公職追放⑤
鳩山一郎の追放、代わりで吉田茂が首相になる①

(『戦後秘史・第6巻』大森実著から抜粋)

自由党・党首の鳩山一郎が、公職追放令に該当するという話は、1946年2月の時点からあった。

朝日新聞の2月10日の紙面には、次の記事が載った。

「鳩山・自由党総裁は、翼賛政治会の顧問だった経歴で、公職追放される事になった。

自由党で追放令に接触しないと見られるのは、芦田均・厚相と河野一郎・幹事長だけである。」

だが楽天家の鳩山一郎は、遊説先で「引っかかるわけはない」と強気の談話を発表した。

一郎は遊説旅行から戻ると、2月22日に「自由党を中心に安定勢力をつくろう」と声明した。

この声明では、反共が鮮明に打ち出された。

当時は、日本共産党に勢いがあった。

共産党の野坂参三が長い亡命生活を終えて帰国し、3万人を集めた帰国歓迎人民大会が日比谷公園で行われたのが、1月26日であった。

この大会が導火線となり、参三の提唱した「民主統一戦線」が世論の支持を得て、世話人には山川均、石橋湛山、羽仁説子、長谷川如是閑らが名を連ねた。

鳩山一郎は、日本の敗戦後に新党創設の工作を始めた時、西尾末広、平野力三、水谷長三郎ら社会党の右派と会談し、新党(自由党)への参加を呼び掛けていた。

だからリベラル路線と見られていたが、唐突に反共を打ち出した。

1946年4月10日に行われた総選挙では、鳩山・自由党が141議席で第1党になった。

進歩党は94議席、社会党が92議席、共産党は意外にも5議席しか獲れなかった。

GHQの公職追放令が出て、保守陣営が大量に追放されたにも関わらず、自由党と進歩党の保守勢力が勝ったのである。

この原因を探すとすれば、総選挙直前の民主戦線の人民大会が、暴徒と化して首相官邸に雪崩れ込んだ事や、その時に群衆が警官隊と大衝突した事が挙げられる。

あとは日本共産党の首脳部が、長い獄中生活を終えたばかりで世情と隔絶しており、過激路線を進めた事も挙げられる。

さらにGHQの反共派が、天皇の巡幸計画を考え出し、46年1月1日に発表した天皇の人間宣言と合わせて、裸の天皇を演出した事も、選挙に影響しただろう。

『ニッポン日記(ジャパン・ダイアリー)』の著者であるマーク・ゲインは、本名はモウ・ギンズバーグといい、シベリア生まれのロシア人である。

アメリカの大学で学び、上海で記者生活をスタートさせ、シカゴ・サン紙の特派員として1945年12月5日に東京に赴任してきた。

彼の文章を見ると、左派の思想だったのは歴然としている。

彼は、鳩山一郎の追放で巨大な役割を演じた。

ニッポン日記にはこうある。

「1946年4月6日(総選挙の4日前)、プレスクラブで4大政党の領袖と記者たちの晩餐会が行われた。

自由党からは鳩山一郎・総裁、進歩党からは長井順・党総務、社会党は松岡駒吉、共産党は野坂参三が出席した。」

この晩餐会は、実は鳩山一郎の査問会だった。

事前にGHQのCIE(民間情報教育局)から、一郎の著書『世界の顔』の英訳が外人記者たちにばら撒かれていた。

マーク・ゲインは書いている。

「晩餐会の直前に、私は査問会を組織した。

被告は鳩山一郎で、私は彼が首相になる危険を回避するのに力を貸したかった。

鳩山が1938年に書いた『世界の顔』を、GHQのある将校たちが私に呉れた。

私はこの本を12に引き裂き、記者に配布してそれぞれ分担を決めた。」

『世界の顔』は、著者は鳩山一郎になっているが、実は中身を書いたのは評論家の山浦貫一で、一郎は内容を熟知してなかった。

この本にはヒトラーやムッソリーニを称賛する記述があり、マーク・ゲインらはそこを突いた。

一郎は狼狽して「あの本では嘘を書いた」と答えたが、記者団は「あなたは8年前に嘘を書いて国民を戦争に駆り立てたのか」と追及した。

この晩餐会をきっかけに、GHQのCIS(対敵情報部)が一郎を捜査し始めた。

鳩山一郎に近かった評論家の岩淵辰雄によると、一郎の不利な経歴をGHQにたれ込んだルートは3つで、幣原内閣の楢橋渡・書記官長、日本共産党、石原莞爾だったという。

石原莞爾は、日蓮宗系の新興宗教に凝っていて、政界への進出も図っていた。

だがこの段階になっても、鳩山一郎は楽観していた。

46年4月18日の朝日新聞では、一郎はこう語っている。

「世界の顔は、山浦貫一が僕の日記を持っていって出版したもので、僕の著書じゃない。

ヒトラーとムッソリーニの労働政策を褒めて、ナチ精神と武士道が似ていると書いただけだ。

第一、白洲次郎(終戦連絡事務局の次長)からも三土忠造(内相)からも、何も聞いてないよ。」

鳩山一郎が日本の敗戦後に軽井沢から上京してきて、自由党を立ち上げようとした時、社会党との合流を考えて西尾末広らと会談した。

だから一郎は、総選挙に勝つと、ただちに社会党との連立に乗り出した。

その一方で、幣原喜重郎・首相は続投するために、46年4月17日に進歩党の党首に収まり、同じく社会党を抱き込もうとした。

こうして一郎と喜重郎は、決定的に対立した。

社会党がどうしたかというと、幣原内閣を倒すための「4党の共同戦線」を4月18日に提案した。

これは、自由党、社会党、協同党、共産党が組んで倒閣を目指すものだ。

こうして幣原内閣は四面楚歌となり、46年4月22日に総辞職となった。

ところが社会党は、左派と右派が党内で対立し、西尾末広ら鳩山一郎と近い右派が敗北してしまう。

社会党の中央委員会は8対7の1票差で、「首相を出せないなら野党になる」と決定したのである。

さらに社会党は4月30日になると、一転して、自由党との提携方針に逆戻りした。

この迷走を見た鳩山一郎は、「単独で政権を発足させる」と決意した。

幣原内閣の吉田茂・外相は、46年5月4日に次の書簡をマッカーサー元帥宛てに出した。

「幣原は、鳩山一郎の組閣を天皇に奏請することを決めました。

貴官がこの奏請を承認されるか否かを知りたいです。」

この書簡の折り返しに、吉田外相に対してコートニー・ホイットニーGS局長から書簡が届いた。

開封すると日付は1日前の5月3日付になっていたが、内容は「マッカーサーは貴殿の書簡を受け取る前に、すでに日本政府に対して鳩山一郎の追放指令を出している」だった。

この日付は明らかに、意図的に1日前に置きかえられたものだった。

かくして鳩山一郎は、首相になる直前に、公職追放となったのである。

鳩山一郎の追放では、次の罪状が挙げられた。


鳩山一郎は、1927年に田中義一・内閣で内閣書記官長をした時、中国侵攻の基礎となった東方会議を主宰したことがある。


田中義一・内閣が治安維持法を施行した時の、内閣書記官長でもある。


京大滝川事件(後述)で日本政府が言論を弾圧した時、文部大臣であった。

終戦連絡事務局の政治部長だった曾禰益は、『私のメモアール』の中で、内幕を述べている。

「プレスクラブ事件(マーク・ゲインらの査問)の後、記者たちは総司令部を突き上げた。

マッカーサーはお高くとまっているが、新聞を(自分の評判を)特に気にする男だ。
だから鳩山の追放に踏み切った。

CISの少佐が僕を呼んで、『大変だ、鳩山はアウトだ。日本政府は面目を失わない形でなんとか始末をしろ』と言った。

さらに『総司令部はこの前の松本治一郎の件(松本治一郎を追放解除にするGHQの口頭命令を、吉田茂・外相が蹴ってしまった件)で激怒している。今度は必ず覚書(書面)で命じるから、それが出たら日本政府の面目は丸潰れになるぞ』と言ってきた。

僕は、終戦連絡事務局の井口貞夫に、『おい大変だ、こういう次第だから、吉田外相に報告してくれ』と頼んだ。

ところが報告を受けた吉田外相は、(自分の側近の)白洲次郎がG2のウィロビーから得ていた情報で、鳩山は大丈夫だと楽観していた。

土壇場になってから吉田外相はGHQに出掛けていったが、その時はもう駄目だった。」

吉田茂と白洲次郎は、G2を率いるチャールズ・ウィロビーと接触していたが、白洲次郎はCISのクレスウェルという高官にも接近していた。

白洲次郎は、ウィロビーやクレスウェルのオフィスに行き、そこから情報を得ていた。

鳩山一郎にとって致命的だったのは、次郎の情報に頼った事と、吉田茂を信用しすぎた事だ。

鳩山追放の件を最終確認するためにGHQに足を運んだのは吉田茂・外相で、マーシャル参謀次長に会見した。

マーシャルの回答は「鳩山に組閣の奏請があれば、すぐに追放令を出す」だった。

茂はそれを鳩山一郎に伝えたが、一郎は「国民が(選挙で)選んだ第1党だ。マッカーサーも強いことは言うまい」と斥けた。

癇癪持ちの茂は、カンカンに怒って帰ってしまったという。

鳩山一郎は、自身の回顧録で次のように回想している。

「私の資格審査については、内務省の『追放の理由なし』という書類と、文部省の『滝川教授の免職は当然で、鳩山追放の理由にならない』という書類があった。

この2つの書類を、内相の三土忠造が自分の机の引き出しに入れたまま、司令部に出さなかったという。

三土は当時、次の総理を狙っていた。

白洲次郎がやって来て、『君は総理になれば追放される。総理は諦めて幣原内閣に入閣すれば追放は免れる』と言った。

河野一郎が『どうしますか』と聞くので、『第1党になった党首が、他の内閣の閣僚に入ることは断じてない。所信を貫く』と言い切った。」

筆者は、サンフランシスコの日本人街で探しあてた塚原太郎から取材した。

塚原太郎は、GS次長のチャールズ・ケーディスの下で、公職追放の審査官をした、日系二世の元将校である。

太郎はこう語った。

「反鳩山の材料をGHQに提供したのは、共産党の志賀義雄だった。

僕の所へ、志賀義雄の提供した文書が回ってきたのです。

GS(民政局)は鳩山を嫌っていたから、追放しようと決めた。」

日本がGHQの占領下になると、獄中にあった共産党員たちは出獄できる事になった。

1945年10月10日に刑務所を出られた志賀義雄は、英語ができるので頻繁にGHQの左派に接近した。

労働部長だったテオドル・コーエンによると、「(共産党の)徳田球一や志賀義雄は、週に1回か2回は接触してきた」という。

志賀義雄にも取材したが、こう語った。

「私は、塚原太郎からこう聞きました。

CISのマーカム中佐の下に、クレインという中尉クラスの男がいた。
そのクレインが『反鳩山の材料を集めている』と。

塚原が言うには、『早く鳩山を追放しないと首相になってしまい、GHQは批判される事になる』と。

私は反鳩山の文書を提供していない。
だが治安維持法と鳩山の関係を、(共産党の機関紙の)赤旗が取り上げていた。

滝川事件については、当時に学生だった人は皆、鳩山が反動だと考えていた。

鳩山一郎は、『自分は軍部や近衛内閣に反対した自由主義者だ』と言っていたが、滝川事件を知る者は信用しなかった。

私が鳩山追放と関係づけられるとすれば、総選挙の時の演説かもしれない。
私の対立候補の有田二郎が鳩山を褒めるので、治安維持法や滝川事件で反論した。」

GS次長だったチャールズ・ケーディスにも取材したが、彼は無造作に言ってのけた。

「鳩山追放は、彼自身が書いた資格申請書(経歴書)そのものに原因があった。

GHQは、鳩山が第1党になるなど予想してなかった。

第1党になったので、追放しようとなったわけです。」

滝川事件は、1933年4月に起きたもので、京大・法学部の滝川幸辰・教授が説いた姦通罪をめぐる論が発端だった。

当時の刑法では、男女の不倫は一方的に女だけを処罰していた。

妻が浮気をすれば姦通罪になるが、夫の浮気は国家が法律で遊廓を認めていた。

滝川幸辰は、欧米やソ連を引き合いに出して、姦通罪の不当を説いた。

だがソ連を引き合いにしたため、アカ呼ばわりされ、そこに文部省が介入した。

文部省は幸辰の教授辞任を勧告したが、京大の法学部・教授会は幸辰を守って団結した。

最終的に、幸辰の他にも末川博や恒籐恭らが大学を去らねばならなかった。

京大では、大正年間に起こった沢柳事件の以降、教授の任免は教授会が決め、大学総長が文部大臣にその決定を通告するルール(大学自治のルール)が確立していた。

だが鳩山一郎・文部大臣は、これを認めず、人事に口を出して、滝川教授をアカと断定して大学側に休職を要求した。

これが大学の自由を侵犯する横暴として、法学部長らが抗議し、その波紋は京大から全国の大学に波及した。

鳩山・文相は、滝川幸辰らの教授を免官処分にした上、幸辰の著書『刑法読本』も発禁処分にしてしまった。

戦後になると、GHQは滝川幸辰から聴取し、1945年10月31日に新聞は幸辰の大学復帰を報じた。

GHQは、鳩山追放の前に、指令を出して幸辰を京大に復帰させていた。

だからGHQの民主化プログラムの中で、鳩山追放はハプニングではなかったのである。

なおアメリカの世論も、総選挙で第1党となった自由党の総裁を追放することに、大きな拍手を送った。

自由党総裁の鳩山一郎は、1946年5月4日に公職追放の指定を受けると、すぐに吉田茂・外相の公邸に足を運んだ。

茂に「総裁の椅子に座ってくれ(代わりに首相になってくれ)」と頼むためである。

一郎が茂を選んだ理由は、GHQに最も近い役職(外相)に居たからだろう。

だが茂は依頼を固辞した。

吉田茂は、旧自由党の指導者である竹内綱の妾腹に生まれた五男坊であった。

貿易商の吉田健三の養子となり、東大を卒業すると外務省に入った。

そして田中義一・内閣の時に、奉天総領事を経て、外務次官となった。

1945年に近衛文麿の上奏文筆写事件で、茂は陸軍刑務所に投獄されたため、反戦の履歴を得たが、元々は対中国の侵略政策に大きく関わっていた。

茂は、敗戦後に東久邇・内閣で外相になり、次の幣原・内閣でも外相を務めていた。

だが彼は、外務省でもっぱら非主流コースを歩んできたと言ってよい。

主流派は幣原喜重郎、有田八郎、重光葵、東郷茂徳らであった。

鳩山一郎は、吉田茂に断られると、政界の長老である古島一雄を訪ねて、党総裁になってほしいと頼んだ。

だが一雄も断った。

一郎は仕方なく、次は前宮内大臣の松平恒雄と交渉したが、恒雄は追放該当者の疑いがあり、これまた受けなかった。

鳩山一郎が再び吉田茂の公邸を訪ねたのは、5月9日だった。

茂は「養父の牧野伸顕らに相談する」と答えた。

5月13日に一郎が再び足を運ぶと、茂は「私は演説が下手だから首相は務まらぬ」と蹴った。

結局、茂が自由党総裁になるのを受諾したのは、5月14日だった。

吉田茂が総裁になると、6日目の5月21日に早くもトラブルが起きた。

それは閣僚指名をめぐる、茂と鳩山一郎の喧嘩であった。

茂は組閣の主眼を、農相に置いた。
当時の日本は国民が餓死しかねない状況で、GHQからの農政改革の圧力も強かったからである。

茂は農相に東大教授・東畑精一を起用しようとしたが断られ、那須皓にしようとしたが追放該当容疑が分かり、農林省・農政局長の和田博雄に決めた。

ここで自由党から横槍が入ったのである。

5月21日の19時半ごろに、自由党から大野伴睦、大石倫治、葉梨新五郎の3名が使者として、吉田公邸を訪れた。

そして「和田博雄は共産主義者だから農相は困る」と告げた。

博雄は、戦時中に「企画院事件」に連座した事があった。

茂は拒否したが、20時ごろに鳩山一郎から電話がきた。

吉田茂の首席秘書官だった福田篤泰によると、茂は一郎との通話中に怒り出し、「うん、わかった。じゃ、やめるよ!」と言って電話を叩き切ってしまった。

そして篤泰に対し「君に見せたいものがある」と言って、1通の封書を出してきた。

封書には「約定のこと」と表書きがあり、中身は茂の書いたもので、鳩山一郎との約定3つが書かれていた。

① 党(の資金)に関しては、吉田茂は一切の面倒を見ない

② 辞めよと要求があれば、吉田茂はいつでも辞める

③ 党は政府の人事に干渉しない

吉田茂は、③に違反していると怒ったのである。

茂は、福田篤泰に「総理をやらなくて済んだよ」と言った。

その表情は決してサバサバしたものではなく、負け惜しみ半分でヤケ気味だったと、篤泰は言う。

茂は憮然とした表情のまま、「君はここで待っていろ」と言い、篤泰の帰宅を許さなかった。

1時間後に再び電話が鳴り、鳩山一郎から「使者を派遣するから会ってくれ」と言ってきた。

吉田茂はぶっきら棒に言った。
「党から遣いの者が来る。オレは癪に障るから口をきかん。お前が応対しろ。」

使者の林譲治と益谷秀次がやって来た。
2人が切り出した。「鳩山の代理で参りました。どうかご翻意をお願いしたい。」

篤泰が茂の意中を代弁した。
「僕は手紙を見せられたのです。あなた方は約束に違反されて、政府人事に介入してきました。大臣(吉田茂)は非常に立腹しておられます。」

2人は陳謝したが、農相ポストを和田博雄にする事への反対は撤回しなかった。

2人は「とにかくご再考願いたい」と繰り返して、帰って行った。

この時の吉田茂の胸中には、自由党側が折れてくるとの計算があったと、篤泰は見ている。

この段階で、三木武吉が登場した。

武吉が吉田邸に来て話し合ったが、吉田茂にねじ伏せられ、和田博雄の入閣が決まった。

当時は、これ以上に組閣が長引いて政局不安が続けば、政権が社会党に転んだり、GHQが軍政を敷きかねない状況だった。

吉田茂の腹の中には、これ以上の政局不安を自由党は望んでおらず折れてくる、との読みがあったのだろう。

(2020年5月24&26日に作成)

(『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』徳本栄一郎著から抜粋)

鳩山一郎の公職追放令の解除が遅れたのは、GHQに出入りする白洲次郎のせいだとする見方がある。

白洲次郎は吉田茂の側近だったが、茂のライバルである鳩山一郎を政界に復帰させたくなかったというのだ。

戸川猪佐武は、『昭和の宰相 第四巻』でこう述べている。

「鳩山一郎、河野一郎、石橋湛山らの公職追放の解除がいちじるしく遅れたのは、吉田茂・首相の側近の白洲次郎と、官房長官の岡崎勝男が故意にそうしたのである。」

GHQは、1946年5月に鳩山一郎を公職追放したが、その後も監視下に置いていた。

48年10月には、一郎の別荘を家宅捜索して、日記や手紙を押収した。

また49年1月の報告書でも、熱海に滞在中の一郎の動向を調べており、面談した相手まで記述している。

結局、一郎の追放令の解除は1951年8月と遅くなった。

1951年1月18日付のGHQ文書「鳩山一郎の公職追放」に、こう書いてある。

「白洲次郎は、1950年の夏に鳩山を訪ねて言った。

『吉田首相らが交渉しましたが、あなたの追放は解除されませんでした。

民政局(GS)に大きな発言力を持つ、ジョン・ガンサー記者に会ったらいかがでしょう。
私から紹介できます。』

数日後、白洲はガンサーを伴って、鳩山を訪れた。

鳩山は悪印象を与えないように細心の注意を払ったが、追放は解除されなかった。

白洲とガンサーが、鳩山の話を歪めて民政局のホイットニー局長に伝えたためである。

鳩山はこれを、白洲の策謀と受け止め憤慨した。」

鳩山一郎の日記をチェックすると、1950年6月15日に白洲次郎やジョン・ガンサーと会っている。

そしてその5日後(6月20日)に、こう書いている。

「山下氏の話で、ガンサーとの対談に何らかの過誤があったのを知り驚く」

上に挙げたGHQの文書と鳩山一郎の日記は、内容と時期が一致しており、信憑性が高い。

1951年1月22日に、民政局のコートニー・ホイットニー局長が白洲次郎に送った書簡には、「鳩山の追放解除の見込みは無し」と書かれている。

(2021年10月6日に作成)


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