タイトル日中戦争の大略

(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)

日中戦争とは、1937年7月7日の盧溝橋事件から45年8月15日の日本の敗戦までの、8年間の日本の中国への侵略戦争をいう。

中国では、抗日戦争と呼んでいる。

この戦争は、1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された満州事変からスタートしており、「日中15年戦争」「15年戦争」と呼ばれる事もある。

日中戦争は、1941年12月8日に日本がアメリカとイギリスに宣戦布告すると、アジア太平洋戦争に拡大・転換した。

日本は満州事変から15年にわたって中国侵略の戦争を行ったが、戦場が中国大陸だったのもあり、多くの日本人は日本軍が中国で何を行ったかを知らない。

また、学校教育においても教えられていない。

1914年7月28日に、ヨーロッパで第一次世界大戦が始まった。

日本は日英同盟を口実に、ドイツに宣戦布告し、ドイツ東洋艦隊の根拠地である「要塞都市・青島(チンタオ)」を占領した。

これは「日独の青島戦争」という。

日本は1915年に、中華民国の袁世凱・政権に「対華21ヵ条の要求」を突きつけ、5月9日に受諾させた。

この21ヵ条の強要は、日中戦争の前史の始まりである。

当時の中国は、1911年の辛亥革命から生まれた中華民国だったが、主権者意識に目覚めた国民達は「21ヵ条要求への反対運動」を展開した。

この運動は、長期にわたる抗日運動の起点となった。

1917年11月にロシアで革命が起き、ロマノフ王朝が打倒されて、レーニンの率いるボルシェビキが「ソビエト政権」を樹立した。

ソビエト政権はドイツ・オーストリア側と単独で講和を結んだが、アメリカ・イギリス・フランスなどの列強国はソビエト政権を潰そうとし、反革命勢力を援助するために「シベリア出兵」を行った。

日本はシベリア出兵を、満州とロシア沿海州に進出する絶好の機会と考え、連合国のシベリア出兵総数9万人のうち、7.2万人を引き受けた。

日本軍は満州に進軍していき、1919年4月に「関東庁」を発足させ、行政から独立した「関東軍」も成立させた。

中国では、孫文が中華民国・北京政府に対抗して、広東に地方政権を築いた。

孫文らはソ連の援助を受けて、国民党を組織し、広東国民政府を樹立した。
さらにソ連の赤軍をモデルにして、国民革命軍もつくった。

広東政府は、中国共産党との合作を進め、共産党員を政府に参加させた。(第1次の国共合作)

孫文の死後に広東政府は、「北伐」と呼ぶ戦争を始めた。

国民革命軍の北上に対し、日本政府はそれを阻止しようとして3次にわたって「山東出兵」を行った。

しかし国民革命軍は北京を占領して、中華民国・北京政府は崩壊した。

こうして(国民革命軍を率いる)蒋介石の中国統一が、ひとまず達成された。

日本は、満州に基盤を持つ軍閥の張作霖に、「本拠地の奉天に退去するように」と勧告した。

そこで作霖は奉天に向かったが、1928年6月4日に奉天駅にさしかかった作霖の乗る列車は、関東軍の謀略による満州鉄道線の爆破で押し潰され、作霖は死亡した。

関東軍は、この爆破を「国民革命軍の仕業だ」と言って、満州を軍事占領しようとしていた。

だが、この計画は失敗した。

日本政府と軍部は、この爆殺テロの真相をいっさい日本国民に知らせなかった。

1928年3月に田中義一・内閣は、日本共産党に大弾圧を加えた。
同年6月には治安維持法を改定した。

治安維持法は言論と思想の弾圧に猛威をふるい、国民が戦争に反対することはほとんど不可能になった。

その一方で、国際社会では1928年8月に「パリ不戦条約」が締結され、戦争が国際法において「違法である」と規定された。

この年は、「戦争の違法化」への転換点ともなった。

関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎は、満州を軍事占領するための謀略を計画し、1931年9月18日の夜に実行した。

この夜、奉天近郊の柳条湖で、関東軍は満州鉄道の線路を爆破した。

そして「張学良(張作霖の息子)の仕業だ」と言って、軍事行動を始めた。(柳条湖事件。満州事変の始まり)

関東軍は4ヵ月かけて、満州の主要都市と鉄道を占領した。

1932年1月に裕仁(昭和天皇)は、この関東軍の謀略と軍事行動を賞賛する勅語を発した。
これにより満州侵略は日本の国策となった。

32年3月1日に、「満州国の建国宣言」が行われ、清朝の皇帝だった溥儀を執政に就けた。

日本では1918年の原敬以後、政党の総裁が首相となる「政党内閣制」が続いていた。

しかし1932年5月15日に、海軍の青年将校グループが首相官邸を襲い、犬養毅・首相を殺害した。(五・一五事件)

このテロ事件の後、政党内閣政治が終わり、軍部の専横政治が始まった。

1933年2月に国際連盟は、総会で「満州事変と満州国を認めない」との決議を、賛成42、反対1(日本)、棄権1、で採択した。

日本はこれに反発して、翌月に国連を脱退し、裕仁も国連脱退の詔勅を出した。

満州の各地では、軍人や民衆が「抗日義勇軍」を結成して、日本へのゲリラ闘争を始めた。

関東軍はこれを討伐する一方、日本から満州へ移民させる計画に着手した。

日本では「満州開拓の移民だ」と言っているが、開拓ではなく、中国の農民から土地を奪い、そこへ日本人を移住させたのである。

だから最初の開拓移民団は、在郷軍人で組織した武装移民団であった。

1933年以降、中国共産党の組織した革命軍が急速に力を付け、「東北抗日連軍」に発展した。

35年9月に関東憲兵司令官と関東局・警務部長に就いた東条英機は、東北抗日連軍の撲滅に執念を燃やし。中国共産党員など3000人を逮捕した。

さらに37年3月に関東軍・参謀長となった英機は、治安粛清作戦を指揮して、東北抗日連軍を壊滅させた。

1935年に関東軍は、満州に接する「華北」も支配するために、土肥原賢二・奉天特務機関長が中心となって、傀儡政権として「冀東防共自治政府」をつくった。

さらに36年になると、日本政府は華北5省(河北・山東・山西・チャハル・綏遠)を中国・国民政府から分離させる、「華北分離」政策を決定した。

1936年2月26日に、日本陸軍の皇道派の青年将校が1400人の兵を率いて決起し、クーデターを試みた。(二・二六事件)

この事件では、蔵相・内大臣・陸軍教育総監が殺害され、首相官邸や陸軍省などが占拠された。

裕仁はこれに激怒して、武力鎮圧を命じ、「決起部隊を反乱軍と見なす」との命令を出した。

天皇から逆賊と見られた決起部隊は、無血で鎮圧される事になった。

二・二六事件の結果として、軍部の強権政治が確立してしまい、陸軍の主導権を握った統制派によって日中戦争が進められることになる。

また海軍も、日中戦争の本格化を進めた。

1936年6月に海軍の主導で、日本の国防方針をそれまでの対ソ北進論から、対米英の南進論を加えた「南北併進論」に改定させた。

広田弘毅・内閣は、これをそのまま認めて予算を配分し、軍備拡張が決定して、陸軍は対ソ戦を、海軍は対米英戦を準備していく事になった。

海軍は、かつては軍縮の国際条約に理解を示していたが、この頃には対米強硬派の博恭(伏見宮)が軍令部総長(32~40年まで在職)となり、その人脈で固められていた。

日本の陸軍と海軍は、中国大陸での縄張りを決め、満州と華北は陸軍、華中・華南・台湾は海軍に棲み分けた。

36年9月に、海軍の管轄である広東と上海で、日本人が中国人に殺害される事件が起きた。

海軍中央(軍令部と海軍省)は戦争開始の態勢をとったが、陸軍中央(参謀本部と陸軍省)が強く反対したので戦争は回避された。

この事は、37年8月9日に海軍が謀略(大山事件)を仕掛けて、第2次・上海事件を起こす伏線となった。

1936年12月12日に、張学良は西安に来た蒋介石を監禁して、国民党と共産党が一致して抗日戦争をするように迫った。(西安事件)

この後、第2次の国共合作が成立し、「抗日民族統一戦線」が形成された。

1937年7月7日に、盧溝橋事件が発生した。

これを見た日本陸軍・参謀本部の武藤章や田中新一は、戦局を拡大させる「中国一撃論」を主張した。

近衛文麿・内閣は、日本軍の華北派兵を認め、「北支事変」と命名した。

陸軍の石原莞爾らは戦局拡大に反対し、近衛内閣もこれに賛同して、国民政府と和平交渉を進めることになった。

和平交渉が成立するのを恐れた現地の日本海軍は、8月9日に上海で謀略(大山事件)を仕掛けた。

現地海軍の思惑どおり、大山事件で日本の世論は激高し、「暴支膺懲」が叫ばれた。

同年8月13日に、上海の日本海軍と中国軍の戦闘が始まった。(第2次の上海事変)

日本海軍の航空隊は、九州の大村と台湾の台北から爆撃機を出撃させることにし、14日と15日に渡海して国民政府の首都である南京を爆撃した。

これは国際法に違反する行為だったが、日本軍にも日本政府にも国民にもその意識は欠如していた。

8月13日夜の臨時閣議では、米内光政・海相が陸軍の上海派遣を強硬な態度で決定させた。

光政は翌日にも臨時閣議を開かせて、近衛内閣に「暴支膺懲」の帝国声明を発表させた。

この声明に基づき、陸軍は「上海派遣軍」を出動させ、日本政府は「北支事変」を「支那事変」に改名し、日中は全面戦争に入った。

9月になって上海に飛行場を開設した海軍は、そこから11次にわたって南京を空爆した。

海軍の航空隊は、広東や漢口など他の都市も空爆した。

9月28日に国連総会は、日本軍の都市爆撃に対する非難決議を、全会一致で採択した。

アメリカのルーズベルト大統領は10月5日に、日本に対する経済封鎖をにおわせる「隔離演説」を行った。

さらにイギリスとアメリカが提案国となって、11月3日からブリュッセルで会議を開いて、日本への制裁を検討することになった。

日本政府はこの制裁を恐れて、ドイツ政府に申し入れて国民政府との和平交渉を始めた。

駐華ドイツ大使の名にちなんで「トラウトマン和平工作」と言われている。

だがブリュッセル会議が日本の侵略を批判するだけで終わったのを見た日本政府・軍部は、11月20日に戦時の統帥機関である「大本営」を宮中に設置した。

本格的な戦争指導体制を構築したのだ。

日本陸軍は、3ヵ月におよぶ苦戦を経て、上海攻略に成功した。

陸軍の中支那方面軍は、多田駿・参謀次長の統制に従わず、上海戦で疲労したまま南京攻略に向かった。

大本営は、この中支那方面軍の独断専行を追認して、1937年12月1日に「南京攻略令」を下した。

日本軍は南京城を包囲し、12月13日に占領したが、そのまま徹底した大掃蕩をくり広げて、南京大虐殺を起こした。

南京陥落の前日(12月12日)、海軍航空隊は「中国軍の指導部が船で長江上流へ脱出しつつある」との情報を得て、爆撃しに向かった。

この爆撃では、アメリカのパナイ号が犠牲となり、アメリカ国民の間で日本商品のボイコットが広まった。

南京を落とした事で、日本では官庁が主導して全国で戦勝を祝う行事がくり広げられた。

しかし中国・国民政府はすでに重慶に遷都を決定し、武漢に暫定的な首都機能も移していた。

1938年1月14日に近衛文麿・内閣は、トラウトマン和平工作を打ち切り、「国民政府を対手とせず。国民政府の壊滅を目指して、新政権を樹立する」との閣議決定をした。

16日には「帝国政府は国民政府を対手とせず」という、近衛声明も発表した。

日本政府は、日中戦争の目的を親日政権の樹立に定めたのである。

徐州に国民政府軍の主力が集結しているとの報を得た大本営は、1938年4月7日に「徐州作戦」を命じた。

日本軍は5月17日に徐州を占領したが、中国軍の主力はすでに退却していた。

大本営は8月22日に、「武漢攻略作戦」(漢口作戦ともいわれる)を命じた。

この作戦は2ヵ月に及んで、大規模な戦闘となったが、日本軍は10月27日に武漢全域を占領した。

しかし国民政府はすでに重慶に政府機関を移しており、主力軍も撤退していたので、「中国軍に大打撃を与える」という日本軍の目的は果たせなかった。

大本営は、香港(イギリス領)から国民政府への援助物資が入るのを止めるため、「広東作戦」も命じた。

国民政府軍の抵抗はほとんどなく、日本軍は10月21日に広東を占領した。

11月3日に近衛文麿・内閣は、「東亜新秩序の建設声明」を発表した。

ここでは「国民政府の参加を拒否しない」として、和平への期待を盛り込み、「国民政府を対手とせず」という1月の声明を修正した。

日本海軍は1939年2月10日に、中国大陸の南端にある海南島への侵攻を始めた。

3日後に占領を終え、ここに航空基地と軍港を建設した。

島内の抗日ゲリラを掃蕩するため、海南警備府も設置された。

アメリカはこれに抗議して、39年7月26日に「日米通商航海条約」の廃棄を日本政府に通告し、「同条約は6ヵ月以後は無効になる」と通告した。

1938年の夏に、国境地帯の張鼓峰で、日本軍とソ連軍が軍事衝突した。

その後、関東軍参謀の辻政信はソ連軍の警備が薄いと見た東部モンゴルから、ソ連に侵攻する計画を立てた。

モンゴルでは、1924年に社会主義の人民共和国が建国されていた。

しかしソ連のスターリンによって、37年から39年にかけてモンゴルで2万人も銃殺(粛清)された。

「この大粛清でモンゴル軍が崩壊状態にある」との情報を得た関東軍司令部は、モンゴル侵攻の好機と判断した。

1939年5月末に関東軍は、モンゴル・ソ連軍が満州国との国境のハルハ河を越えたとして、攻撃を始めた。

しかしソ連軍の反撃で一部隊が全滅した。(第1次のノモンハン戦争)

関東軍参謀の辻政信と服部卓四郎は、再びモンゴル領内に侵攻する作戦を立て、39年7月2日から第2次のノモンハン戦争を始めた。

日本軍は敗れて、政信と卓四郎は関東軍の全部隊を投入して決戦を挑もうとしたが、大本営はこれを止めた。

日本政府は9月15日に、ソ連と停戦協定を結んだ。

辻政信と服部卓四郎は、いったんは他の職に転じたが、まもなく栄転して、卓四郎は参謀本部・作戦課長に、政信は作戦班長になった。

ノモンハンでソ連の圧倒的な戦力を見せられた2人は、北進論から南進論へと転向した。
そして参謀本部をアジア太平洋戦争へとリードしていった。

ノモンハン戦争は、対ソ戦争から対米英戦争への大きな転換点となった。

西ヨーロッパでナチス・ドイツが電撃的な勝利をすると、日本では大きな興奮が起きた。

宗主国が敗れた仏印(ベトナム)や蘭印(インドネシア)や、ドイツの攻撃にさらされているイギリスの植民地(香港、マレー半島、ビルマ)に進攻して、資源を得ようと、軍部・政府・世論が色めき立った。

ナチス・ドイツの様な新体制を構築する必要があると考えた近衛文麿は、内閣を組むと1940年8月1日に「大東亜新秩序を確立する」という「基本国策要綱」を発表した。

これ以後、「大東亜共栄圏の確立」「八紘一宇」のスローガンを掲げて、南進の気運を高めていった。

参謀本部の第一部長となった富永恭次は、自らハノイに乗り込み、参謀本部の制止を無視して南支那方面軍を動かし、1940年9月26日に北部仏印への武力進駐を行った。

これを見たアメリカ政府は、同日に対日の屑鉄輸出を全面禁止とした。

近衛内閣の松岡洋右・外相は、40年9月27日に「日独伊・3国軍事同盟」を締結した。

これにより日本は、アメリカやイギリスとの敵対を明確にした。

中国では、第2次の国共合作によって、華北の共産党軍は「国民革命軍・第八路軍(八路軍)」に、華中の共産党軍は「国民革命軍・新編第四軍(新四軍)」に編入された。

共産党軍は、日本軍が支配する地域に拠点を築いて、土地と民衆を解放していった。
これは「解放区」と呼ばれた。

1940年8月下旬~10月上旬にかけて、八路軍は華北の日本軍の拠点を奇襲攻撃し、大きな損害を与えた。

八路軍の百余団が参加したことから、中国では「百団大戦」と呼ばれる。

百団大戦で屈辱を味わった北支那方面軍は、「燼滅掃蕩作戦」を実施した。

燼滅とは、「焼き尽くし、跡形もなく滅び尽くす」という意味で、徹底的な殺戮・破壊・略奪を目指すものだった。

中国ではこれを「三光政策」と言った。三光とは中国語で「焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)」を意味する。

1940年には、八路軍・新四軍は60万人に達し、民兵(ゲリラ兵)も200万人に成長して、解放区の人口は4000万人に達した。

百団大戦は北支那方面軍の認識を一変させ、「剿共(共産党を滅ぼすこと)なくして治安維持は達成しない」と主敵が国民政府軍から共産党軍に移った。

行き詰った日本陸軍は、重慶の都市と住民を標的にした無差別爆撃を開始した。

海軍との協同で、1940年5月から3ヵ月にわたり、重慶爆撃の「百一号作戦」が実施された。
40年8月には零戦が初めて重慶爆撃に投入されている。

しかし重慶の国民政府は降伏せず、市民の抗戦意志も崩壊しなかった。

この無差別な爆撃は、国際的な批判を生み、特にアメリカは対日禁輸の働きかけを行った。

近衛文麿・内閣は1941年4月13日に、「日ソ中立条約」を結んだ。(有効期間は5年間)

ソ連はドイツとの戦争準備のため、日本は南進政策を進めるためだった。

同年6月22日にドイツが、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、独ソ戦が始まった。

日本は、7月2日の大本営・御前会議において、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を決定した。

これにより、まず仏印(ベトナム)とタイに進出し、さらに南方に進出して、対米英戦を辞せずとした。

対ソ戦については、独ソ戦の進み方によっては、武力で北方問題の解決をするとした。
このため、北進と南進の双方を準備する事になった。

日本は密かに兵士をソ連国境に大動員することにし、7月7日に空前の85万人態勢を整える大動員令が下された。

しかし8月になっても日本軍が期待した、ドイツ軍によるソ連崩壊はなく、大本営・陸軍部は8月9日に年内の対ソ開戦を断念した。

1941年7月25日に、日本の陸海軍の大部隊が海南島を出港し、8月4日に南部仏印への進駐を終えた。

これに対抗してアメリカ政府は、7月25日に在米日本資産の凍結令を出し、8月1日には対日の石油全面禁輸を発動した。

日本海軍の航空隊は、41年7月27日から8月31日まで、陸軍爆撃隊と協同して、重慶爆撃の102号作戦を行った。

この作戦は、日米開戦に備えた航空演習の性格も持っていた。

8月15日に及川古志郎・海相は、各航空隊に太平洋戦争に向けた戦闘準備を発令した。

海軍航空隊は、日米開戦時の奇襲攻撃に向けて準備と猛訓練に入っていった。

9月6日の大本営・御前会議において、「帝国国策遂行要綱」が決定し、「日本帝国は自衛のため対米戦争を辞さず、10月下旬を目途にして戦争準備を完成する」と決めた。

10月16日に近衛内閣は総辞職し、2日後に対米英の強硬派による東条内閣が成立した。

1941年12月8日に、日本軍は真珠湾攻撃をし、アメリカ・イギリス・カナダ・オーストラリアに宣戦布告した。

同日にアメリカ・イギリスは日本に宣戦布告した。

翌9日には、中国の国民政府が正式に日本・ドイツ・イタリアに宣戦布告した。

11日にドイツとイタリアは、アメリカに宣戦布告した。

東条内閣は、「支那事変を含めて大東亜戦争と呼称する」と発表した。

中国は連合国側の26ヵ国の一員となり、日中戦争はアジア太平洋戦争に包摂された。

連合国は中国の支援に乗り出し、日本が中国に勝つのはさらに難しくなった。

ただし米英はヨーロッパでドイツと戦うのを優先したので、中国は困難な戦局が続いた。

日本は、アメリカと開戦したので、中国から大量の兵士を南方に移した。

そして中国では、国民政府の潰滅は諦めて、対米英戦争のために食糧・資源・労働力を収奪する地と中国を見なした。

日本国内の鉱山労働や土木工事などの労働力不足を補うために、抗日の村落を襲撃して成年男子を集め、強制連行した。

さらに農村から米・小麦・綿花などを、「収買」の名目で収奪・略奪した。

日本の植民地とされた「満州国」は、日本の兵站基地として収奪された結果、経済が破綻した。

1942年4月18日に、アメリカのB25が16機で、日本列島を縦断して主要都市を爆撃した。

この日本本土の初空襲は、日本政府と軍部に衝撃を与えた。

大本営は、中国の空軍基地からB25が日本に飛来するのを恐れ、浙江省の飛行場などを破壊するために、4月30日に支那派遣軍18万人を攻撃に向かわせた。

この作戦は、浙江省の空軍飛行場を破壊して9月に終わった。同作戦では、日本軍は毒ガス兵器を大規模に使用した。

1943年11月25日に、中国の江西省を発進したB25・P38の計15機が、台湾の飛行場を空襲した。

完成が近いとされる長距離爆撃機のB29が出現すれば、日本軍が侵攻していない中国の南西部の飛行場からでも日本本土を攻撃できる。

それを阻止しようと中国大陸を打通する作戦が、44年4月から45年2月まで実施された。

この作戦を立案したのは参謀本部・作戦課長の服部卓四郎だったが、支那派遣軍の8割にあたる51万人が動員され、1500kmを徒歩で南下した。
しかも食糧はほとんど現地住民から略奪した。

しかし44年7月にサイパンが陥落して、アメリカ軍はそこにB29の基地を建設。
B29の大編隊が日本本土を空襲するようになった。

1945年3月末に沖縄にアメリカ軍が上陸し、沖縄戦が始まると、支那派遣軍の多くが日本本土を防衛するため、本土に配置換えされた。

ついで大本営・陸軍部は、アメリカ軍の中国上陸を予想して、中国の東部沿岸地帯に兵力を集中させた。

さらに大本営・陸軍部は45年5月になると、関東軍にソ連の対日参戦に備えて北朝鮮で防備を固めるよう命じた。

この事は、満州の日本人たちには秘匿された。
このためソ連が満州に侵攻すると残された日本人たちに大きな被害が出た。

中国共産党は、日本軍の弱体化を見た結果、45年8月に「大反攻」を指令した。

この作戦で華北全域での基盤を拡大し、その後の国共内戦で勝利する環境を構築した。

1945年8月15日に、裕仁は「玉音放送」を行って、「終戦の詔書」を発表した。

アジア太平洋戦争は、日本の敗北で終結した。

9月9日に南京で、支那派遣軍の国民政府に対する降伏調印式が行われ、中国各地で日本軍は降伏文書に調印し、武器を引き渡した。

日中戦争時のニュース映画や記録映画を見れば分かるが、日本政府は戦争の残虐さを国民に知らせまいと厳しい検閲を行い、撮影側の自己規制もあって、日本兵が中国兵や中国民衆を殺害する場面はほとんどない。

(※当時はまだテレビは存在しない)

日本の記録映画には、日本兵が戦死する場面も全くといっていいほど無い。

これは「無敵皇軍」の神話にとってまずいという判断と、出征していく青少年に戦死の恐怖を抱かせないためだろう。

当時のニュース映画や記録映画を見ると、日本軍の突撃を後方から撮影したものと、敵城を占拠して日の丸を掲げ万歳三唱している場面に、ほぼ決まっている。

日本政府や軍部は、戦争の本質を国民に見せない様にしたのである。

そして兵士として中国に投入された日本人は、上官の命令に従わなければ、陸軍刑法にある「抗命罪」として処罰の対象となった。

中国に派遣された日本軍の新兵は、ほぼ例外なく「新兵の肝試し」「新兵の度胸試し」という教育を施された。

これは「刺突訓練」と言われ、中国人の捕虜や民間人を杭に縛り付け、それを新兵に三八式歩兵銃の銃剣で刺殺させるものである。

渡部良三の『歌集 小さな抵抗』は、この新兵教育を拒んだ兵士の記録である。

良三は、捕虜5人を49人の新兵が刺突する訓練の場において、教官の命令に従わず、刺突を拒んだ。

このため「上官の命令」すなわち「天皇の命令」に背いたとして、上官からリンチを毎日毎夜加えられ、新兵仲間からも侮蔑された。

良三の親友の衛生兵は、「眼を閉じて一突きすれば済んだのに馬鹿だなあ」と言ったという。

良三と共に訓練を受けた48人の新兵は、刺突を行い殺戮者になっていったのである。

2011年12月にNHKで放送された「中国華北占領地の治安戦ーー独立混成第四旅団」では、二等兵だった山本又兵衛(91歳)が刺突訓練について証言している。

『私は、入隊して3日目に突かされたのですわ。

教官が「突くのは嫌な者は手を挙げろ!」と言った。

1人が手を挙げたら、「貴様はそれでも日本人か、軍人か」と言って、往復ビンタをバーン、バーン、バーン、バーンです。

他の人は手を挙げたくても挙げられません。』

新兵たちは刺突を拒める状況になかった。
もし拒めば、渡部良三のように凄惨なリンチ生活を覚悟しなければならなかった。

こうして新兵たちは、人を殺す事を覚えさせられた。

同じく独立混成第四旅団に属した近藤一は、著書に体験を書いている。

『初年兵教育のある日、広場に集合整列させられました。

前方30mほど先に、立ち木を背にした便衣姿(民間人服)の中国人が2人、後ろ手にくくられ目隠しをされていました。

これを刺突訓練で処刑するというのです。

生の人間を刺すと思ったとたん、全身に震えが始まりました。

私らは三八式歩兵銃に50cmくらいの銃剣を付けて構えて、中国人に対してガーッと走って行って突き刺すんです。

最初の兵が「やあ!」と一声で、くくられている中国人の右胸にグサッと剣が突き刺さりました。

「グエー!」と中国人の発した声が、私たちの耳に飛び込みました。

私たちは2名ずつ、次々に突くのですが、私が刺した時にはもう虫の息で、頭をがっくり下げ、厚い便衣服の胸より鮮血が出ていました。

まるで豆腐を刺した感じで、スーッと剣が突き刺さりました。
何の罪の意識もなく…。

人を殺すっていうのは、普通なら罪悪感が出て出来ないんです
けども、子供のうちから教育されて中国人は「チャンコロ」「豚以下の人間」だという意識が頭にありますから、罪の意識が何もない。』

人間の適応力はすごいもので、最初は震えながら目をつぶって刺突した日本兵も、やがて殺害する事に快感を覚えるようになるのは、筆者が数多く聞いた元日本兵の証言で共通している。

日中戦争において、日本は膨大な軍隊を中国に送り込み、戦闘に従事させた。

その兵士数は、1937年末には40万人以上、39年末には85万人(関東軍を含めるとおよそ100万人)に上った。

この膨大な日本兵が、中国で何をしたかは、戦時中はもちろん、戦後もあまり報じられていない。

そのため日本国民は、加害者であったという歴史認識を持てない人が多い。

日中戦争の時代、日本人は中国人を「支那人」と呼んで軽蔑し、軍部が仕組んだ謀略事件に騙されて「反日」「排日」「侮日」であると憤激した。

そして「暴支膺懲」を叫ぶ軍部や政府の煽動に乗り、日中戦争に熱狂しつつ動員されていった。

日中戦争を体験した日本人の多くから聞かれるのは、「今(2017年)の日本の政治・社会状況が満州事変の前夜に似ている」「今の日本はいつか来た戦争の道に酷似している」という言葉である。

彼らが戦争への徴候を感じている事に、私たちは注意し、戦争を未然に防ぐ努力をしなければならない。

過去の誤り、過ちから学ばなければならないのである。

(2020年3月7~10日に作成)


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