(『日本の黒い霧』松本清張著から抜粋)
朝鮮における38度線の区画は、1945年12月の米・英・ソのモスクワ会議で決まった。
朝鮮にいる日本軍の武装解除、日本軍と財閥の施設の接収などをする、暫定的な境界線だった。
それは、人工的な便宜上の境界にすぎない。それなのに米ソの冷戦によって、憎悪し合う半永久的な区分線になったのだ。
朝鮮戦争の始まりについて、「どちら側から先に攻撃を仕掛けたか」は、興味のある謎である。
アメリカ国務省の発表は、北朝鮮側の侵入と断じている。
ジョン・ガンサーは、『マッカーサーの謎』でこう書いている。
「1950年6月25日の朝早く、私は日光へ旅行に出かけた。
ホイットニー少将は私たちを見送りながら、日光へは同行できなくなったと云った。
日光で見物をし、昼食を取ろうとしていた時、仲間の1人が電話から戻ってきて、『大ニュースです、韓国軍が北朝鮮へ攻撃を開始したんです』と云った。」
ガンサーは続けて、「このニュースは、どちらが侵略を始めたかについては間違っていた」と書き、あっさり主客の位置を変更している。
そして「東京の総司令部も韓国駐在のアメリカ人も、完全に不意を衝かれた。北朝鮮は完全な奇襲に成功した。まことに真珠湾以上の醜態だった。」と書いている。
当時の日本の各新聞も、「北朝鮮、三十八度線を侵入」と大きく書き立てている。
だから国民の大多数は、今でも北朝鮮が仕掛けたと信じている。
ガンサーは、「北朝鮮があの攻撃をするには、最少でも1ヵ月の準備が必要だったはず」と云っている。
そうならば、その動きをペンタゴンが何も知らなかったのであろうか。
38度線では、それまで何百回となく小戦闘を繰り返し、極度の緊張にあった。
現に、国務省顧問のジョン・フォスター・ダレスは、朝鮮戦争が始まる2日前に38度線の最前線を視察している。
開戦後にワシントンの新聞記者たちは、CIA長官のロスコー・ヒレンケッター海軍少将に質問したが、ロスコーは「朝鮮では侵略が始まるかもしれない状況だった。これをCIAは知っていた」と言明した。
またロスコーは、上院の非公開会議に出席して「アメリカ諜報網が虚を衝かれたのではない」としつつ、「北朝鮮軍の侵略能力を1年以上前から知っていたが、進撃してくるかを予見するのは不可能であった」と語った。
ジョン・ガンサーは『マッカーサーの謎』で、「マッカーサーは朝鮮にあまり注意を払っていなかった。朝鮮を訪問したのはたった1日だったし、彼の管轄ではなかった」と云っている。
これはおかしな話で、朝鮮にはホッジ中将が司令官として駐在していたが、むろん極東軍最高司令官のマッカーサーとは常に連絡があった。
一方、北朝鮮政府は「南朝鮮軍が進攻してきたので撃退した」と発表している。
色々な資料から見て、韓国側が戦争を予見して準備していた事がうかがえる。
そして北朝鮮側も準備をしていた。
退役後のマッカーサーの証言がある。
「双方とも、軽装備のものを組織していました。
韓国の国境警備隊は警察より幾らか強力でしたが、正規軍に比較すべくもなかった。
北朝鮮の保安隊は、正規軍と同じくらいでした。
しかし北朝鮮の新しい軍隊は38度線から遠く離れた所に配置され、それは防衛のためでした。」
これは不思議な証言である。アメリカが国連に持ち出した北朝鮮の侵略は、この言葉でどう説明できるのか。
アメリカ極東軍司令官の総合週間情報では、50年3月10日に「北朝鮮軍は50年6月に南朝鮮を侵略開始の予定、との報告に接した」と云っている。
米上院の外交委員長コナリーのインタビューは、日本タイムスに5月3日に転載されたが、その見出しは「コナリー、共産軍が米軍を南朝鮮から追い出すと予言する」である。
つまり、マッカーサーは隠そうとしたが、北朝鮮が仕掛けるとの警報は鳴っていたのである。
アメリカはなぜ、「不意討ち」を喰った印象を人々に与えたのであろうか。
ここで、犯罪組織は常にアリバイ工作する事を、何となく連想するのである。
マッカーサーは後に証言している。
「韓国軍は、北朝鮮軍に全然抵抗できませんでした。
韓国軍の補給の配備が貧弱だったのです。
物資や装備を38度線のすぐ傍らに置いていました。
38度線と京城の至る所が、韓国軍の物資集積地だったのです。」
要するに、開戦するとすぐに韓国軍は敗走したが、兵器や物資を38度線に集積したままで敗走したのである。
北朝鮮がそれを使ったと考えると、戦闘初期に北朝鮮の主力がはるか遠くに居たのに勝利した説明がつく。
1950年5月に入ると、韓国軍は戦争勃発の予見を何度もしている。
5月10日に申性模・国防長官は特別会見を行い、「10日以内に全面的な内戦が勃発しそう」と語った。
蔡・参謀長も「5月20日の韓国総選挙を機会に、北朝鮮が攻めてくる恐れがあり警戒している」と発表している。
この頃、アメリカ国防長官のジョンソン、元アメリカ参謀総長のブラッドレー、国務省顧問ダレスが極東を訪問し、マッカーサーと会談した。
ダレスは韓国を訪れ、38度線の塹壕に入って視察をし、国会で演説し「アメリカは共産主義と戦う韓国に必要な援助を与える用意がある」と言明した。
また、戦争勃発の5日前に、ダレスは李承晩・大統領に書簡を送って、「私は貴国が今度の大ドラマで演じうる大きな役割に非常な期待をかけている」と書いている。
李承晩政府で内務長官だった金考錫は、北朝鮮の捕虜になり「告白書」を書いているが、それにはこうある。
「1950年1月にロバーツ将軍が李政権に訓令して、次の内容を通告した。
『北伐計画はすでに決定済みである。
戦争を始めるには正当と見られる口実を作る必要がある。
まず大事なのは国連委員会の報告だ。国連委員会がアメリカに都合のいい報告を出すのは当然だが、同時に諸君も委員会の同情を買うように努めねばならない。』」
率直に言って、38度線をどちらが先に越したかは重要でない。
李承晩は「北伐」を叫んでいたし、金日成も「南朝鮮の解放」を叫んでいた。
そして戦争勃発の前に38度線では、千回もの小戦闘が起こっていた。
なお、アメリカにとって都合の好かったことは、49年10月からソ連が新中国の国連加盟を主張したが容れられず、国連をボイコットしていた事だ。
もしソ連が国連に出席していたら、アメリカの主張した「朝鮮戦争への国連軍の介入」は否決されていただろう。
I・F・ストーンは書いている。
「攻撃開始(戦争開始)の時期は、北朝鮮側にとって非常に不適当な時期だった。
ソ連は50年1月に国連ボイコットを開始していたし、安保理の東欧側の椅子はソ連と意見が合わないユーゴによって占められていた。
国連で朝鮮への動員(軍事介入)が提案されたら、拒否権で葬る国が居ないわけだ。」
朝鮮戦争がなぜ起きたかを考えるには、当時の国際情勢を見る必要がある。
1947年3月のトルーマン大統領の声明、6月のマーシャル・プランなどで、アメリカの政策(対ソ戦)が表面化し、49年4月のNATOの調印で対ソ包囲体制が完了した。
当時(1949年にソ連が持つまで)、原爆はアメリカだけが所蔵していたが、アメリカは原爆を運ぶ長距離爆撃機を使う戦略を立て、46年3月に戦略空軍(SAC)を結成した。
この戦略に沿って、47年9月には空軍省が独立している。(空軍省が設置された)
しかし49年に入ると、中国は赤軍に完全に制圧され、ソ連が原爆保有を声明した。
アメリカのソ連封じ込めは破綻し、朝鮮を足掛かりにしてソ連と中国を分断するしかなくなった。
アメリカは日本が降伏すると、3週間後の9月8日にホッジ中将の率いる第14軍団を沖縄から仁川に上陸させた。
朝鮮入りした米軍の最初の声明は、南朝鮮に軍政を敷くこと、日本の機関および職員を存続させること、占領軍に反抗する事は厳罰に処すこと、公用語は英語にすること、などを謳った。
これがマッカーサー布告第1号であった。
この日、韓国民主党が結成された。
李承晩はアメリカから帰国して、南朝鮮の右翼の頭領となった。
10月17日にホッジ中将は「米軍政府は南朝鮮で唯一の政府である」と言明し、各地の人民委員会を弾圧し始めた。
12月に米・英・ソの3国の外相会議で、朝鮮問題が話し合われ、臨時政府を作って米・ソ・英・中の4国を後見役にすることを決定した。
それから間もなく、アメリカはこの決定をボイコットした。
李承晩と金性洙(韓国民主党の党首)らは、外相会議の決定に反対運動を起こしたが、ホッジは「反対の自由」を宣言して彼らを援助し、その集団を中核として臨時政府をつくろうとした。
南朝鮮では、アメリカ軍政の諮問機関として「立法議員」の選挙が行われたが、90名の議員のうち半数は米軍が任命した官選議員であった。
国連はソ連の反対を無視して、「国連調整委員団」を朝鮮に派遣してその監視下で総選挙を行うというアメリカ案を可決した。
南朝鮮では、一切の批判は許されなかった。
46年10月に大邱(テグ)を中心に起こった大規模な抗議行動は、200万人が参加したが、アメリカ空軍と機動隊に弾圧された。
この時、殺された者300名、行方不明3600名、逮捕・投獄は1.5万人に及んだ。
46年12月に李承晩はアメリカに渡り、南朝鮮で単独政府をつくる打ち合わせをした。
この時も大規模抗議になったが、大量に検挙され刑務所に収監された者は26400名に達した。
48年8月15日に、李承晩を大統領にして「大韓民国」の建国が行われ、24日には米韓の軍事協定が結ばれた。
協定の内容は、アメリカが韓国軍の指揮権を持ち、米軍は不必要と認めるまで駐留する、米軍は全地域を使用する、というものだった。
李承晩政府は、11月に国家保安法を制定したが、日本の治安維持法に当るものだ。
こうしたアメリカ主導の政治への抵抗は止まず、49年3月にパルチザンの活動範囲は8道3市78郡に及んだ。
50年5月30日に第2回選挙が行われたが、李承晩は反李承晩派の66名の立候補を潰した。
それでも議員数210名のうち承晩派の当選者は48名にすぎなかった。
このような李承晩政権の危機時に、朝鮮戦争を誘発させ、承晩らは延命したのである。
さて、朝鮮戦争が始まると、北朝鮮軍はわずか3日でソウルを占領し、7月3日には漢江を渡河した。
一方、米政府は開戦の翌日(6月26日)にマッカーサーに対し、在日米軍の武器を韓国軍に供与しろと命じ、米議会も対韓国の援助金5千万ドルの追加を決定した。
7月2日にはディーン少将が朝鮮派遣米軍の総司令官に任命された。
7月5日に米軍は北朝鮮軍と衝突し、この頃は米軍は無敵と信じられていたが、惨憺たる敗走となった。
同13日に米軍は、戦車戦の雄ウォーカー中将を迎えて155ミリ砲も増強したが、16日に北朝鮮軍に錦江を渡河され、またも敗走した。
北朝鮮軍の勝利の根源は、旺盛な士気と装備の充実であった。
米軍は空軍偏重で、地上軍も機械化過多だった。
米空軍の主力はジェット戦闘機だったが、かえって速すぎて上手く戦えず、あわてて旧式のプロペラ付きのF51やF52を引っ張り出す有様だった。
錦江を突破した北朝鮮軍は、すぐに大田には入らず、西方より大田の側面に脅威を加えた。
これに対し米軍は、タコ壺に入って戦い、海軍機が猛爆撃を開始した。
北朝鮮軍は俄かに南下を始め、米軍がこれに釣られて動くと、再転して7月20日には大田を占領した。
この大田防衛中に、米軍の司令官ディーン少将は行方不明となった。
(ディーンは捕虜となった)
北朝鮮軍は、7月31日に晋州を落とし、釜山に迫った。
米軍は増援軍も総動員し、B29は爆弾5千発のじゅうたん爆撃を敢行した。
それでも北朝鮮軍は優勢で、米軍はまさに海に追い落とされる寸前となった。
しかし9月初めから米軍は少しづつ押し返し、9月15日に仁川上陸を行った。
金日成自身が反省しているように、仁川の防御陣地には訓練を受けていない新兵ばかりが居た。
人は仁川上陸作戦を「奇襲」と云うが、古くは豊臣秀吉の朝鮮征伐の時から、仁川上陸は戦史上の常識だったと、『アメリカ破れたり』で著者・吉武要三は云う。
上陸した米軍はソウルを落とし、北朝鮮軍は一斉に大退却を開始した。
この退却で、北朝鮮軍は住民の中に紛れて、米軍はこれを捕捉できなかった。
このような退却は、住民の共感と同情がなければできない。
北朝鮮軍が無事に退却できたのは、同胞を殺しに来る米軍への憎悪が背景にあったに違いない。
米韓軍は、10月1日に38度線を突破して北上し、元山や平壌を落としていった。
マッカーサーは「クリスマスまでに帰還できる」と発表したが、直後に中国軍が参戦してきて、11月26日には米軍20万、中国軍20万で正面衝突が始まった。
この衝突で米軍は全面敗北し、中国軍は西部戦線で1週間で2.3万人を殲滅し、自動車2千台などを鹵獲した。
東部戦線でも米軍は1.2万人が殲滅となり、「米陸軍史上で最大の敗北」と称せられる所以である。
この時期、トルーマン大統領が「朝鮮における原爆使用を辞せず」と声明し、第三次大戦が始まるのではと世界中が息を詰めて成り行きを見つめた。
声明にびっくりしたイギリス外相がこれを止めたのは周知の通りである。
米軍は混乱状態にあり、総司令官のウォーカー中将を部下の戦車が轢き殺すという椿事も起きた。
中国軍は北朝鮮軍と一緒になり、米韓軍を追って38度線を突破、51年1月4日にソウルを取り返した。
米軍は厖大な資材を注ぎ込んで反撃に転じ、再びソウルを手に入れた。
両軍が投入した兵力は国連軍は80万(米軍35万、韓国軍40万など)、共産軍は100万といわれる。
これだけの軍隊が、あの半島にひしめき合ったのだ。
51年4月11日に、マッカーサーはトルーマン大統領によって突如解任された。
マッカーサーを「天皇より偉い」と思っていた日本国民は、これを知ってびっくり仰天した。
この解任に先立って、50年10月15日にマッカーサーとトルーマンは、太平洋の孤島ウェーキ島で会談していた。
ジョン・ガンサーは、「会談は和やかなものだった。両者はまるで外国政府の首班でもあるかの様に、起草されたコミュニケにそれぞれ頭文字で署名した」と書いている。
マッカーサーが解任された理由は、独断で戦争を朝鮮半島から中国本土に切り換えようとしたからだ。
グィー・ウィントの『朝鮮動乱回顧録』は、書いている。
「マッカーサーの考えていた、中国の沿岸封鎖、中国への空軍活動、満州にある基地への爆撃、台湾の国民党の軍を中国本土へ侵入させることは、後になって明るみに出た。
マッカーサーは、これらの策が絶対必要だと見なしていた。」
マッカーサーに反対の立場を取った者に、統合参謀本部議長ブラッドレーがいた。
ブラッドレーは、「米軍が中国に攻め込むと、そこで釘付けになり、中国の背後にいるソ連がおそらくヨーロッパに出てくるが、米軍は対応できない」と説いた。
遂にトルーマンは、ブラッドレーに味方した。
ここで問題としたいのは、『マッカーサーが中国侵攻を計画していたならば、それが日本にどのような影響を与えていたか』である。
朝鮮戦争が始まると、在日米軍基地からB29が出撃した。
また日本は、米軍に大量の補給を行った。
矢内原忠雄編・岡義武稿の『戦後日本小史』は云う。
「朝鮮戦争の『特需』は、わが国の輸出を著しく増大させた。
アメリカは日本をアジア防衛計画に役立てようと企て、それは『日米経済協力』という名の下で推進された。
この結果、ドッジ・ラインによるデフレーション政策に苦しんでいた日本経済は、その窮地から救い出されたのである。」
米軍が日本を占領した当初は、軍閥と独占資本の掃蕩に努め、日本を東洋のスイスとして中立国にすると強調していた。
その方針を自ら壊して、1948年頃から赤狩りをして、G2の線(日本の保守勢力を復活させ、再軍備させる戦略)に一本化した。
占領当初にはラジオで主題歌のように謳っていた「人民の人民による人民のための政治」の声が消え、軍靴の音が聞こえかねまじき有様となった。
I・F・ストーンは書いている。
「(1952年に)ダレスは吉田首相から、中共とは結び付かないと誓った個人書簡をまき上げるのに成功した。
これは、日本と中国の敵対関係のがっちりした土台を据えるものであった。」
アメリカは、日本国民に赤に対する恐怖心を注射し始めた。
この宣伝工作は、「アメリカが日本を防衛してくれる」という心理に誘導できる。
ラストヴォロフ事件、鹿地事件、下山事件、三鷹事件、松川事件などは、共産分子への恐怖心を植え付けた。
また、朝鮮戦争の勃発前夜には、日本共産党・中央委員会の追放、アカハタの停刊、朝連の解散も行われた。
これと並んで、警察予備隊の創設と増員など、日本の再軍備を行わせた。
もし朝鮮戦争が無かったら、現在の自衛隊や海上保安隊の「武官派」の幹部が、旧日本軍の将官で占められる事も無かったであろう。
米軍の仁川上陸作戦は、旧日本軍人が助力していた。
朝鮮の地形や海域の水深の資料は、GHQの歴史課・地理課のセクションに雇われた旧日本軍の将校が提供した。
この郵船ビルに置かれたセクションでは、有末精三、河辺虎四郎、服部卓四郎、中村勝平、大前敏一らが働いた。
敗戦直前、日本陸軍の資料(地図など)は信州松代の地下大本営に隠された。
終戦後にその奪い合いが陸軍人の中で行われ、資料の殆どがGHQ・G2のウィロビーの手に渡ったのである。
歴史課・地理課の仕事とは、そのような資料の収集・整理だった。
この地図にはソ連領も含まれていたが、ソ連から帰って来る引揚者をチェックして、彼等の証言を使って改訂が行われた。
GHQに協力した旧軍人のうち、有末(A)河辺(K)服部(H)大前(O)に辰巳中将の(T)を加え呼びやすくしたのが、「KATOH機関」と呼ばれるものだ。
これはG2の特別組織であり、アメリカのトレッシー機関の第422CICと比肩したと云われている。
仁川上陸作戦では、H(服部)機関が有力な助言者だったと云われている。
旧日本海軍の温存機関としては、第2復員庁があり、ここには前田稔・元海軍次官の下に数十名の高級将校がいて、使える旧海軍人を入れていた。
これは後に旧海軍大学校の内に戦史研究所をつくり、ウィロビーに協力した。
また歴史編纂課にも、大前敏一、大井篤、寺井義守、三上作夫、奥宮正武、中村純平らが雇われていた。
朝鮮戦争への協力態勢は、野村吉三郎・海軍大将をトップに、軍政を山本善雄、作戦を富岡定俊、軍需生産を保科善四郎が担当したと云われている。
海上警備隊ではこれらをブレーンとして、長沢浩・幕僚長、寺井義守・警備部長、吉田英三・海上部隊という編成になった。
これが朝鮮戦争への協力で日本海軍が出来たといわれる理由である。
空軍関係の旧軍人にも、朝鮮戦争に協力した者がいる。
1例を挙げると、現在は日航の幹部になっているK氏の証言だ。
K氏は1950年冬に鶏鳴社から電報を受け取った。
鶏鳴社とは、戦時中にパイロットだった者が田中不二雄を中心に組織していた団体。
電文は「飛行機に乗れるすぐ来い」で、不二雄の所にGHQのオコンネル中佐とV・コステロ大佐が来て人員の招集を頼んでいた。
「月4~5万円をだす、まず5人集めろ。飛行時間が4500時間以上の経験者で、秘密厳守だ。」との依頼だった。
そこで田中不二雄、中尾純利、佐竹仁、森田勝一、崎川五郎が選ばれて、ジープで横須賀の海軍病院に運ばれた。
そして厳重な検査をうけ、勝一以外は合格した。
飛行士たちは厚木で訓練を受けた。
訓練後は「日本人に絶対会うな」と命じられ、平塚市の一軒家に隔離された。
そして月給9万円を貰い、B29やB17でマニラ、台湾、京城などへ空輸作業に使われた。
これは朝鮮戦争が終わるまで続けられたが、何を運ばされたかは分かっていない。
こうした特殊作業に協力した旧軍人は、たくさん居たと想像される。
朝鮮戦争に参加した日本人は、全部国籍を削られ、韓国人名になっていた。
朝鮮戦争では、細菌兵器も使われた。
北朝鮮と中国の発表によると、米軍は細菌兵器を使い、蚤、蜘蛛、鼠、蠅、蛤などに、黒死病・破傷風・炭疽菌・コレラなどの菌で感染させ、それを空軍機が撒いた。
蚤、細菌、入れ物の破片を、北朝鮮と中国は写真で公表している。
細菌が撒かれた事は、ある程度信用していいと思う。
ここで思い出すのは、戦時中に細菌兵器を開発していた石井中将の731部隊である。
終戦後、石井中将を庇護したのはGHQであった。
ソ連は戦犯として引き渡しを要求したが、アメリカは渡さなかった。
帝銀事件の犯人は、細菌兵器に関わった軍人か軍属と云われている。
戦犯にならなかった者には、石原莞爾・中将もいる。
彼は満州事変の際に関東軍の作戦主任参謀で、「満州国建国の立役者」である。
だからA級戦犯として東京裁判で処断される筈だったが、米軍に保護されて悠々と東京裁判を眺めていた。
莞爾は対ソ作戦の権威で、ソ連と中国の分断を考えていたようである。
マッカーサーも同じ考え方だったので、協力を求めたのではないか。
マッカーサーは、「米軍が満州を占領しても、戦争の傷が癒えていないソ連も、建国したばかりの中共も出てこない」と予想していた。
事実、米軍は鴨緑江の水豊ダムを爆撃している。
このダムを潰せば満州の施設は発電を失い機能停止になるが、遂にソ連は出て来なかった。
マッカーサーは中国軍を叩いて、台湾にいる蒋介石を中国に復帰させて、失った中国を取り戻せると考えていたのかもしれない。
しかしこの冒険政策は、英仏などを恐怖させ、トルーマン大統領が止めた。
アメリカにとっては、日本は中ソの包囲網の重要地点である。
日本に共産圏の脅威を感じさせるには、朝鮮の分断と、中国の国連加盟の不承認は不可欠だ。
自衛隊は、日本を防衛するよりも、米軍の補助戦闘力となっている。
これを担保する日米の新安保条約を崩さないためには、アメリカは日本国民に絶え間なく共産勢力の恐怖を与え続けねばならない。
米軍占領下の日本における様々な事件は、この目的に集中されていた。
今も日本は実質的にアメリカの占領中だから、アメリカの謀略は続けられるであろう。
(2019年8月20~24日に作成)