国民文学論と文壇(以下は『物語 戦後文学史・中巻』本多秋五著から抜粋
この本は1966年3月の刊行である)
1950年に入ると、この年は朝鮮戦争の始まった年だが、日本共産党の内部で分派闘争が起きた。(この件はこの記事に詳しく書いている)
そこから派生して、文学界でも深刻な闘争が起きた。
この文学闘争は、文学よりもケンカに忠実な論客をつくり、そこから良質な文学作品は生まれなかった。
この時期、文学者は本来の使命をそっちのけに、無駄な闘争にエネルギーを食っていた。
同じことをくり返してはならないと思う。
国民文字を待望する声は、文学誌である『新日本文学』と『人民文学』の対立抗争(文学闘争)の最中に起こった。
国民文学論は、日本共産党の主流派が1951年の新綱領・草案で「人民」という言葉を「国民」に置きかえたことの波及だった。
国民文学論の提唱者である竹内好は、1951年9月号の『文学』(岩波書店の雑誌)で、「近代主義と民族の問題」という論文を発表し、論争の口火を切った。
国民文学論の台頭は、目前に控えたサンフランシスコ平和会議や、そこまでの講和条約の論議、朝鮮戦争、コミンフォルムの日本共産党批判も影響していたに違いない。
竹内好は、『世界』1951年6月号に書いた「亡国の歌」という論文において、「日本のあらゆる小説は、特殊な狭さがある。日本国民の生活の広さと深さに比べて、実に狭くて浅く、特殊な一部分にすぎない。」という臼井吉見の言葉を引用し、賛同した。
竹内の論文「ナショナリズムと社会革命」(『人間』1951年7月号)では、「日本の現代文学にはナショナリズムと社会革命の結合が失われている」とし、「ナショナリズムは自然主義の末期あるいは白樺以後に失われた」とした。
彼の論は、米軍の占領下にあって日本が植民地化しつつある事実が作用していた。
竹内によれば、近代主義とは、民族を思考の通路に含まぬ、あるいは排除することである。
そして現在の日本文学は、プロレタリア文学を含めて全てが近代主義を出ないものと断じた。
見失われてきた「民族」の回復を要求したのが、彼の国民文学論だった。
猪野謙二の「日本文学研究の現状と問題」(『文学』1951年12月)は、彼の書いたもので最上のものの1つだが、こう述べている。
「桑原武夫や中村光夫ら西欧派の学者には錯誤があり、その原因をつきつめていくと『日本の文学が世界水準に達するには、先進ヨーロッパ諸国の文学を理想・規範として倣うしかない』との考えに至る。
そこでは先進ヨーロッパ諸国の文学を正しく学んだか誤解したかの問題しかない。
この錯誤は、西欧派の学者だけでなく、民主主義派の学者や評論家にも共通している。」
猪野の言っていることは、竹内とよく似ていた。
国民文学論の論文では、「上からの近代化」や「下からの近代化」という言葉がよく用いられた。
この「上からの近代化」や「下からの近代化」という見方は、戦後では遠山茂樹の著作『明治維新』などに端を発するらしい。
伊藤整は竹内好との往復書簡で、次のように竹内に反論している。
「石川啄木、島崎藤村、夏目漱石らの大衆性の分析からも、国民文学の姿を考えることは不可能ではない。
永積安明が説くような、『民族文学や国民文学が、近代文学や小市民的な自己形成の文学に取って代わらばならぬ』という意見に、私は同意できない。
私の考えでは、民族のための文学と近代的な自我確立の文学は対立しない。」
臼井吉見も伊藤整と同じ考えで、『群像』1952年7月号に書いた「国民文学」でこう述べている。
「紅葉、藤村、漱石らは、国民文学である。
これらの文学は近代的な自我確立の文学であり、小市民的だが、こういうものを否定し尽くして国民文学がとって代わらねばという意図は、センチメンタルという他ない。
左翼政党の政治プログラムを文学に適用して、政治プログラムが変わるたびに評価基準が一変する文学者を、僕は信用できない。
民族であろう、国民的であろうとした文学や芸術に、ろくなものはない。
ただし偉大な芸術で民族的、国民的でないものは1つもない。」
山本健吉は『理論』1952年8月号に書いた「国土・国語・国民」において、こう述べた。
「明治以来の我々の悩みは、結局のところ、1人のプーシキンも生まなかったことだ」
これは何人も首肯せざるを得ないと思う。
山本はこうも述べている
「近代日本の文壇は、特殊な地帯で特殊な言語をつくり出し、民衆の言語とは切り離された。
早くにそれに気付いた柳田国男は、ひとりで民間伝承の採集におもむいた。」
蔵原惟人は、臼井吉見と同趣旨のことを、『世界』1953年9月号の「国民文学の問題によせて」で指摘した。
「ヨーロッパの近代文学の成立では、民謡や民話の発掘が行われ、新しい文学に生かされた。
ところが日本ではそれがなされず、柳田国男らの研究が芸術文学に生かされていない。」
国民文学論に対しては、『人民文学』の一派は好意的で、『新日本文学』の一派は懐疑的だった。
私も国民文学論には、日本共産党の手が動いていると感じていた。
このたび関係論文を読み直してみて、悪しき政治干渉を感じないわけにいかなかった。
日共の実質的な機関誌になっていた『文学』において、竹内好の国民文学論が読者の関心を引いたので、これを日共の政策のレールに乗せたのだと推断する。
だが国民文学論には、良い面もあった。
岩波書店の講座シリーズとして、『文学』、『日本資本主義』、『文学の創造と鑑賞』といった全集ものが刊行され、よく売れた。
菊池章一によれば、『人民文学』が1954年1月号から『文学の友』に改題したのも、日本文学学校が53年11月に開校したのも、国民文学論の副産物だという。
三一書房が出した『日本プロレタリア文学大系』も同様だろう。
国民文学論は、文壇文学への不信という面は受け入れられたが、それ以上には受け入れられなかった。
現在では忘れ去られているが、この論議が提示した問題のいくつかは今も未解決だ。
竹内好の論文を読んでいくと、日本浪曼派の残像と白人敵視が潜んでいると感じられる。
彼は、日本浪漫派は文明開花のアンチテーゼとして現われたと説いたが、当時はマトモにとり扱われなかった。
国民文学論は、百の議論よりも1人のプーシキンが大切であった。
終局の目標は創作にあったのだし、そう考えると大岡昇平の『俘虜記』、野間宏の『真空地帯』、梅崎春生の『桜島』などが、そうした作品に挙げられるのだろう。
(2025年10月25日に作成)