(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)
木原喜一は、日本の敗戦後に、共同通信の外電部長をした人だ。
彼は1913年に新潟県で生まれ、19歳の時にアマチュア無線の技術で一旗あげようと、満洲に渡った。
和登洋行という新京(満洲国の首都、長春)の商社に就職した木原喜一は、当時をこう語る。
「1932年11月に、国通(満洲国通信社)の升井芳平・連絡部長が、和登洋行にやってきて、アンテナ工事を頼まれた。
私が(国通のあった)太子堂に行くと、そこで国通のトップの里見甫と知り合いました。
里見は250ワットの携帯用無線機を10台も注文したが、こちらの言い値で買ってくれた。大儲けでした。」
木原喜一はその後、無線技術の腕を見込まれて、土肥原賢二が率いる奉天の特務機関で働くことになった。
再び喜一の証言である。
「1933年5月に、和服姿の紳士が、和登洋行の店先にやってきた。
私が店の奥で無線機を使って奉天と交信していると、その紳士は『どこまで交信できますか』と尋ねてきた。
私が『波長を変えれば、大連や東京とも交信できますよ』と言うと、急に真面目な顔になり、『後日に連絡しますから私の所に来て下さい。私は土肥原といいます』と言って、帰っていった。
数日後に、関東軍司令部・参謀本部に出頭せよ、との命令書が届いた。
そこへ出向くと、薄暗い地下室に案内され、軍服姿の土肥原がいた。
土肥原は大きな地図を広げて、ソ連と満洲国の国境の状況を説明し始めた。
その説明が終わると、彼は『君の無線技術を国のために役立ててくれないか。その間は、君の命は俺に預けてもらいたい』と言う。
見ると右手にピストルが握られ、銃口は私にぴたりと向けられていた。」
こうして脅された木原喜一は、和登洋行を辞めて、1933年9月に新京郊外の南嶺にある秘密の軍事学校に、第1期生として強制的に入学させられた。
教官は全員、東京にある陸軍中野学校から派遣されてきた。
その学校は、機密保持のため名前がなかった。
喜一は勝手に「満洲中野学校」と呼んでいる。
木原喜一は、この軍事学校についても詳しく話した。
「同期生は私を含めて10人で、訓練期間は1年でした。
訓練は、テレビや映画が伝える北朝鮮の工作員養成所よりも酷かった。
虎や狼、毒蛇やサソリに遭遇した時の訓練用に、校内に本物の虎や狼やサソリを飼ってました。
小型の火炎放射器を持たされ、それで撃退するんです。
1ヵ月に1回は、絶食の訓練もあった。
3日間は一滴の水も口にできない、地獄の訓練でした。
指輪に仕込んだ超小型カメラで、機密文書を撮影する訓練もあった。
一番辛かったのは、若い女性の誘惑に耐える訓練です。
ソ連は、スパイとして青い瞳の若い女性を、満洲との国境に送り込んでいた。
それへの抵抗力を付けるために、ふるいつきたくなるような絶世の美女たちが、あの手この手で誘惑するのに耐える訓練があったのです。
若い盛りの我々には、非常に酷なものでした。」
木原喜一が一番驚いたのは、学校を卒業し、土肥原賢二・特務機関長から卒業祝いで呼ばれた時だった。
土肥原は卒業生を一室に集めると、「君たちに卒業祝いをやろう」と言って、テーブルの上に置かれた丸い箱の蓋を開けた。
喜一は言う。
「箱の中にあったのは、まだ血の滴っているロシア人男性の生首でした。
土肥原は、驚きのあまり口もきけない我々にこう命じたんです。
『これは敵のスパイの首である。君たちはこうならないよう努力してほしい。
もし敵に見つかり逃げられなくなったら、渡してある手持ちの爆弾でただちに自爆せよ。』」
スパイの訓練を終えた木原喜一は、国境地帯の移動用に当時の最速のハーレー・ダビッドソンを与えられ、行動しやすくするため国境警備隊長(大尉)より一階級上の少佐となって赴任した。
2ワットの小型無線機をハーレーのサイドカーに積んで、黒河からシベリアに潜入した後、満洲里、ノモンハン、モンゴル、アバダン、ウルムチと移動した。
喜一によると、奉天特務機関と白系ロシア人の社会をつなぐ役は、小日向白朗がしていた。
小日向白朗は、尚旭東という中国名を名乗り、土肥原賢二の配下として、ソ連極東軍の情報を集めていた。
1938年5月に、木原喜一は特務機関員の任務を終えて、5年ぶりに新京に戻った。
そして国通に升井芳平の力添えで入社した。
国通で主幹(実質は社長)をしていた里見甫は、すでに退社していた。
国通時代の喜一は、「すべての情報が満洲全土から10分以内に同盟通信に届くよう、通信網を整備せよ」 との関東軍・報道部からの命令を受けて、その敷設のためにチャムス、ハイラルなどの辺境を歩いた。
木原喜一は、1941年に東京の同盟通信へ出向命令をうけ、戦後は後身の共同通信に勤めた。
(2024年1月6、9日に作成)
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