞)の自殺説の論拠である。
正一が筆者に語った話と、彼の著書『生体れき断』に拠った。
結論的に言えば、毎日新聞と平正一の自殺説は、現場付近の聞き込みを重視しており、末広旅館で休憩した紳士を下山総裁であったとする事に大きく拠っている。
この毎日新聞の自殺説は、警視庁・捜査一課の自殺説と併行して進められていく結果となった。
朝日新聞の社会部記者である矢田喜美雄が、下山事件にタッチしたのは、下山定則の死体が見つかった翌日の7月7日であった。
喜美雄の著書『謀殺下山事件』によると、7日の午後に東大・法医学教室を訪ねて、血液学の野田金次郎と会い、さらに定則の遺体を解剖した桑原直樹にも会った。
東大・法医学教室の解剖責任者である古畑種基は、他殺説を採った東京地検の協力を得て、死体が轢断された所のレール下から、3ヵ所、バラスを掘り起こして、枕木下40cmの土砂を三層に分けて採取した。
この土砂を、国家警察科学捜査研究所で分析したところ、血がほとんど検出されなかった。
古畑種基と東京地検は、次の捜査として、列車が下山定則の死体を引きずったと思われる区域、10ヵ所のバラスを掘り、枕木下50cmまで土砂を採取した。
だが血液反応は無かった。
轢死体から、なぜ血が出なかったのか。
死体の傷口を350ヵ所以上も調べたが、傷口には生活反応がなく、しかも死斑が出ていない。
こうなると、轢断の前に殺されており、さらに死体には血が無かったと解釈できる。
麻酔薬を注射されたり、毒物を飲まされた形跡がないかは、東大裁判化学研究所が調べたが、毒物反応もアルコール反応もなかった。
矢田喜美雄は、桑島直樹の研究所で、下山定則の頭蓋、臓器などを見せられた。
ホルマリンに漬けられて、性器の先端亀頭部もあったが、紫色の十円銅貨大の変色部分があった。
直樹は、「ここに生活反応が発見された」と説明した。
紫色に変色するほどの生活反応は、「性器が強烈な殴打を受けた証拠である」と、直樹は説明した。
喜美雄は、さらに直樹から次の情報を得た。
下山総裁を轢断した列車が走った方向とは逆の、始発駅よりの枕木から、下山総裁と同型のA型の血痕が発見されたというのだ。
その情報は、アメリカ占領軍・憲兵司令部の犯罪捜査研究所にいる、フォスター軍曹から直樹に伝えられた。
直樹は毎週2回、同研究所に顔を出していた。
矢田喜美雄は、轢断現場に足を運んだ。
すでに事件から2週間が経っていて、フォスターが鑿で血痕を削り取った枕木を発見するのに苦労した。
削り痕は、5本の枕木に8ヵ所あり、始発駅寄り10m以上の所にもあった。
喜美雄は、「探せばもっと始発駅寄りの枕木からも血痕が見つかるかも」と考えた。
そこで東大法医学教室に行き、野田金次郎からベンチジンという血液検査用の薬をもらった。
喜美雄は、栗田純彦に応援を頼んだ。
純彦は東大農学部の出で、薬品に詳しかった。
2人は現場に行き枕木を調べたが、轢断地点から30mも始発駅寄りに血痕を見つけた。
矢田喜美雄は『謀殺下山事件』に次のように書いている。
「血の道はどこまで遡るか分からない。ベンチジンは高価すぎたので、他の薬剤はないかと腕を組んだ。
野田金次郎・博士は、あの薬はあったかなと考え込んで研究室を出て行った。」
そして喜美雄は、ベンチジンに代わる「ルミノール試薬」を見せられたのである。
この薬は、血痕に吹きかけると光り出し、鮮やかな螢光を発する。
1936年にベルリン大学のグレン教授が開発し、第二次大戦の直前に日本海軍が輸入して武田薬品に作らせたといわれる。
7月23日の午前0時に、矢田喜美雄と栗田純彦は現場に行き、まず轢断地点のレールと枕木に噴霧してみた。
すると暗闇の中で10数ヵ所も螢光を放った。
ルミノールは、1ccという微量の血を300リットルの水で薄めても、螢光反応を起こす驚異の薬である。
殺人犯が、返り血を浴びた衣服から血を洗い落としても、繊維に沁み込んだ血痕を見逃さない。
この後、犯罪捜査でルミノール反応は常識となっていくが、日本で最初に使ったのが両記者であった。
『謀殺下山事件』にはこうある。
「噴霧器のポンプで、試薬を吹き付けて歩いた。
轢断地点から上手への血痕追跡は、フォスターが教えてくれた枕木では3つの発光点を見つけた。
枕木を67本目まで調べたが、その距離は最初の枕木から40mあまりであった。」
螢光を発する血痕は、轢断地点から列車の走行方向とは逆に、40mの距離をまるで酔っ払いが歩いている様にレール上で左右に揺れていた。
下り線レールだけではなく、途中からは上り線レール上に「血の道」が移行している事も分かった。
このルミノール発光の点を連結させると、下山総裁を運んだ者達の足どりが、彷彿として浮かび上がってきた。
この発見は、東京地検を唸らせ、6人の検事が出動することになった。
そして血の道をたどって、土手下の廃屋のようなロープ小屋を発見した。
その一方で、東大法医学教室は、下山定則の着衣の血痕を、調べ直すことにした。
秋谷七郎が化学反応を調べたところ、意外にも血痕ではなく、大量の油と、染料が検出された。
定則の死体解剖を担当した桑原直樹も、矢田喜美雄にこう告げた。
「解剖台に乗せた時から、2本の腕が妙に黒かった。
警視庁から遺品が届けられた時、包装紙にまで油が浸みていた。」
調べた結果、油は「植物油」と断定された。
機関車に轢かれたのだから、鉱物油なら分かるが、そうでなかったのだ。
正体はヌカ油と結論され、「下山油」と命名された。
遺品にくっついていた石膏は、染料や彫刻に使われる硫酸石炭と断定された。
次に染料だが、水溶性で、青緑、紫、赤、褐色の塩基性色素と分かり、「下山色素」と命名された。
八十島信之介・監察医の轢断現場所見に、「死体に油が付いていた」との報告があり、轢断したD51機関車にはヌカ油が使われていない事も判明した。
もはや他殺説が決定的となった。
そこに1949年12月4日の深夜、警視庁の坂本・刑事部長が、東京地検の馬場・次席検事の家を訪ねてきた。
坂本は「田中栄一・警視総監の了解ずみ」と言って、警視庁・捜査二課の吉武辰雄・警部の異動を告げたのである。
馬場・次席検事は「他殺の捜査は誰が引き継ぐのか」と、言葉を呑んで立ちすくむほどの強い衝撃をうけた。
実はこの日、東京地検は警視庁・捜査二課と合同会議を開き、下山油と下山色素の追い込み捜査の戦略を練ったところだった。
獲物を追いつめた所で、いきなり赤信号が点灯されたのである。
筆者は、捜査の大詰めで異動が発令され、事件がもみ消されたケースを、数多く知っている。
50年9月になって、東京地検と捜査二課が頼みの綱としていたGS(民政局)から、「捜査を続行しても無駄だ」と引導を渡された。
他殺説の根拠となったのは、他にもあった。
様々な目撃者の証言である。
午前9時37分ごろに三越店内に入った定則は、1階にいる店員の長島シズ子、新井キミ、小川某に見られている。
この時は1人だった。
定則らしき者は、三越の他の場所にも姿を現わしていた。
飯田英一「10時ごろに3階の家具売場の通路から出た所で、体格の立派な紳士に出会ったが、3~4人を連れていた。」
高田キミ「私は地下鉄口の案内人ですが、午前10時15~20分ごろ、2階に昇る北口エレベーターから、立派な体格をした人が3~4人連れと一緒に地下鉄のほうへ出て行った。」
熊本武三郎「私は三越の5階にいたが、11時ごろに部屋を出ると、洗面所から出て来た紳士が何か尋ねたいようだった。何の御用ですかと聞くと、ちょっと待つ人がいるからと言って、3階の売場に通じる階段を降りていった。」
さらに10時20~30分の間に、三越北口近くの歩道に店を出していたライター屋の梅村正博は、定則らしき男から油さしを頼まれている。
三越の地下道にあった喫茶店「香港」のコック、バーテン、サービス係の3人は、こう証言した。
「10時開店からしばらくして、最初の客の2人連れが来た。身体の大きい八字眉の年寄り(定則らしき人)は、若い人の話をフンフンと聞き、テーブルに両腕をついて頭を抱え込んでいた。2人は30分ほどで帰った。」
さらに主婦客の小川貞子の証言もある。
「午前11時13分ごろ、地下鉄の三越前で降り、三越の地下入口に入ろうとした時、奇妙な4人連れが曲がり角にへばり付いていたので、思わず立ち止まった。」
佐藤栄作の秘書をしていた大津正も、証言している。
「民自党本部から自動車で出て、議事堂付近にさしかかった時、逆方向から走ってくる自動車と擦れ違ったが、その車の中に、2~3人の男に左右と前方を囲まれた状態で、下山総裁が乗っているのを見た。」
この証言は、事件発生の3日後の7月8日に読売新聞に載った。
大津正は1964年のTBSのテレビ特番でも、「あのとき目撃したのは下山総裁に間違いない。下山氏がいつも乗っている車ではなかったので、変だなと思った」と語っている。
極めつけの証言は、矢田喜美雄が捜しあてたSという建設業・現場監督のもので、著書『謀殺下山事件』から紹介させてもらう。
「私の強盗前科はあなたが調べたとおりだが、今の私はありふれた世間の親になっている。
時効だから話してもいいが、洗いざらいというわけにはいかない。
盗品の荷運びだというのでやったら、荷物は死体だった。
先渡しの5千円に目が眩んでやったが、生温かい死体を掴まされた時はびっくりした。
真っ暗闇の草道を歩き、土手の上に出て、レールの間を歩いてガード下まで来ると、『死体は置け。仕事は終わった。帰っていい』と言われて、帰った。
翌朝に轢断事件でラジオや新聞が大騒ぎを始め、身の置き所もなかった。
仲間のFが、『オレたちは運んだだけで、誰の手で殺されたのかも知らん。仕事の残額1万円をもらって、東京を逃げ出そう』と言った。
その運び仕事の話があったのは、事件の20日ぐらい前だ。
Q館という安宿は、強盗屋のたまり場だった。
そこに盗品の荷運びの話が持ち込まれ、体格がよくて力のあるヤツがいいと、私、N、Fが選ばれた。
100円札で50枚が渡され、7月5日の朝10時に、銀座の地下鉄改札口近くの喫茶店メトロに集まることになった。
メトロに行くと8人集まっていたが、ボスがいて、それぞれの仕事の分担を決めた。
『夜に荒川放水路・北側の小菅刑務所横の土手に行って、車から降ろす荷物を受け取れ』と言われた。
指定場所に着いたのは21時半を過ぎていた。
車が来て、エンジンの音を頼りに土手から降りると、30mぐらいの所に真っ黒い車が停まっていた。
荷物はトランクから降ろされていて、登山帽の背の低い男がリーダーらしく、『お前は前、お前は後ろに回れ』と、私たちに荷物運びの守備位置を指示した。
3人で運んだが、手に触れたのは生温かい人間の身体だった。
ギョッとして、もう少しで死体を落とすところだった。
死体はぐにゃぐにゃでとらえどころがなく、やたら重かった。」
矢田喜美雄はSを追い、10回以上も接触した結果、以上の供述をとったのである。
喜美雄は、他の証言も入手している。
1949年7月2日、下山失踪の3日前に、銀座の韓国代表部の金権源・一等書記官の許に、李中煥という情報屋が来た。
「下山総裁を列車で轢かせる殺人計画が進められている。殺して自殺に見せかけるが、ヤツらは必ず実行する。下山に教えてやれば、韓国代表部は日本政府から感謝されるだろう。」と言うのだ。
中煥は情報料として5万円を要求し、韓国代表部は相手にしなかった。
この情報を喜美雄が知ったのは49年12月中旬で、李中煥を追うと山口県警に繋がれていた。
李中煥を逮捕したのは東京CICで、逮捕日は下山事件の10日後だと分かった。
喜美雄の調べによると、中煥は東京CICにニセ情報を送ったとして捕まったが、その情報には「下山総裁は血を抜かれて死んだ」とあった。
矢田喜美雄は収監中の李中煥と面談したが、中煥の自供書は次のとおりだった。
「下山殺害計画は、某国の謀略で、日本で社会不安を起こすために仕組まれた。
計画は4月ごろから進められ、6月終わりに犯人は下山総裁と秘密に会っていた。
誘拐犯は4人組で、約束の朝に総裁は指定した三越北口に現れた。
4人は自動車で都心部にある某ビルに総裁を連行した。
誘拐車のナンバーは『IA=2637』だった。
ビルに連れ込まれた総裁は、暴力で失神させられ、腕に注射されて裸にされた。
剥ぎ取った衣服は、中村という、総裁より少し背の高い49歳の男が身につけてビルから出た。
総裁は夜に入ってから、腕の上膞部の血管を切られ、血を抜き取られて死んだ。
夜21時半ごろに死体は自動車で現場に運ばれた。
総裁を轢いた列車は、現場を23時半ごろに通過した貨車である。
現場は、先行した3人の監視班が準備した。」
李中煥は、千葉CICの隊長だったエイブラハム少佐に食い込んでいたという。
このエイブラハムを、鹿地亘・監禁事件に関わった山田善二郎が知っているのだ。
エイブラハムは、千葉から横浜のCICに転勤してきて、ジャック・キャノン中佐(キャノン機関)の工作員になった。
エイブラハムは、李中煥を「ニセ情報を持ってくる」という理由で、横浜加賀町署につき出したそうだ。
麻薬かなにかのもつれがあったのだろう。
中煥は下山事件の直前の49年5月に釈放されたという。
筆者が山田善二郎にインタビューした時、善二郎は「キャノン中佐が横浜CICのエイブラハム少佐と共に、泥仕事を終えた作業着姿で、帰宅してきた事がある」と語った。
それがいつの日だったか善二郎は思い出せなかったが、下山事件と関係はなかったのだろうか。
(2020年4月11~15日に作成)