(『日中戦争全史・上巻』笠原十九司著から抜粋)
大日本帝国の軍部は、陸軍と海軍から成っていた。
陸軍の中央機関は、参謀本部、陸軍省、教育総監部の3つで、それぞれが軍令、軍政、教育を分掌する三元制だった。
参謀本部と教育総監部は、天皇に直属する機関である。
陸軍省は、陸軍大臣がトップで、陸軍大臣は内閣の閣僚である。
海軍の中央機関は、軍令部と海軍省から成っていた。
軍令部は天皇に直属し、国防方針や軍備・作戦計画など、戦争指導の業務を担当した。
海軍省は、軍政を担当し、海軍大臣がトップで内閣の閣僚である。
陸軍の中央機関の要職は、陸軍士官学校→陸軍大学校というコースを歩んだ者に独占された。
同じく海軍の中央機関も、海軍兵学校→海軍大学校と歩んだ者に独占された。
陸軍はさらに、陸軍幼年学校から陸軍士官学校に進むエリートコースがあった。
つまり陸軍も海軍も、同一の学校を卒業した者達で上層部を独占し、天皇の統帥権に保証されて、特権階級を形成していた。
そして陸軍も海軍も、上官に絶対服従の位階制度を定めており、軍人たちはその位階を昇っていく事を目的とした。
昇進には、陸軍士官学校と海軍兵学校の入学年度による年功序列と、卒業時の成績順位が大きく影響した。
だから官僚組織そのものだった。
戦争を指導したのは上記の同じ学校を出た者達だったので、作戦ミスや指揮ミスで兵士が大量に戦死しようとも、馴れ合いの構造で責任を追及されなかった。
その結果、彼らは同じミスを繰り返していった。
さらに恐ろしいのは、官僚化した彼らは、国家の命運よりも、戦争を利用した自らの出世や、組織の拡大を優先して、考え行動した事である。
陸軍も海軍も、決して一枚岩ではなかった。
陸軍では参謀本部と陸軍省の対立があり、海軍も軍令部と海軍省の対立があった。
現在の中央官庁における各省の対立と同じである。
陸海軍の中央機関では、派閥の抗争があった。
ロンドン海軍軍縮条約(1930年)の時は、海軍内に軍縮条約に賛成する「条約派」「軍政派」と、条約に反対する「統帥派」「艦隊派」の抗争があった。
この抗争は後者が勝ち、日本は軍拡と戦争の道に進んだ。
海軍内には、巨艦主義の「艦隊派」と、航空力を重視する「航空派」の対立もあった。
両者は競り合いながら、海軍の軍拡を進めていった。
陸軍内では、盧溝橋事件への対応をめぐって、戦局の「拡大派」と「不拡大派」の抗争が起きた。
そして「拡大派」が勝ち、日本は中国との全面戦争に突入していった。
派閥抗争は、だいたいにおいて「強硬派」と「慎重派」の対立の構図だった。
この場合、軍は戦争をする組織という本質上から、強硬論を主張する攻撃的な方が、勝ち組となった。
もう1つの勝ち組のパターンは、天皇や皇族(伏見宮・軍令部長など)の寵臣になって、派閥抗争に勝つものである。
陸軍内では、政策をめぐって「皇道派」と「統制派」の抗争もあった。
これが二・二六事件につながった。
(2020年6月25日に作成)