タイトル川島芳子の生涯⑩
日本が敗戦すると中国政府に逮捕される
処刑と生存説

(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)

川島芳子の逮捕が日本に伝わったのは、1945年11月14日であった。

読売新聞はこう報じている。

「ワールド・デーリー・ニュースは、有名な女スパイ川島芳子が逮捕されたと伝えている。

同紙によれば、彼女は日本陸軍・参謀本部で教育され、日本の満蒙侵略に非常な貢献をしたという。

彼女はしばしば男装し、偽髭や黒眼鏡を使用した。」

重慶大公報に「北方にて漢奸の粛正始まる」との記事が11月29日に載ったが、そこには「敵スパイ川島芳子も北平(北京)で逮捕された」とある。

川島芳子の逮捕前後の様子については、秘書をしていた小方八郎が詳細を記憶していた。

日本が敗戦すると、小玉呑象という出入りしていた易者が芳子に向かって、「今なら蒙古に逃げる道があるから紹介しよう」と言った。

ところが芳子は、「自分は蒋介石には弓を引いたが、中国の民衆には誠心誠意あたってきたから、逃げも隠れもしない」と言い張った。

そして芳子は連日、琵琶師を自宅に呼んで弾き語りを聴いたり、昼寝を貪ったりと、それまでと変わらぬ日々を過ごした。

そんなある日、例によって朝寝坊の芳子がまだ寝ている中、交番の巡査と憲兵隊がいきなり踏み込んできた。

芳子と小方八郎は車に押し込まれ、顔に布をかぶせられ、後ろ手に縛られた。

芳子はさして驚いた様子もなく、顔にかぶせられた布の間から目配せしておどけて見せた表情を、八郎は今も思い出すという。

2人は迎賓館に数ヶ月拘留された後、北京の旧日本陸軍の拘置所に送られた。

毎日新聞の特派員だった佐藤亮一は、『北京収容所』を著し、その中で収容所にいた頃の日記を発表している。

日記の1946年9月3日付は、こう記している。

「世界日報紙によれば、川島芳子が冀東高等法院検察所で取調べを受けている。
罪名は漢奸と間諜罪である。

彼女の経歴は、満州事変後に長白山に籠って武力を貯え、日中提携を唱える汪兆銘に会ったり、右翼の頭山満と会ったりで、日中の要人と情欲沙汰が多数。中国を日本に売るために活躍、と書いてある。」

長白山で云々という噂は、かつて中国大陸で軍糧城精穀公司を経営していたカネミ倉庫社長の加藤三之輔もこう語る。

「その噂は私も再三、耳にしています。川島芳子も加わっているとのことでした。」

長白山といえば、(芳子の養父の)川島浪速が満州事変の後に、清朝の発祥の地とされる長白山をのぞんで祭祀を行った。

芳子が長白山で武力を貯えたというのは、この話が発展したデマではないか。

玄洋社の頭山満と芳子が親交をもっていたのは事実で、一緒に写った写真が残っている。

小方八郎によると、満は芳子に対し「豪傑!」と呼びかけていた。

芳子と一緒に捕まった小方八郎だが、1947年3月に釈放され、日本に帰国した。

1946年7月3日の南京中央日報では、川島芳子が華北高等法院に護送された事が報じられ、起訴状も掲載されたが、その概略は次の通りである。


9.18事変(満州事変)以来、北京・天津・日本・満州を往来し、スパイ活動をした


満州国の皇宮の女官長、満州国の留学学生総裁などを務め、溥儀の訪日では歓迎の指導を担当した


満州国で定国軍(安国軍)を組織し、溥儀を熱河省に迎えて国境地帯を侵そうとした


7.7事変(日中戦争)が始まった後、汪精衛を煽動して南京政府の樹立につとめた


日本側に国民政府軍の内情を伝えた


満州族の復興を企み、溥儀に北京へ遷都するようそそのかした


村松梢風の『男装の麗人』には、被告の行動が具体的に出ている

芳子の財産は差し押さえられたが、小方八郎は「戦後(日本の敗戦後)になってから、乾隆の大壺に現金や宝石を詰めて裏庭に隠した。私たちの逮捕後に、(隠し財産を問いつめられ)、芳子と私は数人の役人を同伴して、それを掘り起こした」と言う。

1946年8月25日のUP特電には、こんな情報も出た。

「川島芳子を審理中の法廷は、イギリス武官により『芳子は白扇協会、ホワイト・ファン・ソサイティとして知られる日本の秘密機関のアジア部長であった』との情報を受け取った。」

1947年10月8日に、川島芳子の第1回公判が開かれた。

だが野次馬によって延期になってしまった。
10月11日付の朝日新聞が報じている。

「河北省・高等法院では8日に、大変な騒ぎとなった。

川島芳子の戦犯公判が始まったが、3千人の見物人が殺到し、群衆は窓ガラスを破るなどの大騒ぎ。

秩序が保てないとして裁判は延期になった。」

10月14日に改めて公判となったが、南京中央日報は「傍聴人が5千人に達して秩序が得られず、裁判は第1監獄で行うとして閉廷された」と報じた。

結局、10月15日に第1監獄で開かれ、南京中央日報は次のように伝えた。

「川島芳子は、頭山満、松岡洋右、近衛文麿、東條英機、本庄繁、土肥原賢二らと親交があった事を認めた。

自分の思想は肅親王朝を中心としていると力説した。

1932年に上海で田中隆吉らと昵懇になり、長春の軍司令部で定国軍に参加した後、兄の金璧東と長白山で独立を企てたが、多田駿に見破られて武力により解散させられた事を述べた。

1942年には憲兵を殴って日本に送還されたが、43年に北京に戻って華北人民自衛軍をつくって司令官になることを考えたが実現しなかった事を述べた。」

翌16日に第2回公判が行われ、22日に死刑の判決となった。

判決後のクリスマスに、芳子は小方八郎に長文の手紙を送っているが、「松笠の事やったか?おやじ(川島浪速)に言ったか?」と書いている。

松笠とはダグラス・マッカーサー元帥のことで、ダグラスに助命嘆願する件を指している。

芳子は浪速にも手紙を出しているが、文面を見る限りでは楽観的に判決を受け止めている。

大公報の特派員・彭女史は、芳子との獄中会見をして報じている。

「彼女は男のような口調で言った。

『僕は漢奸ではない。もしそうなら、日本の降伏前に日本に亡命していただろう。
僕は中日両国の親善を説き、日本の独善と侵略を攻撃してきた。

僕は国籍は日本人だが、血は中国人だ。
終戦の時、蒋主席・万歳を唱えた。』」

この頃と思われる、芳子が小方八郎に宛てた手紙が残されているが、次の一文がある。

「日本人(国籍)だと、ぢきに出られるのだ。

先年に送って頂いたもの(国籍証明書)がある。
それはれん(廉子)のだ。

それを(偽造して)れんをオレにしてくれ。
生年月日も、れんのままが好い。

兄貴らは大馬鹿ばかりで薄情で困る。(※中国に居る親族たちは獄中の芳子に誰も面会せず、差し入れもしなかった)」

芳子は、姪の廉子の日本国籍証明書を、廉子を芳子に(書き換えて)偽造して送ってくれと、小方八郎に頼んでいるのだ。

芳子は養父・川島浪速にも、戸籍謄本を送るよう、しきりに依頼している。

浪速の許で一時期を過ごした林杢兵衛が、1949年6月発行の『獄中記』に、芳子の手紙の写しを載せている。

その手紙には、「憲章(芳子の兄)の字と、れん(廉子)の字を改めないといけません。あとはそのままで結構です。父(浪速)の子になった証明が法律的にあればいいのです。」とある。

つまり芳子は、偽造した戸籍謄本を送ってくれと、養父に懇請していた。

芳子の弁護団は再審の請求をしていたが、取りあえず芳子を日本人と認めさせて、日本の戦犯に押し込もうとしていた。

これが上手く行けば、芳子は一命を取りとめただろう。

というのは、李香蘭として中国で注目を集めた山口淑子は、戦後になって芳子と同様に逮捕されたが、日本国籍なので46年に帰国できたからだ。

芳子の指示により、浪速は陳情書を書いたが、そこにはこうある。

「大正2年(1913年)に芳子は私の家に来たが、満6歳だった。

国籍を移したのは大正8年だが、その戸籍簿のある役所は大正9年(大正12年9月の誤りだろう)の関東大震災で焼失した。」

これを読んだ芳子から、折り返し抗議の手紙が浪速に送られている。

「公審で私の年齢が問題になりました。
父上のお手紙は年が違っています。

満州事変の年、私は16歳です。
今年33歳ですから間違いありません。

大正2年で6歳だったら、私はもう45、6です。

大正2年は、憲徳(芳子の兄で第2王子)が日本に行った年と思います。

私は外国(日本)で生まれたから、中国に籍が無いのです。

父上は、芳子は1回も落第した事はないし、親孝行で悪い子ではないと言って下さい。

いつもの様に『あの子は困った奴で、学校は退学されるし落第ばかりで、言うことを聞かぬから捨てた子だ』などとおっしゃらないで下さい。

証明書が届きましたが、法律的にいけないです。
父上の子であるだけで好いのです。

殺されるにしても、まだ月日があるのですから…。」

要するに芳子は、日本生まれで満州事変の時に16歳の孝行娘であると、言ってくれと懇請している。

芳子が年齢を偽ったのは、満州事変の時に未成年であったとして罪を逃れるためだった。

憲立(川島芳子の兄)は、こう述べる。

「蒋介石の重臣である孫連仲の夫人は、私の一族だったので、私も密かに夫人を通じて芳子の助命の働きかけをしてました。

しかし芳子は法廷で、決定的に不利な発言をしました。
すべてが水の泡になったのは、あの件だと、私は思ってます。」

憲立によると、芳子の裁判はラジオ中継されたが、芳子が孫科(孫文の長男)の名を出した瞬間に中継が打ち切られた。

芳子は第一次・上海事変の時、孫科を日本の客船に忍び込ませて広東に逃がしている。

こうした裏話をすれば、蒋介石政権の首脳部に出世している孫科は、立場が危うくなる。

だから孫科が口封じのため芳子を処刑したと、憲立は言外に伝えた。

1948年3月6日に、芳子側は正式に再審の請求をした。
だが14日に却下された。

再審却下の後、芳子は小方八郎に手紙を送ったが、焦っている心中が文面に滲み出ている。

「俺はとうとう2回死刑(の宣告)だ。

俺様は大正5年の誕生さ。至急、直してくれ。
そうすると16、17で満州事変になり、何が出来るかという事になる。

早くマッカーサーの署名を送ってくれ。頼めばいい。
俺の事を、何も言わずに日本に渡せってね。でないとおだぶつだ。

要するに、(満州)事変の年に16以下でないと助からんらしい。
至急、おやじに言ってくれ。」

芳子はこの手紙でも、マッカーサーに嘆願書を出し、年をごまかした戸籍謄本を送れと訴えている。

川島芳子の処刑の知らせは、南京中央日報の1948年3月26日付に載った。

「川島芳子、昨日に北平(北京)にて死刑執行。
外人記者のみ立ち会い許す。

25日6時40分に北平第1監獄にて死刑に処された。
先に提出した抗告書は却下された。」

処刑の9日前の16日に、AP特派員のスペンサー・ムーサが獄中の芳子とインタビューが許され、それは3月21日付の読売新聞に載った。

「川島芳子は、妖婦として面影はすっかりなくなっていた。
2年の刑務所生活が健康と容貌をすっかり損なわせた。

彼女は日本で33年前に生まれたと語り、いま日本文で一生の手記を半分ばかり書き上げている。

彼女は『私は1度も結婚したことはない。男が嫌いです。女を困らすばかりですから』と語った。

彼女が行った上訴は却下され、刑の執行を待つのみだ。」

芳子が獄中で手記を書いていた噂はかねがね伝えられているが、残っていない。

手塚安一は中国で生まれ育ち、張平三という中国名を持っていた者だ。

安一は日本軍にとって重宝な存在で、戦後に国民政府に逮捕された。

安一の釈放は、川島芳子の機転の賜物とされており、芳子が安一のことを「知らない」と証言し続けた事が大きかった。

林逸郎が昭和34年8月に日本週報増刊号に書いた記事によると、芳子が知らぬ存ぜぬでかばった結果、安一は芳子と共謀して日本のための諜報工作をした疑いが晴れたという。

川島芳子の遺体の引き取りは、北平にいる小橋助人から川島浪速に宛てた電信の写しを、小方八郎が保管していた。

それによると、芳子の死体は銃弾が後頭部から右顔に射出していた。

3月25日の午後2時に火葬場に着き、翌26日に焼かれた。

葬式に立ち会った日僑自治会・会長の古閑二夫(古川大航)は、宮崎滔天と姻戚関係にあり、大陸を駆け巡った人である。

その夫人の美子も葬式に出席したが、「法要は記憶していますが、処刑されたのは身代わりの方で、芳子さんはほどなく日本に引き揚げて来られました。いまもお住まいは東京でしょ。」と語る。

芳子の生存説は、かなり信じられている。

処刑から2ヵ月後の5月16日付の日本の各紙に、次の記事が出た。

「川島芳子が生きているとの訴えが、劉鳳貞という人から南京監察院に出た。

告訴状によれば、銃殺されたのは劉さんの妹で、身代わりとして金の延べ棒10本をもらう約束が、4本しかもらえなかったとある。

監察院は調査に乗り出したが、告訴人の住所が不明で真相の掴みようがない。」

替玉説は、芳子の兄・憲立もこう語る。

「孫連仲が北京に来たのをきっかけに、芳子の助命運動を始めた。

その結果、『処刑した格好にして生かしてやろう』との回答を得て、代償として金の延べ棒100本を要求された。」

一方で、ソ連が芳子から情報を取りたがっていて、芳子の処刑日にソ連の飛行機が2機待機していたという話もある。

憲立は言う。

「ソ連と蒙古の国境には、肅親王家の土地があるから、芳子の逃亡先はありました。

しかし芳子が飛行機に乗れたとしても、その地で頼る相手はかつての夫カンジュルジャップの兄、ノンナイジャップしかいません。

ノンナイはすでに行方不明で、そのまま現在に至っています。」

芳子の葬式に立ち会い、遺骨を引き取った古閑二夫は、それまで芳子と一面識もない。
だから芳子かを見分けられなかったろう。

GHQは、川島浪速が友人に書いた手紙を、検閲して秘かに調査している。

アメリカ国立公文書館にある、その手紙の英文訳を、日本文に直すと次の通りだ。

「1948年12月12日付 タキザワトクタロウ殿。

中国の大公報によると、芳子の処刑は行われず、身代わりが処刑されたという話です。

新聞に掲載された死体写真は、長い髪を結ってますが、同房で過ごした小方八郎によると、芳子の髪は刈り上げだったと言い、処刑されたのは芳子ではあり得ないと申しています。

古川大航(古閑二夫)も、死体の顔は汚れて膨れ上がっており、見分けがつかなかったし、髪は肩に届く長さと述べています。

ただし古川によると、死体は芳子以外に書けぬ心情をしたためた一枚の紙片を所持しており、これによって芳子に違いないと言ってました。」

GHQのG2は、秘密扱いとして49年3月10日付で次の通達をした。

「川島浪速の書簡は、芳子の身代わりを述べており、中国の報道や刊行物も身代わり処刑に言及している。

日本でも毎日新聞社が発行の『世界の動き』が、身代わり処刑を述べている。

従って、これらの刊行物を入手し提出せよ。」

そしてGHQは、『世界の動き』48年7月15日号を入手し、これも公文書館に保管されている。

「川島芳子が生きているとの告訴状を、南京監察院が受け取った。

その告訴状は、劉鳳貞という女から出されたが、内容は次のものだ。

『私の姉・劉鳳玲は、川島芳子と瓜二つの顔をしており、日本語を話せる事から、母は私の義兄・劉仲済にそそのかされて、芳子の身代わりに姉を金の延べ棒10本で売ってしまった。

刑の執行日の前日である3月24日の夜、私と母は、姉を監獄まで連れて行きました。

だが監獄長は金の延べ棒を4本しか呉れず、私たちを脅かして追い返してしまった。

監獄に勤めている劉仲済によると、姉は芳子とすり替えられ、芳子は満州に逃げたといいます。

満州の中共軍の周保中・将軍が、金の延べ棒100本で芳子を買収したのです。

私の姉が銃殺されながら、金は4本しかもらえず、後日に催促に行った母もそのまま帰ってきません。
徹底的に調べて下さい。』

この投書に基づいて、河北監察使署が調査し、5月21日に報告書を発表した。

その報告書によると、刑の執行に立ち会った何承斌・検察官は、不正な身代わりはないと述べた。

さらに不正があるなら住所も書かない投書ではなく、堂々と訴願すべきであると論断している。

芳子の処刑の疑問は、執行直後の大公報の記者の特電にも見えている。

『3月25日の早朝5時10分に、高等法院は突然に、収監中の芳子の死刑執行を直ちに行うと発表した。

記者たちは駆けつけたが、表門は堅く閉ざされ憲兵が警備していて、監獄長の命令で開けられぬと言う。

記者たちは交渉するも、一向に聞き届けてもらえない。

そうするうちに、6時40分に中からパンという銃声が聞こえた。

7時すぎに裏門から1人の女の死体が担ぎ出された。
記者たちが駆けつけると、死体が寝かされているが、眉間にあいた弾孔から血が吹き出し、顔は血に汚れて誰なのか分からない程である。』 」

だが、遺骸は芳子であったと断言する者がいる。

芳子の妹で第17王女の顕琦、すなわち北京在住の黙玉である。

彼女の許に一葉の写真が届いたと言う。

「持ってきたのは知人の陳さんで、5cm四方の素人写真でした。

外人記者から入手したとの事で、遺体の顔は血だらけでしたが、手足の特徴などから、間違いなく芳子姉でした。」

当日は、ライフ誌のカメラマンだけが撮影を許可されたといわれている。

芳子の遺骨は、古川大航が日本に持ち帰り、川島浪速に渡した。

雲龍寺の徳温方丈は、芳子と面識があった者だが、こう語った。

「川島浪速、その奥さん、芳子は、みんな私の寺の祀ってあります。

浪速は、替玉なら替玉を弔ってやりたい、本人ならなおのことだと言って、供養を依頼された。」

浪速は遺骨を受け取ってから9ヵ月後の、1949年6月14日に息をひきとった。

浪速の秘書だった庄司久子は、一時期を芳子と共に過ごしたが、久子の手紙に次の一節がある。

「芳子さんは香ばしくない噂が多いが、一緒に生活して感じた芳子さんは策士ではありません。

むしろ私には、清朝の血脈を日本の軍人や民間のお偉方に、色と欲で利用された印象が強く残っています。

大連で一緒に暮らした頃、毎晩のように部屋で一人で泣いておられ、私に見つかると『泣いてたなんて親父に絶対に言うなよ』と念を押されるのでした。」

(2020年9月10&12日に作成)


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