(『何も知らなかった日本人』畠山清行著から抜粋)
キャノン機関を率いたジャック・キャノン少佐は、ダグラス・マッカーサーやチャールズ・ウィロビーの護衛役として、敗戦直後の日本に来た。
彼の日本での最初の仕事は、横浜CICの情報部長で、日本の戦争犯罪者を逮捕する事だった。
ジャック・キャノンはテキサス州の生まれで、ウェスト・ポイント士官学校に学び、第二次世界大戦中は米軍第8軍で東南アジアを転戦した。
戦争終結後、彼が日本に来て横浜CICに入ると、カリフォルニア州生まれのベック松井(ビクター松井)や、渡辺・軍曹、土田・曹長らの日系二世が部下になった。
そしてGHQの諜報・謀略機関としてキャノン機関が設置されると、そのままキャノン機関に彼らは加わった。
キャノン機関設立の経緯は、次のとおりだ。
日本を占領したマッカーサーの率いるGHQでは、CICが諜報・謀略をしていた。
しかし情報不足が目立ったので、G2の中に特務機関を作ることになり、横浜CICの情報部長だったジャック・キャノンが起用された。
こうして1949年春に(※実際はもう少し前だろう)、東京・本郷の旧岩崎邸を本部として、『キャノン機関』が誕生した。
なおジャック・キャノンは、1952年4月にCIAの本部付となって、アメリカに帰国し、キャノン機関はCIAの日本支部に吸収された。
ジャック・キャノンは52年秋から憲兵学校で短期教育をうけ、カサブランカに本部を置く地中海軍団の憲兵司令官となった。
さらにその後は、テキサス州ポート・フォードの憲兵司令官となった。
CIAの設立にも触れると、まず太平洋戦争が終わると、アメリカのトルーマン大統領はOSSを解散させた。
しかし4ヵ月後の1946年1月に、新たな諜報・謀略機関として「中央情報グループ」(CIG)が誕生した。
さらに47年9月に、それが「CIA」となった。
CIAの海外工作が活発になったのは、「中央情報局法(CIA法)」が議会を通過した後の、1949年末からである。
日本にはすぐに支部がつくられた。
キャノン機関は、ジャック・キャノンの右腕だったベック松井(ビクター松井)と、キャノンの秘書だった韓道峰が重要な任務をこなした。
当時、本郷ハウス(キャノン機関の本部)には日本政府の高官や文化人が出入りし、夜ごと饗宴をくり広げていたという。
その中でつかんだ情報も数多くあった。
キャノン機関には、いくつもの下部機関があり、それぞれが独自の任務を持っていた。
主な下部機関は、次のとおりだ。
①柿ノ木坂機関
元は上海憲兵隊である。機関長は長岡中佐(本名は長光捷治)。
②矢板機関
機関長は矢板玄。任務は密輸船の運航、物資の集積など。
③横浜機関
アジア大陸からの引揚げ者の調査、謀略工作など。
④日高機関
機関長は日高富明。密航工作などを担当。
⓹伊藤機関
機関長は伊藤述史。戦犯の情報収集、密輸船の派遣。
⑥海安商会
機関長は日高孝。
九州・中国地方の諜報と謀略を担当。本部は下関にあった。
ジャック・キャノンはカネ払いのいい男で、「工作費でも1万円ほしいと言えば2万円、5万と言えば10万円くれた。それで受取り証を出そうとすると、ノーだった。」と、キャノン機関で働いた韓道峰は言う。
このため部下には人気があった。
韓道峰は、ジャック・キャノンの側近になり、秘書的な役割をした者だが、こう語る。
「私がキャノンに会ったのは1946年の春で、彼は『日本文や朝鮮文や中国文の英訳をしてほしい』と言ってきた。
私は承諾したが、彼の事務所には40~50人いて、中国、韓国、フィリピンの日系二世などが多かった。
多少とも日本語の分かる連中を集めたらしい。
私は机1つを与えられ、『家に帰ることは許されない』と言われた。
『外出には必ずジープを使い、行先と用件、帰る時刻を必ず報告しろ』と申し渡された。
私は面喰ったが これが軍隊なんだと思った。」
韓道峰は、本名を韋恵林という。
日本の明治学院を卒業して、朝鮮銀行に就職した。
銀行ギャングを捕えた事から、日本陸軍の特務班にスカウトされ、大正初期から諜報員として働いた。
韓道峰は、村井恵という日本名をもち、満州事変の前後からフリーメーソンのフランス結社員となり、甘粕正彦の特務機関に入って、上海に「村井機関」を設置した。
そのかたわらで、上海のフランス租界では「韓国独立運動・仮政府」の文教部長をし、 敵味方2つの顔をもって活動した。
韓道峰は、上海で起きた爆弾事件(白川大将を殺した事件)にも関係し、日本の官憲が必死に追った「韓大総統」 こそ実は彼だったのである。
筆者(畠山清行)が韓道峰と知り合ったのは、陸軍中野学校の取材をしていた時で、田尾岩太郎を介してだった。
田尾岩太郎は、戦前は満鉄の調査部にいて、甘粕機関(甘粕正彦の特務機関)とも関係があった人だ。
筆者が会った時、韓道峰はすでに老人で、李承晩の失脚で資金源を失い貧乏だった。
彼が韓国から銈石の輸入を計画した時、筆者は知り合いの八幡製鉄の飯村・原料部長や、日本鋼管の赤坂・社長に話をもち込んであげた。
私が彼に接近したのは取材のためだが、彼のほうも私をある外国機関の組織に引き込もうとした。その機関から誘いをうけたが…。
韓道峰は、死後に発表するという約束で、過去を語る録音に応じた。
その録音は、彼が佐藤栄作・首相に招かれて、アジア諸国の動勢などを報告に行く特殊の場合をのぞき、隔日に行われた。
しかし彼は高血圧の発作が再発し、急死してしまった。
(※この取材で得た情報が、本書では活かされている)
韓道峰は、こう証言した。
「私が横浜CICに勤めて1年ほどすると、本郷にある岩崎別邸(岩崎家の屋敷)を接収して、そこを本部して『本郷ハウス(キャノン機関)』が店開きした。
ここに移って変わった事は、機関員も米軍人もほぼ軍服を着ずに私服となり、お互いに本名を呼ばず、あだ名で呼ぶことになった。
外部から出入りする機関員で特に印象に残っているのは、大きなマスクで顔を隠して来る日本共産党員の伊藤律だ。
彼の呼び名は「マスク」で、月給が支給されていた。
私が手渡した事もあるので間違いない。」
ジャック・キャノンの本郷ハウスでの暮らしぶりは、次の調子だった。
基本的に夜に活動するので、朝食をすましてから寝て、昼すぎに起きてくる。
起きると真っ裸になって屋根にのぼり、日光浴をした。
本郷ハウスには若い日本人のハウスメードが8人ほどいたが、おかまいなしだった。
趣味はポーカーと拳銃磨きで、自室には15~20挺の拳銃が飾られていた。
射撃の腕は抜群で、よく機関員とカネを賭けて撃ちっこをしていた。
本郷ハウスは後に(GHQが日本から撤収した後に)司法省の研修所となったが、その管理にあたった臼倉平太郎(司法官吏)が証言する。
「庭の木が、どうしたわけか枯れてゆく。
調べてみると、木の幹に穴が無数にある。
穴をほじくると、鉛の弾片が出てきた。
米軍の接収中に、ピストルの練習で使ったのですね。」
キャノン機関に与えられた最初の指令は、戦犯の監視と逮捕だった。(※これは横浜CIC時代の話だろう)
しかし成果があがらず、元情報局総裁の伊藤述史ら日本人を雇うことになった。
ジャック・キャノンは岩崎邸に移ると、すぐに食堂を改造して、200名ぐらいが会合できる酒場にした。
当時の日本は、酒は配給制で、各世帯で月に1合か2合の配給だった。
だから一般人は、密造酒や工業用アルコールを飲んでいた。
その時代に、本郷ハウスではウイスキーが飲み放題で、しかもビリヤードが楽しめた。
だから日本の政府高官らが入りびたった。
韓道峰が証言した。
「本郷ハウスの酒場に毎夜のように顔を見せたのは、国家警察長官の斎藤昇、内閣府・調査室長の村井順、東京都知事の安井だ。
彼らは球をついたり、酒を飲んでいた。
またパーティがあれば、キャノンお気に入りの女優・京マチ子がホステス役で必ず来た。
時々、誰が書いたのか分からないが、戦犯のリスト(戦争中の犯罪行為の報告書)が回ってきた。
敗戦したとはいえ、同じ日本人が権力におもねる姿は、情けなくなった。」
本郷ハウスの出入口は、米兵の門衛が厳重に固めていた。
屋上には前田という日系二世を長とする、投光ライトを備えた見張所があり、自動小銃を構えた衛兵が昼夜わかたず見張っていた。
本郷ハウスは、昼は事務官の1人か2人がタイプライターを叩いているだけだか、夜になると機関員の顔がそろい、下部組織の長たちは情報を持ってきてジャック・キャノンの指図を仰いだ。
機関員たちは、外部の訪問客と顔を合わせないようにしていた。
キャノン機関では、下部組織の長はもちろん、機関員たちも、別の機関員とは交友や私語をしないルールになっていた。
従って顔を合わせても名乗り合わず、名乗りあっても偽名(あだ名)を用いた。
ジャック・キャノンは、眠気さましにヘロインを用いていた。
白い粉を吸うのだが、完全な中毒者だった。
彼が横浜で左大腿部を撃たれ、横浜の軍病院に入った時も、部下に紙包みでヘロインを届けさせている。
この時は、退院するとアメリカに帰国して治療する事になったが、「本国で麻薬をやめてくる」と言って帰国した。
2ヵ月して、目のふちのどす黒いくまが取れて日本に戻ってきたが、1週間するとまた吸いだした。
ジャック・キャノンは、幾人かの直属の日本人スパイを使っており、その1人が伊藤律だった。
伊藤律の他にも、共産党から数人の覚員が密かに来ていた。
こうしたスパイとの打ち合わせは、キャノン自身が単独で行ったので、多くの者はその名を知らなかった。
そうしたスパイの1人で、後に北朝鮮の諜報で偉功をたてて、「さすが陸軍中野学校の出身だ」とキャノンを感嘆させたのが、武林(本名は関口勇)である。
武林について、韓道峰は言う。
「私が戦時中に上海で出会った時、彼は中国服を着て青幇と紅幇の研究をしていた。
戦後になって、中国大陸からの帰還者名簿で彼の名を見つけた私は、キャノンに報告して、キャノンは彼を迎え入れた。
武林が最初に出した中国に関する数百枚にのぼる報告書は、私が英文に翻訳したが、実に立派なものだった。」
キャノン機関は、戦犯の逮捕が任務の1つだったか、BC級の戦犯でも使えると思った者は、上司のウィロビー少将の了解の下に、ジャック・キャノンが直接会って、釈放を条件にスカウトした。
(2024年6月18日に作成)