タイトル川島芳子の生涯⑨
日本軍に暗殺されそうになる

(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)

1940年は、日本は神武天皇の建国から2600年にあたるとして、国を挙げて祝賀の年とした。

汪兆銘が南京に新政府をつくって親日を表明する一方、満州国の皇帝・溥儀が再び来日して日満関係はいよいよ高揚した。

前年(39年)に日本政府は、満州の開拓地を国有化すると決め、永代耕作権を認めて「満蒙開拓の青少年義勇団」を送り込んでいる。

川島芳子の兄である憲立は言う。

「この頃になると芳子の存在は、日本軍部にとって、第一次・上海事変の裏工作などを嗅ぎとっていたので、目の上の瘤のような存在になっていたと思います。」

憲立の言葉を裏付ける如く、笹川良一はこの頃に芳子の暗殺計画があったと述べている。

1940年6月に大衆党総裁として満州および北支へ慰問した良一は、北京のホテルで旧知の由利・少尉から打ち明けられた。

「北支方面軍・司令官の多田駿・中将の命令で、川島芳子を始末しろと仰せつかり、頭を痛めている。

芳子は、上海において特務機関の田中隆吉の下で、スパイとしてかなりの功績をあげた。

だが軍は、最近では彼女を持て余している。

軍で使うだけ使っておいて、多少悪いことがあるといって始末するのでは、道義に外れるから、私には彼女を殺れんのです。」

これを聞いた笹川良一は、「むごい話だ。よろしい芳子に会って善処してみる」と言い、北京の芳子の住居に行った。

話を聞いた芳子は、涙ながらに「身柄を任せる」と良一に言った。

そこで良一は、その日のうちに芳子を、大連のかつて川島浪速が住んでいた家に引き込ませた。

その後、芳子は良一を慕って付いてきた。

良一は、芳子の知名度を活かして大衆党の応援演説を依頼したが、芳子は約束を破ったり演説の途中で演壇から降りたりして辟易させられたという。

芳子の兄・憲立は言う。

「太平洋戦争が始まると、東條首相から芳子は好感を持たれなかったようです。

支那から日本に送り返された時期は、おそらく東條の指示だったと思います。」

この事について、東條英機の夫人であるカツに問い合わせたところ、「川島芳子と私どもはお付き合いしたこともなく、迷惑に感じております」との返事だった。

芳子が日本に送り返された経緯について、彼女自身は後に漢奸裁判の法廷で「1942年に憲兵を殴った罰により日本に送還された」と述べている。

芳子の秘書だった小方八郎は語る。

「日本では山王ホテルの一室に籠って、毎日何をするでもなく過ごしてました。

芳子は浅草でサルを見つけて飼い始め、福ちゃん、もんちゃん、デコ、チビと4匹にもなりました。」

芳子は後に、獄中から小方八郎に宛てた書簡で、この猿を懐かしんでいる。

「もんちゃんが山王の2階で、窓から電車通りを首をかしげて、あの可愛さは思い出すと胸が痛くなる。

福ちゃんの死んだ頭を思い出して、涙が出て来る。

あんなに殴るんじゃなかったと、悔やまれるネ。」

この頃、芳子の養父・川島浪速が管理してきた大連市の小盗児市場は、売却された。

浪速は市場の賃貸料をとって、それで自らと旧清朝の子供たちの生活費にしていた。

売却の実務を担当したのは、笹川良一だった。

売却の理由は、市場を担保にして浪速が東拓(東洋拓殖)から多額の借金をし、その回収に東拓が不安を示したのが真相らしい。

東拓に勤務していた大河内一雄が『遥かなり大陸』で述べているのを要約すると、こうである。

川島浪速の借入総額は300万円だったが、延滞利息が膨らみ元金と合わせて800万円に達したため、拓務省や大蔵省から整理を申し渡された東拓本社が、大連支社に次の指示をした。

「本件の名義人は川島浪速だが、その使途をみれば溥儀および清朝の一族に対する貸付金ともいえる。

川島に弁済能力がないので、満州国に交渉して弁済するよう奔走してほしい。」

結局、満州国皇帝付きの吉岡安直・少将に交渉して、500万円を支払わせた。

小盗児市場の売却の草案は、1941年6月17日付でまとめられ、大連の特務機関部において特務機関長らが審議した末、200万円で売却した場合の分配内訳が決まった。

この分配の明細書には、肅親王家の当主である憲章の代理人として若月太郎、川島浪速の代理人として笹川良一、肅親王家の子女を代表して第8王子の憲真が名を連ねている。

写しは、関東軍参謀長・吉本貞一と関東局総長・三浦直彦にも送られた。

笹川良一は憲真に対し、「浪速は老齢のため市場を整理して肅親王家から手を引く。承知してくれ」との文書を送っている。

その後に市場は、張本政らの出資で楽天公司と改称された。

芳子の秘書だった小方八郎は語る。

「芳子と私は、ときどき山王ホテルを抜け出して北京に戻りました。

何度目かの船旅の時、中野正剛の自刃を知りました。
芳子は引き返そうかと言いましたが、結局そのまま北京に向かいました。」

中野正剛の自刃は、1943年10月26日である。

正剛と芳子は、おそらく川島浪速を通じての知り合いだろう。

たとえ芳子が引き返して葬儀に列席したとしても、日本ではもはや彼女に声をかける人すらいなかったのではないか。

1945年に入って間もなく、浪速のかつての秘書、村井修が病死した。

同年7月29日には、川島フク(浪速の妻)も死去した。

(2020年9月10日に作成)


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