(『何も知らなかった日本人』畠山清行著から抜粋)
(※この記事は、下山事件①~③に書いた内容を補足するものを書いてます。下山事件に詳しくない方は、まず目次に行き①~③を読むことをお勧めします。)
国鉄では、1948年4月にまず「庭坂事件」があり、49年5月には「予讃線事件」があった。
それから2ヵ月足らずで「下山事件」が起き、10日後には「三鷹事件」が起き、8月17日は「松川事件」が起きた。
庭坂から松川まで5つも事件が続き、しかも庭坂、予讃線、松川の3つは犯行の手口が似ていた。
誰もが謀略の臭いをかぎとるのも当然である。
「庭坂事件」は、1948年4月27日の午前0時4分に起こった。
列車が奥羽線の庭坂駅と赤岩駅の中間で脱線転覆し、3名が亡くなった。
線路の犬釘や継ぎ目板が抜き取られていたが、犯人は検挙されなかった。
「予讃線事件」は、1949年5月9日の午前4時20分ころに起きた。
四国の高松桟橋駅を出た列車が、途中で脱線転覆し、3名が死亡し、4名が負傷した。
これも犬釘やボルトや継ぎ目板が外されていて、犯人は捕まらなかった。
「松川事件」も、犬釘や継ぎ目板が外されていた。(※この事件は、別記事にて単独で取り上げています)
当時の国鉄は、外地からの復員者などが加わって、職員が60万人近くまで増えていた。
国鉄は1949年6月1日から公共企業体となって、独立採算性になり、新しくできた「定員法」で9万5千人をクビにする事が決まった。
しかし大量のクビ切りに労組が反対し、緊迫した空気に包まれていた。
その中で「下山事件」は起きたのである。
その日、下山定則・国鉄総裁は自宅を車で出ると、失踪前に千代田銀行に寄り、地下の私金庫を使った。
後で調べてみると、私金庫には1万円の束が3つや、株券などが入っていて、2500円を持ち出したと推定された。
しまっていた機密文書を持ち出した可能性もある。
死後に下山総裁の尻ポケットから出てきた財布には、45枚の100円紙幣が入っていた。
彼が家を出る前に妻が財布を調べた時には、100円紙幣で2000円しかなかった。
つまり、2500円は私金庫から出した事になり、会う予定の情報屋に渡すつもりだったと見られている。
下山定則は、車を三越の南口に停めさせて、三越に入って行き行方不明になったが、竹谷有一郎はこう証言する。
なお、有一郎は元大陸浪人で、上海では紅幇に加入し、戦後は後述する矢板機関で働いた人である。
「三越の南口駐車場は、キャノン機関のベック松井や大西も、アジア産業へ来た時によく使っていた。だから下山定則はあそこから車に乗せられたと思う。」
国鉄の本社では、下山総裁が出社しないので、10時45分に斎藤昇・国警長官と田中栄一・警視総監に消息不明を報告した。
栄一は報せを受けると、11時半に刑事部長と警備部長を呼んで、万一に備える体制をとらせた。
そして警視庁は、捜査会議を16時に開き、17時にNHKのラジオニュースが下山総裁の行方不明を伝えた。
下山定則の死体を解剖した古畑種基・博士は、1966年放送の東京12チャンネル『私の昭和史』で、こう証言している。
「私の結論は死後轢断に留めたが、含みとしては他殺とした。
証拠を見ると、どう考えたって自殺とは説明できない。
自殺論者の説を読んでみたが、みなつまらん説で、賛成できない。
下山事件は普通の殺人事件ではなく、国際犯罪の1つとして捜査しなければならなかった。
しかし当時の警視庁は、日本人以外を調べるのは困難があった。
下山事件は、死体の貧血がひどく、どこかで血管を切って血を抜き、それから死体を運んだと推定している。
その他にも、死体には油や5色の色素が付いていた。
裸にして油のある所に転がされていたと推定できる。」
東京12チャンネルの『私の昭和史』では、自殺説も取り上げ、関口由三・警部がこう証言している。
「私たち捜査一課では、自殺説で確信を持っていた。
最大の理由は目撃者で、色々な所で下山総裁が目撃されたいた。
浅草駅、五反野駅、末広旅館、事件現場の近くなどである。
下山はノイローゼになっていて、病院で催眠薬をもらって飲んでいた。
国鉄の首切り問題で進駐軍に強く言われており、日本政府からも言われて、非常に苦しんだと思う。
それに下山は75キロの身体で、死体を持ち運んだとすると、車も入らないあんな細い道で不自然だ。
自殺で決定して、発表するという時に、発表するなと進駐軍の命令が出た。
これは至上命令だから、発表できなかったのが真相だ。
当時はレッド・パージの時で、下山事件を日本共産党の仕業に思わせようとしたのが事実である。」
捜査二課の浅野淳一・警部補は、矢田喜美雄の著書『謀殺下山事件』の中で、自殺説に反論している。
「捜査一課は殺しの専門で、単純な判断しかできない。
(事件現場近くの)レールの近くを散歩していた男が、下山総裁だなんてナンセンスだ。
私が会った証人の辻一郎によると、その男はメガネをかけず、アゴが張っていて日焼けし、たくましい体でシャツの前ボタンを外していたといい、西尾末広に似た顔だと言っていた。」
ここからは、筆者の探り出した事を書いていく。
下山事件の夜、キャノン機関で働く韓道峰(日本名は村井恵)は、本郷ハウス(キャノン機関の本部)の自室で遅くまで調べものをしていた。
彼はこう証言する。
「電話が鳴り、受話器をとるとベック松井だった。
ベック松井は、キャノン機関でも第一のやり手で、キャノンが片腕とたのんでいた日系二世だ。
ベック松井はずっと後に、シアヌーク殿下の暗殺計画で有名になった。
香港からシアヌーク宛てに爆弾のプレゼントを送り、包みを開けた儀典長が死んだのだ。
この件で松井は、シアヌークから名指しで非難され、国際的な悪名をはせた。
松井は、電話に出た私に対し、『万事かたづいたと(ボスの)キャノンに伝えてくれ』と言った。
『どこかへ行くのか』と私が訊くと、『神戸までドライブだ。少々腐ったことがあってね』と言って彼は電話を切った。
ジャック・キャノンは、その夜は留守だった。
私が忘れられないのは、明け方にキャノンは帰ってきたが、私は翌朝に起きてから伝言を伝えた。
すると『そんな大事なことをなぜ急いで伝えなかったか』と、ひどく叱られた。
松井の伝言を聞くと、キャノンはひどく慌てて、方々へ電話をかけていた。
『しまった、まずい事をやってくれた』と言っていた。
キャノンには、下山を殺す気はなかったと思う。
脅して意のままに動かせれば一番だと考えていたと思う。
私は本部の本郷ハウスに居たから、キャノン機関の行った大概の工作は知っている。
キャノンは、大事な工作では打ち合わせをして、自ら出掛けていた。
だから下山事件がキャノン機関の直接の工作ではないと、はっきり言える。
しかし全く関係ないとも言えず、キャノン機関の下部組織が動き、キャノン機関の施設を使ったのも事実だ。」
韓道峰が上の証言で言う「下山事件に使ったキャノン機関の施設」とは、「ライカビル」と千葉県勝浦にある「アジア産業の缶詰工場」である。
ライカビルは、下山定則が誘拐された三越の斜め向かいを入った所にあった5階建てのビルである。
ライカ・カメラの販売と修理をするシュミット社が1~2階を使い、3階にはアジア産業の事務所があった。
4階は三浦義一の事務所で、5階はシュミット社の修理工場だった。
4階の三浦義一の事務所は、一角がジャック・キャノンの秘密の私室だった。
ライカビルは、東京のど真ん中にあるので、キャノン機関が便利さから使っていた。
三浦義一の事務所にジャック・キャノンの私室があった事は、両者の密着ぶりを物語るし、三浦の後輩の児玉誉士夫とキャノン機関のつながりも想像できる。
ちなみにライカビルは、『MP隊長、ダイヤを抱いて砂漠に死す』という外字紙の報道で有名になった、ダイヤ盗難事件の舞台ともなった。
(※この事件はすぐ後に詳述)
キャノン機関の下で働いていた「矢板機関」の長である矢板玄は、日中戦争の時期は中国大陸で昭和通商の幹部として働いていた。
(※昭和通商は、日本軍の下で麻薬の密売をした組織である)
矢板玄は、栃木県矢板町の旧家の出である。
父の矢板玄蕃は大蔵省に関係があり、日本政府が戦時中に民間から集めた金銀やダイヤを管理する、運営委員会の長を務めていた。
その関係から矢板玄は、日本が敗戦した時に日本海軍が栃木県に隠したダイヤの在り処を知っていた。
そのダイヤのうち連合国軍が押収して残した分を、キャノン機関が押収して、ライカビルの三浦義一の事務所にあるジャック・キャノンの私室に持ち込んだのである。
このダイヤは、すぐ近くにある千葉銀行の支店に預けられた。
これを知ったのが、米軍・第八軍のMP隊長の大尉だった。
この大尉は、キャノンの使いと称してダイヤを受け取ると、アメリカに帰国した。
そしてダイヤを持って逃げ回り、最後はアリゾナ州の砂漠で死んだ。
次に、千葉県勝浦にあった「アジア産業の缶詰工場」を説明する。
ここは、戦時中は樋貝詮十郎の造船所があった場所で、売りに出たのをキャノン機関が購入して、傘下の矢板機関が密輸船の工作に使っていた。
かつて筆者が、元矢板機関員の案内でそこを訪れた時、洞窟の中には木材や空き缶などが、油にまみれて転がっていた。
ここは戦時中に、モーターボートに自動車のエンジンを付けて、爆薬を搭載して敵の艦船に体当たりする震洋特別攻撃隊の基地として、洞窟を広げたものである。
すぐ前の海岸には船だまり(港湾)があり、密輸船の基地として良かった。
かつて矢板機関員だった者は、こう語った。
「叫んでもわめいても、人家に聞こえる心配はない。
だから拷問や殺しに絶好の場所だった。」
矢板機関員だった竹谷有一郎は、青島の軍備を探るため密輸船で派遣された事もあったが、こう語る。
「あの町にある三日月旅館が、キャノン機関の定宿だった。
洞窟の中の倉庫には、密輸船用の油などのドラム缶が転がっていた。
密輸で持ち込んだ中国の油や南方の生ゴムは、敗戦後で物不足の日本では喉から手が出る品だった。」
下山事件の直前の1949年7月2日に、神戸のCIC(GHQの諜報部隊)の者が、東京に来て日本橋の交差点に近い八州ホテルと名倉に分宿した。
八州ホテルは、G2のチャールス・ウィロビーと深い繋がりがあり、諜報関係者の定宿になっていた。
名倉もキャノン機関と結びついていて、矢板玄は愛人を住まわせていた。
韓道峰はこう語る。
「国鉄にいるスパイとの連絡は、日本共産党の(幹部の)伊藤律があたっていた。
(※伊藤律は日共にいたが、密かにキャノン機関で働いていた)
下山事件の当日、伊藤が何らかの形で動いたと思う。
伊藤は、かなりの情報のコネを国鉄に持っていたらしく、何度が国鉄労組の報告をジャック・キャノンにしていた。」
神戸CICのグループは、三越で下山定則を誘拐した後、そのままライカビルに連れ込む計画だった。
しかしライカビルと三越は目と鼻の先なので、とりあえず車に乗せて都内をぐるぐる回り、その上でライカビルに連れ込んだ。
車に乗せたからには、すぐ近くのライカビルに連れ込むことはないだろう、との盲点を突いたのである。
竹谷有一郎は、こう証言する。
「下山事件の少し前に、矢板玄から相談を受けた。『スリの達人を知らないか』と。
ある人物が重要書類を持っているらしいので、それを手に入れたいと言うんだ。
数日すると、今度はジャック・キャノンに呼ばれた。
その席には矢板も居た。
矢板が『スリはどうなった』と訊くので、『なかなか見つからない』と答えると、キャノンは『困ったな、急ぐんだが…』と言っていた。
それから2~3日経って、矢板から『君は上海で紅幇に入っていたから、色々な殺しを見ているだろう。どんな方法が一番足がつかないか』と聞かれた。
『信用されている者が一番いい』と答えると、矢板は『なるほど、信用のある者か…』としきりに考えていた。
その一両日後に下山事件が起こったから、おそらく誘拐では下山に信頼されている人が接触したに違いない。
誘拐後に下山は裸にされたが、たぶん労組の密約文書でも持っていると見たのだろう。
下山事件を知って、スリを必要としたのはこれだったかと納得がいった。」
矢田喜美雄が書いた『謀殺下山事件』には、次の話が出てくる。
下山事件から50日目の8月24日に、加賀山・国鉄副総裁に情報を提供していた国鉄独立青年同盟のKが、加賀山に面会を求めた。
会うとKはいきなり言った。
「私の生命を保証してくれるなら、下山事件の重大なカギを与えてもよい。ただし3万円ほしい。」
加賀山が「もっと詳しく話してくれ」と迫ると、Kは「事件を計画した本部は三越の近くにある」と言って口をつぐんだ。
翌25日に、Kの話をめぐって加賀山、東京地検の堀・検事正、馬場・次席の3者が密議した。
Kの情報はこれまで百発百中で、下山事件の解明になると思われたので、Kに3万円を与えて身柄保護すると決まった。
ところが田中・警視総監から東京地検に、Kの逮捕状の請求があった。
右翼の児玉誉士夫が、Kから脅迫されたと届け出があったという。
Kは逮捕されたが、脅迫していないと否認を続けた。
Kは小菅刑務所で20日間調べられて釈放されたが、Kの下山事件の情報提供はおじゃんとなった。
ロッキード事件が起きてから、週刊新潮が載せた特集『CIAに汚染された戦後三十年に浮上した下山事件の闇』では、上記のKの身許が児玉直三だと明かされ、彼の証言が出ている。
児玉直三は、5年前に国鉄を退職して、この時は労務コンサルタントをしていた。
「私は下山事件の直後に、国鉄副総裁の加賀山さんに頼まれて、下山事件や国鉄労組の情報を送っていた。
国鉄に民同をつくったのが私で、国鉄内に反共の組織をつくる運動をしていた。
警視庁の刑事も、毎日のように私の所に情報を取りに来ていた。
下山事件が起きると、私は警察に逮捕されたが、理由は児玉誉士夫を脅したというもので、全く心当たりが無かった。
20日間も拘置所に入れられたが、起訴にならず出所できた。」
児玉直三は、下山事件の情報をつかんでおり、「事件を計画した本部は、三越の近く(ライカビル)にある」と語っていた。
そのため、ライカビルにいる(事務所のある)三浦義一と親しい児玉誉士夫が、口封じに動いたらしい。
下山定則は、誘拐されるとライカビルに連れ込まれたが、誘拐犯たちは最初から殺しを考えていたようだ。
というのは、下山定則の上着を脱がせて、それを着たニセモノが五反野に向かったからである。
キャノン機関のベック松井は、誘拐犯たちと共におり、彼が殺すことを考えたのだろう。
ライカビルに連れ込むまでは神戸CICが受け持ったが、そこから下山定則を千葉県・勝浦にあるアジア産業の缶詰工場まで運んだのは、別のグループだった。
さらに、殺した定則の死体を五反野に運んだグループ、線路に工作をしたグループと、下山事件の工作は4段階に分かれていたようである。
キャノン機関員だった韓道峰は言う。
「キャノン機関には、右翼、左翼、旧日本軍人、アメリカ軍人、朝鮮人がいたから、工作次第でどんな連中も使えた。関西CICのグループは、途中で交代したという話だ。」
ライカビルから勝浦までは距離があるが、当時は車の数が少ないし、進駐軍の車やジープは「通行人の2人や3人をひっかけようと問題ではない」という調子でとばしていたから、それほどの距離ではなかった。
再び竹谷有一郎の証言である。
「僕は密輸船の事件で、証人喚問されそうになった事がある。
その時、ベック松井に呼ばれて車に乗せられ、外苑をぐるぐる回りながら『喚問に応じるな』と、横っ腹へ拳銃を突きつけて脅された。
それが彼らの常套手段で、下山定則も拳銃で脅されて連行されたに違いない。
念入りに調べるにはライカビルでは場所もまずいし、勝浦に移動したのだろう。」
次は韓道峰の証言である。
「勝浦に着くと、下山は韓国人の権に金玉を蹴られて、倒れる拍子に缶詰の箱にぶつかり箱が倒れた。
下山は気を失ったが、しばらくして息を吹き返した。
生かしておいてはまずいと、殺したらしい。」
下山定則は、血を抜かれて殺されたらしいが、勝浦が殺人現場だろう。
韓道峰は言う。
「殺しの現場でだろうが、権が下山の靴を履いて『俺にちょうどいい』と喜んだ。
『バカやろう、そんなの履いてたらいっぺんに足がつく』と、空手の名人の金(仮名)にどなりつけられた。
金も重要な役割をつとめていた。」
竹谷有一郎は言う。
「権は韓国に帰って、東亜日報の日本支局長と一緒に、スパイとして死刑になった。
金はまだ生きているが、口を割るまい。」
なお、下山定則を誘拐して運んだ車は、鎗水徹・記者が突きとめている。
そのナッシュ四七型のセダンは、下山事件の翌年に神奈川県庁に払い下げられて廃車となった。
韓道峰は言う。
「黒いセダンに間違いない。
下山事件の後、しばらくは横浜CICが使っていて、時々は(キャノン機関の本部の)本郷ハウスにも来た。
ある時、キャノンと私が一緒に出掛けることになり、(私は知らずに)その車に途中まで乗せてもらおうと提案したが、キャノンは『あれが下山を運んだ車だ』と言って、乗るのを止めた。」
アサヒ芸能の平塚柾緒・記者は、テキサス州にジャック・キャノンを訪れて取材し、それを同誌に載せた。
その記事から、キャノンと平塚記者の会話部分を書く。
キャノン「ムライ(村井順、元内閣調査室長)はどうしている?」
平塚「今はボディガード会社(日本綜合警備保障)のボスだ」
キャノン「サイトー(斎藤昇、元国警長官)は出世しているのか?」
平塚「今は厚生大臣だ」
他にもキャノンの口からは、タナカ(田中清玄)、スガワラ(菅原道斎)、サワダ(沢田美喜)といった、彼が接触していた名前が次々と出た。
下山事件についてキャノンに訊くと、「〇〇〇・〇〇〇という名を知っているか?」とぽつりと言った。
(※原文では伏字になっているが、これは「ヤイタ・クロシ(矢板玄)」である)
「まだ健在だ」
「彼は日本の特務機関員だった者で、日本人の情報工作員を何人も紹介してくれた。
彼は、某国の△△領事館に入っていたスパイだった。」
矢板玄は、現在は某一流上場企業の幹部であり、その生家は周辺では名家で通っている。
ジャック・キャノンが本郷ハウスで活動していた頃、矢板玄は中央区のビルの一室に貿易会社の看板を掲げていた。
キャノンがたまにそのビルを訪れていた事は、社員が証言している。
(2021年10月30日~11月2日に作成)