(『阿片王 満州の夜と霧』佐野眞一著から抜粋)
里見甫は、日本軍(関東軍)が1931年に満州事変を起こすと、関東軍・第四課にスカウトされて、嘱託として働くことになった。
関東軍の第四課は、外国向けの宣伝工作や、満洲に住む人々の宣撫工作を行う部署だった。
里見甫のこの時期の最大の工作は、国通(満洲国通信社)の設立だった。
ことの発端は、新聞聯合の岩永裕吉・専務理事が関東軍に出した、「満蒙通信社論」だった。
その要旨は、満洲にナショナル・エージェンシーを設立すべしだ。
これが間もなく「一国一通信社論」となり、「電通と聯合の合併」へと発展していった。
里見甫は、1942年に出版された『國通十年史』で、こう述べている。
「一国一通信社の観念は、当時の情勢から日本の国策になった。
英国のロイター、仏国のアバス、ドイツのトランスオーション、イタリアのステファニー、ロシアのタスがあり、米国のみAPとUPの2つの通信社だった。
日本は聯合通信社と電報通信社(電通)の2つがあり、時によると2つのルートで左右のニュースが出る。
対外的にも対内的にも日本の意志を凝結する必要を感じた。
さらに聯合は半官の会社で、電通は民間会社である。
一国一通信社の構想は、小磯国昭・陸軍次官のころに1度議論されたが、政治問題とはならず進まなかった。
そこで起こったのが、まず満洲だけを先に統一するという議論だ。
これは聯合の岩永裕吉が提議し、(日本陸軍の)板垣征四郎の裁断で決したと記憶する。」
関東軍・第四課において、里見甫は満洲での聯合と電通の合併を任された。
最大の難関は、電通の説得だった。
里見甫は『國通十年史』で、次のように述べている。
「第四課における私の仕事は、軍の命令を受けて行うもので、通信社の統一も関東軍の案が出来ればそれで一段落すると呑気に考えていた。
しかし関東軍の案を実行するとなると、聯合と電通の同意が骨子を成す。
満洲だけでの統一と言いながらも、電通が承知するか疑問だった。
私は関東軍の命令で、(1932年の夏に)日本へ向かった。
そして大阪電通の社長である能島進に面会を求めた。」
能島進から脈ありの感触を得た里見甫は、東京に行って鈴木貞一・陸軍省・軍務局課長に会って根回しした。
その上で岩永裕吉や古野伊之助ら聯合の首脳と協議して、電通社長の光永星郎にも面会した。
里見甫はこの時36歳だった。
『電通通信史』には、次の記述がある。
「1932年9月に里見甫は上京し、聯合および電通との通信契約を結び、『満蒙通信社』の設立の基礎を固めた。
(※満蒙通信社はその後に、満洲国通信社と改称した)
設立の基礎は、聯合と電通の両社が満洲における通信の発行・配付を中止すること、日本陸軍が満洲における短波無線の使用を満蒙通信社に許可したことであった。」
『電通通信史』には、電通と満蒙通信社が結んだ、仮契約書の全文も掲載されている。
「第1条
電通は、満洲国における通信の発行および販売を、満蒙通信社が通信統制をする期間は中止する。
第2条
電通は、得た海外および日本国内の新聞材料を、本社よりの電報で機敏かつ正確に満蒙通信社に供給する。
ただし電報料金は満蒙通信社の負担とする。
第3条
満蒙通信社は、電通より供給された材料を、満洲国において電通の特電として発行・販売できる。
第4条
満蒙通信社が電通に支払う通信手数料は、1ヵ月に4千円とする。
(以下は略)
1932年10月19日 満蒙通信社代表 里見甫 電通代表 光永星郎」
国通(満蒙通信社)は、関東軍の司令部が奉天から満洲国の首都・新京に移駐して1ヵ月後の1932年12月1日に、新京でスタートした。
佐々木健児の遺稿集に、国通の創設の話がある。
国通ができる前、健児は新聞聯合・奉天支局長をしていて、関東軍第四課・課長の松井太久郎と共に、満洲における電通と聯合の合併を裏面で進めた。
「私は、関東軍・第四課にいる里見甫を、国通のトップに推薦した。
『里見で大丈夫か』と松井課長が言うので、『実務は私が面倒をみるから心配ない』と請け合った。
松井は承知して、本庄繁・関東軍司令官に報告に行った。
松井によると、本庄は『里見はカネにだらしない』とメモで示したが、松井は『昔はそうだったかもしれないが、自分の所へ来てからはそういう事はありません』と答えた。
すると本庄は『君が保証するか』と言って、あっさり済んでしまった。」
こうして里見甫は国通のトップに決まったが、社長という肩書きは40歳前の彼には仰々しいとして、主幹という形で収まった。
主幹・里見甫、総務部長・大矢信彦、通信部長・佐々木健児という、東亜同文書院の卒業生トリオで、国通はスタートした。
初めは社員は100名足らずだったが、最盛期には支局が満洲全土に張り巡らされ、社員も1500名以上になった。
日本政府は、国通が誕生すると、それを援軍にして、日本国内の通信統制に乗り出した。
反骨の言論人の菊竹淳らは、「国内の通信社を1つにすることは、新聞の自由を失わせ、国民を盲人にする言論抑圧だ」と訴えた。
しかし二・二六事件の起きる1ヵ月前の1936年1月に、聯合と電通の統合会社として、『同盟通信』が発足した。
電通の社史『電通66年』は、この件について、苦渋に満ちた記述をしている。
「満洲での国策遂行という大義名分の下で、国通が設立され、電通と聯合の満洲にいる人員はほとんどがこれに移った。
国通の出現を契機に、日本政府は国内の通信統制に乗り出した。
国策のための非常手段であったが、これで同盟通信すなわち聯合は生気を取り戻し、電通は死命を制せられた。」
その後、電通と同盟通信のあいだで、「電通は通信事業を同盟通信に譲渡し、同盟通信の広告部門を電通が譲渡される」という契約が成立した。
日本が第二次大戦で負けると、同盟通信は「共同通信」と「時事通信」に分割された。
一方、広告専門になっていた電通には、里見甫の息がかかった元国通の社員が大挙して入社した。
見逃してはならないのは、共同通信や電通には、満洲国の地下茎が伸びていることだ。
さらにその地下茎は、岸信介、難波経一、古海忠之、楠本実隆、塩沢清宣、岡田酉次、岡田芳政ら、満洲国で阿片ビジネスをした者たちにも繋がっている。
(2024年1月3、6日に作成)