タイトル第一次・満蒙独立運動

(『馬賊で見る満洲』澁谷由里著から抜粋)

第一次・満蒙独立運動については、波多野勝の『満蒙独立運動』や『日本外交史辞典』、上坂冬子の『男装の麗人・川島芳子伝』に主に依拠して書くことにする。

第一次・満蒙独立運動という策謀は、辛亥革命で動揺する中国に軍事介入して、満洲と内蒙古を中国から独立させようとするものだった。

当時の日本政府は、西園寺公望・内閣だったが、この内閣は中国に介入せず中立的な立場を採った。

これに対し、中国の混乱をチャンスと見た日本陸軍の一部や、大陸浪人たちは、大きな不満を持った。

川島浪速は、長く中国大陸で活動した大陸浪人の大物で、川島芳子の義父である。

浪速は清朝の皇族と親しく、袁世凱が清朝の皇帝を退位させて革命派と和議しようとした時、袁世凱の暗殺を謀り失敗した。

浪速は、清朝再興の運動に日本の大陸浪人が参加するよう呼びかけ、日本陸軍や元馬賊の張作霖とも接触を図った。

1912年2月に、清朝の皇族だった粛親王の一家は、川島浪速と高山公通・陸軍大佐の手引きで、北京を脱出した。
そして日本の租借地である旅順に入った。

しかし落合謙太郎・奉天総領事から、この事を報告された日本政府は、粛親王の一家の生活保障と宗社党(清朝再興を目指す政治結社)の温存を条件にしつつ、支援を中止した。

そして川島浪速には日本への帰国命令が出た。

日本陸軍の中には、高山公通の他にも多賀宗之・少佐という満蒙独立の支援者がいた。

多賀宗之は、1912年3月にモンゴルの王公であるカラチン王とパリン王が北京を脱出する際に、陸軍参謀本部から3万円、外務省から8万円の秘密借款を成立させた。

川島浪速は満蒙独立運動を続けて、12年5月に同志の薄益三が馬賊の左憲章と協力して、「満蒙独立義勇軍」を立ち上げた。

だが苛烈な行軍や資金の欠乏などで士気が衰え、6月上旬に中国兵と戦った時に多数の死傷者が出た。(鄭家屯事件)

この事件が日中の外交問題になるのを避けて、第一次・満蒙独立運動はここで頓挫した。

(※正直なところ、上の文章だと分かりづらいと思います。川島浪速について詳述したこのページを見ると、理解しやすくなると思います。)

(2021年6月1日に作成)


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