タイトル国通(満洲国通信社)と里見甫

(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)

国通(満洲国通信社)の名を高めたのは、1933年5月に行われた、英国のロイター通信との提携契約だった。

これは、松本重治の著書『上海時代』に詳しく出ている。

「1933年5月下旬に、万里の長城より南でも(日中の)停戦の可能性が増大すると、私は満洲と平津地区(北平と天津)に旅行して、現地の情勢を見たいと考えた。

ちょうどその時、国通の主幹をしている里見甫から、近くロイターと通信契約したいから、チャンセラーとの交渉斡旋のため新京(満洲国の首都)に来てくれないか、との依頼があった。

その直後にチャンセラーからも話があり、上海から向かった。」

その後、松本重治、里見甫、クリストファー・チャンセラーは会談し、国通とロイターの契約は基本合意がなされた。

正式の調印は新京のヤマトホテルで、満洲国の総務庁次長である阪谷希一の立ち合いのもとで行われた。

阪谷希一は、渋沢栄一の娘婿で大蔵大臣や東京市長をした阪谷芳郎の長男である。

再び松本重治の『上海時代』から引用する。

「私は吉林省に、里見甫と日帰り旅行した。

新京への帰りの列車中に、断髪で洋装の黒い長靴をはく麗人が入ってきた。

里見が『あの人が有名な川島芳子だよ。清朝の粛親王の子で、川島浪速の養女となり日本で教育を受けた人だ』と話してくれた。

彼女は里見をよく知っているらしく、二人で冗談をまじえた会話をしていた。」

川島芳子は、上海で知り合った日本陸軍の田中隆吉の指揮下で、女スパイとして活動した人である。

国通のOBである坂下健一は、こう語る。

「(国通の主幹の)里見甫は、編集には一切口を出さない人だった。

彼は毎晩、ダンスホールに行っていた。

その都度、割引チケットを私たち記者にくれた。

里見は気さくで明るいので、各方面にウケがよく、『満洲国・総務長官』のニックネームで呼ばれていた。

『オレは支那が好きでたまらない。オレは支那で死ぬ』が、彼の口癖だった。」

1936年9月に、国通は関東軍によって改組され、満洲弘報協会の中の通信部として吸収された。

特殊法人に衣替えされて、理事には満洲弘報協会を支配する甘粕正彦が加わった。

満洲弘報協会の理事を務め、国通の代表もした森田久は、こう語っている。(別冊新聞研究No.6から)

「甘粕正彦は当時、『夜の関東軍司令官』と言われていた。

彼がアヘンの組織を握っていたからだ。

甘粕の許には、あぶく銭がどんどん入る。
だからウイスキーなどを買い込んで、関東軍の将校の所にボンボン投げ込んでいた。

それで彼は陰然たる大勢力を持っていた。」

国通の改組の2年前(1934年)に、里見甫は国通を去った。

里見は国通を辞めると、関東軍の指示で、天津の中国語の新聞「庸報」の社長となった。

「庸報」は、華北で一番の発行部数を誇り、反日色の強い内容で、日本軍部は苦々しく思っていた。

そこで里見が社長として送り込まれ、中国人の経営者は追放され、反日色が一掃された。

1931年9月から1936年9月までの里見甫は、関東軍・第四課の嘱託として働いた時期だが、この5年間は37年から本格的に始めたアヘン取引の、いわば準備過程だった。

里見甫はこの時期に、まだ内藤維一という変名を使っていた甘粕正彦と、関東軍の工作活動を通じて親しくなった。

余談だが、里見甫と甘粕正彦が接触の場にしていた新京の関東軍司令部は、現在では中国共産党・吉林省委員会の建物となっている。

日本軍人らがよく使った大連のヤマトホテルと、新京のヤマトホテルは、今もホテルとして使われている。

東洋一といわれた満鉄病院は、大連医院の本院として使われている。

満鉄の本社は、大連・自然博物館となっている。

これらの建物はいずれも、「偽満洲国」時代に建てられたものと表示が掲げられている。

これが中国人のセンスである。

(2024年1月9~10日に作成)


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