タイトル里見甫の若い頃
東亜同文書院、記者時代

(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)

里見甫は、1896年1月22日に生まれた。

戸籍にはなぜか出生地の記載がない。

里見甫の息子の湯村啓助は、「父は北九州の小倉の生まれだと聞いている」と言う。

だが里見甫は、戦後にA級戦犯として逮捕されたが、GHQの尋問に対し「出生地は秋田県の能代だ」と答えている。

私の手元に、『里見甫氏・談話おぼえ書き』と表紙に書かれた大学ノートのコピーがある。

これは、元東洋大学教授の中下正治が、晩年の甫から聞き取った談話のメモで、約150ページに渡っている。

最初のページの欄外に「昭和40・1・21」とあり、聞き取りが甫が亡くなる2ヵ月前に始まったと分かる。

中下家には、上の談話メモの他にも、晩年の里見甫から送られた自筆のメモもある。

これは便箋12枚に、自伝が綴られたものだ。

談話メモも、甫の自筆メモも、甫が中学生時代からジャーナリスト時代までにほぼ限定されている。

『里見甫氏・談話おぼえ書き』の1ページ目は、里見甫が通っていた福岡の修猷館中学を、辛亥革命を成功させた孫文が1913年2月に訪問したところから始まる。

「孫文さんの前で柔道をとって御覧に入れる。これより小生の中国関係はじまれり」と述べている。

1913年3月に同中学を卒業した里見甫は、上海の東亜同文書院に進学した。

東亜同文書院は、1901年に近衛文麿の父・篤麿らの働きで開校した学校で、各府県から派遣する特待生のみが入学できた。

特待生に選ばれれば、官費で入学できた。

だが里見甫が進学する頃には、若干の私費留学生も受け入れていた。

『談話おぼえ書き』によると、里見家は貧しく、特待生になると官費で上海に留学でき、10日ごとに中国銀で1円の小遣いも支給される好条件なので、そこに進学を決めたという。

県か市の推薦が必要なので、玄洋社の2代目社長で、孫文を修猷館中学に案内した進藤喜平太に頼みこみ、福岡市からの留学生にしてもらった。

『里見甫の遺児への寄付金お願いの会』の芳名帳には、右翼の大物だった頭山満の血を引く頭山泉や頭山統一の名もある。

また、進藤喜平太の息子で、福岡市長にもなった進藤一馬の名もある。

つまり里見甫は、これらの人と死ぬ時まで関係があったのである。

なお、頭山満の孫の頭山統一は、1990年に満の墓前で短銃自殺した。

その叔父の頭山泉は、1996年に自宅の火事で92歳で焼死した。

1913年の秋に、里見甫は長崎から船で上海に渡った。

上海は、アヘン戦争で清国に勝ったイギリスが、南京条約を強要して香港を割譲させ、上海など5つの港を開港させた時に誕生した。

つまり外国の圧力で生まれた、新しい港町である。

それまでの上海は、ありふれた一漁村にすぎなかった。

(※余談だが、日本の横浜なども、外国の圧力で開港した所である)

上海は、イギリスが租界を黄浦江のほとりに設置し、列強国やイギリスのサッスーン商会などが進出してきた事で、国際都市となった。

日本人も数多く進出して居住し、共同租界の虹口地区に日本人街も造られた。

実は上海は、中国共産党の発祥地でもある。

後には、リヒャルト・ゾルゲなどの国際的なスパイが暗躍する場所にもなった。

里見甫が入学した東亜同文書院は、日本の陸軍士官学校や海軍兵学校と並ぶほどのエリート校だった。

東亜同文書院で有名なのは、徹底した中国語の教育である。

中国語で最も難しいのは、日本語のイントネーションにはない「四音」という発音である。

そこで新入生たちは、先輩とマンツーマンのペアを組まされ、四音発音の特訓でしごかれた。

なおこの学校は、日本の1945年の敗戦と共に消滅した。

東亜同文書院は、よく「スパイ養成の学校」と言われた。

これは卒業に際して、中国奥地での調査旅行が課されたことからきた誤解である。

里見甫も卒業の前に、1915年の夏から4ヵ月間、調査旅行に3人の同期生と共に行っている。

東亜同文書院の卒業生の進路は、およそ3つで、外交官、商社マン、ジャーナリストだった。

在学中にビリから2番目の成績で、授業の欠席が一番多かった里見甫は、エリート・コースには進めず、1916年に卒業すると青島の新利洋行という貿易商社に就職した。

『里見甫氏・談話おぼえ書き』には、こうある。

「(貿易商社に就職したところ)第一次世界大戦の好景気で、買えば上がり、買えば上がりで、カラ売りをしては儲ける次第。

ついては女遊びも大いにやって、芸者を落籍した。」

里見甫よりも8期下の東亜同文書院の後輩で、甫がのちに代表となった満洲国通信社で通信部長をした佐々木健児。

彼は『佐々木健児』という本を出しており、そこには当時の里見甫が書かれているので紹介する。

「何しろ当時は(戦争景気で)、売っても儲かり、買っても儲かる時代だった。

里見は芸者を身請けすること十数名というのだから、ずいぶん激しい遊びをしたらしい。

ある日、まだ16~17歳の売られてきたばかりの芸妓が、初座敷に出た。

里見が『お前はまだ小さいのにこんな所にいてはいけない。引かしてやるから国へ帰れ』と言うと、その芸妓は『国へ帰ったらまた売られる』と言う。

それで里見は手許に置くことにした。

それがいつの間にか細君になったらしい。」

里見甫の最初の妻となったこの女は、『談話おぼえ書き』には「青島から連れてきた女」「一緒にいたいというので連れて帰った」とある。

里見甫の戸籍を見ると、1933年9月に大分県出身の相馬ウメ(後に由美と改名)と結婚している。

ウメは結婚の約15年前に、青島で甫と知り合ったと推測できる。

なおウメは1904年生まれなので、当時は14~15歳だったろう。

里見甫が勤めた青島の新利洋行は、第一次大戦が終わると大不況に巻き込まれて、倒産した。

前掲の『佐々木健児』には、こうある。

「成金時代から一転し、大恐慌時代に変わった。

里見の会社も倒産し、彼は細君と二人で日本へ引き揚げた。

東京に行ったが、そっちも大不況で失業者ばかり。

そこで彼は、九段坂下で立ちん棒をやり、荷車の後押しをやって暮らした。(これは重い荷物を運んで坂を上る人を手伝って、駄賃をもらう仕事である)」

『東亜同文書院・大学史』にも、大不況下の里見甫が描いてある。

「東京で友人とおでん屋を始めたが失敗し、細君を郷里に帰して四谷のソバ屋の出前持ちになった。」

里見甫はその後、東京で1、2を争う貧民窟といわれた下谷万年町で、一畳間の掘っ立て小屋を借り、日雇い労働者となった。

1921年に里見甫は、郷里に帰していたウメを呼び、再び中国大陸に渡った。

そして東亜同文書院で3期後輩の中山優(当時は朝日新聞・北京支局にいた)の下宿に転がり込んだ。

『里見甫氏・談話おぼえ書き』には、「嫁がその父と一緒に北京に来ることになった」とあるので、ウメの父親も来たらしい。

甫は、中山優らのはからいで、天津の邦字新聞「京津日日新聞」の記者となった。

『談話おぼえ書き』は、京津日日新聞の記者時代を、こう回想している。

「記事が足りないと、あちこちの新聞を切り抜いて記事を作った。

要領よく記事が出来ると、酒やマージャンをして遊んだ。

私はスポーツ記者も買ってでて、野球やテニスの記事も書いたが、当時は(スポーツは)ハイカラなものだった。」

里見甫が京津日日新聞に入った頃、中国では軍閥の抗争が盛んだった。

『里見甫氏・談話おぼえ書き』は、奉天派の張作霖と直隷派の呉佩孚がした戦争『第一次・奉直戦争』に触れている。

「1922年4月27日に第一次・奉直戦争が始まったが、張作霖が奉天からやって来て軍糧城に総司令部を置いたから、(編集長の)上田我郎と共に訪問した。

当時は、贅沢な自動車に乗って日の丸の旗を立てて行くと、治外法権の時代だから入って行けたのだ。

司令部で名刺を渡すと、中年すぎの張作霖が通訳を連れて現れた。

彼は柔和な人で、自軍の戦況が良かったので手振り足振りで話をする。

話の途中で、通訳が本庄繁さんであると分かり、一安心してゆっくり坐り込んで話した。

翌日の新聞にこの会見記をのせた。」

張作霖の軍事顧問だった本庄繁・陸軍中佐は、その後に出世していき関東軍の司令官になった。

里見甫が中国で人脈を広げられたのは、中国語が堪能だったのと、度胸が良かったからだ。

当時の日本軍人の間では、度胸の良さがもてはやされていた。

1923年5月に里見甫は、『臨城事件』の取材に出かけた。

臨城事件とは、津浦線の列車を約千名の匪賊が襲い、外国人と中国人の二百数十名が拉致された事件である。

人質の中にロックフェラー財閥の者がいたので、大騒ぎとなった。

甫は日本人記者で一番乗りをして取材した。

『里見甫氏・談話おぼえ書き』に、こうある。

「ちょうどその頃、新聞記者が嫌になっていた。

天津に汽車で帰る途中、デップリした日本人の紳士が食堂車で声をかけてきた。

その男は能島進といって、広告専門の大阪電通の社長だった。

いろいろ喋っている中に、彼は『電通に来んか』と言う。これはいいなと思った。」

だがほどなく京津日日新聞の北京版「北京新聞」が創刊されることになり、甫はそこの主筆となったので、電通入りは実現しなかった。

北京新聞での里見甫は、一人で数百行を毎日書く一方で、外務省系の「順天時報」にも寄稿して、日本人がほとんど知らない国民党軍の内情を伝えた。

呉佩孚の東三省への攻撃に、甫は記者として従軍し、1928年6月に北伐に成功して北京に入城した蒋介石にも会見した。

当時の写真を見ると、里見甫はすべてで支那服を着ている。

中国人の服を来て、流暢な中国語で取材する日本人記者は、他にはいなかった。

そんな彼の人脈を日本陸軍が重用していたことは、『里見甫氏・談話おぼえ書き』の記述からも分かる。

「1928年には、済南事件があった。

その後に日本軍は、北伐を行う国民党軍を止めようとし、北京で済南事件の二の舞の恐れが出た。

しかし日本陸軍と国民革命軍(国民党軍)の連絡方法がなかった。

それで日本軍は、私に調停を依頼してきた。
最も熱心だったのは、北京駐在武官の建川美次(少将)、補佐官の原田熊吉(少佐)、参謀本部付の田中隆吉(大尉)だった。

2ヵ月の秘密工作を続けて、国民党側との協定文書の調印をとりつけた。

こうして国民革命軍の北京占領は、不祥事なく終わった。
明治維新の江戸城明け渡しの故事にも思い到った。」

その後、里見甫は北京新聞を辞めて、満鉄の南京事務所の嘱託に転職した。

これは、1930年8月に(国民党の)蒋介石が首都を南京に定めて、南京に移ったことに対応する動きだった。

首都が北京から南京に遷都したため、北京在住だった日本人にも大きな影響が出たのだ。

満鉄時代の里見甫は、国民党政府に機関車の売り込みで成功するなど、華々しい業績をあげた。

1931年9月に満洲事変を日本の関東軍が始めると、里見甫は関東軍・第四課の嘱託に転職した。

関東軍・第四課は、新しくつくられる満洲国の対外宣伝と、満洲に住む人々の宣撫工作をする部署である。

(2023年10月31日、2024年1月3日に作成)


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