タイトル川島芳子の生涯②
実父・善耆(肅親王)と養父・川島浪速

(『男装の麗人・川島芳子伝』上坂冬子著から抜粋)

川島芳子の実父である、善耆(肅親王)とはどんな人物だったのか。

彼は1866年(慶応2年)の旧暦8月27日の生まれで、肅親王家は清王朝の8大世襲家の筆頭と言われた。

善耆は、第10代の肅親王で、正妃のほかに4人の側妃をもち、21人の王子と17人の王女をもうけた。

川島芳子は、第4側妃の娘で、第14王女である。

石川半山が著し1916年7月に発行された『肅親王』を参照しつつ、善耆の経歴と人柄を書く。

善耆は、32歳(1898年)の時に、父が死去して王位(肅親王)を継承した。(※帝位ではない)

彼は崇文門税務衙門の監督に任命されたが、これは北京城に入荷する物品から税を徴収する役である。

この役職は、賄賂をとって財をつくる職だったが、善耆は賄賂を一掃して、その名が広く知れ渡った。

36歳の時に善耆は、工巡局・管理事務大臣になったが、これは土木と警察を管理する役だ。

このころ北城警務処を設立し、警務学堂をおこして巡捕(警官)の養成をしていたのが、川島浪速である。

40歳の時には理藩院・管理事務大臣になったが、これは外藩ともいうべき蒙古の王侯と折衝する役である。

従来の清朝は蒙古の自主性を重んじていたが、ロシアの力が蒙古に伸び、イギリスがチベットに侵入し始めたため、管理の強化が検討され、それを善耆が任されたのである。

蒙古のカラチン王に善耆の妹が嫁いでおり、善耆は就任早々2ヵ月にわたって蒙古を視察した。

視察から戻ると、善耆は蒙古に鉄道を通すなどの経済改革案を提出した。

だが「西太后および皇帝は、それを実行する誠意がなかった」と石川半山は書いている。

善耆は41歳で民政部尚書、すなわち内務大臣になった。

するとアメリカ側が2億7500万人と発表し、清国が4億9百万人と発表していた人口を正確に掴むべく、国勢調査を行った。

さらに「今後10年でアヘンの製造と喫煙を全面的に禁止する」と予告して戒煙局を設け、新聞の発行も広めた。

王族の子息の錬成のために華冑学堂を開設したのも善耆で、その監督には川島浪速が就任した。

善耆の息子の憲立は、こう述べる。

「肅親王府は、4千坪の敷地に数百の部屋をもつ建物がありました。

北京で一番早く二階建てを造ったのは父で、当時から自家発電と自家水道がありました。

別棟の洋館にはパイプオルガンとシャンデリアもありました。

父は、日本の明治維新に強い関心を抱いていたようです。」

善耆の人となりを伝えるエピソードの1つに、汪兆銘(のちに汪精衛を名乗る)の助命がある。

清朝王族を爆殺しようとした事件で、首謀者として汪兆銘が捕まった。

兆銘がなぜ暗殺しようとしたかを文章にしたところ、民政部尚書の善耆が読んで「かかる有為の人物は、殺すよりも志を改めさせて清朝に尽くさせるべき」と考え、死刑を中止させた。

また、革命党の黄興が一時期は日本に亡命していたが、善耆は川島浪速を通じて日本政府に保護を依頼した。

清朝にとって反対派の黄興を保護した事について、石川半山は「清王朝の人々が信頼を寄せる袁世凱に対して、善耆はその人品を見抜き、むしろ革命党の逸材に注目し、革命党を味方にしようとした」という。

それでは、川島芳子の養父である、川島浪速はどんな人物だったのか。

『川島浪速翁』という伝記が、1936年に発行されている。
第1章は養女の廉子が浪速の言葉を口述筆記しているが、この本などを参考に書いていく。

浪速は、1865年(慶応元年)の12月7日に、松本藩士の長男として生まれた。

彼は副島種臣や榎本武揚らの興亜会に傾倒して、「アジアの大勢が白人に圧迫されている実情を挽回するため、まず支那(清国)の滅亡を防がねばならぬ」との見地から、1882年(明治15年)に外国語学校・支那語科に入学し官費生となった。

ところが1885年に外国語学校は商業学校に改編する方針となり、浪速は退学した。

そして1886年9月に、川島浪速は上海に渡った。

同じ松本出身の福島安正・大尉が、知人に紹介状を書いてくれたという。

上海では、支那中部の海防調査に来ていた海軍大尉・新納新介の知遇を得て、一緒に砲台などの調査で各地を回ることになった。

髪は弁髪とし、衣服は苦力の姿を装ったという。(つまりスパイ旅行である)

この旅がきっかけで、玄洋社の面々や荒尾精と親交を深めた。

やがて浪速は満州に注目し、「満州に行って馬賊を従え、蒙古の東部も併せた一国を創ろう」と夢を描いた。

そして1889年、24歳で満州に向かった。

1894年に日清戦争が起きると、中国語に熟達した者は陸軍の通訳に採用され、川島浪速も95年1月に第3旅団付きの通訳となった。

その年の秋には、乃木希典の率いる第2旅団に移籍して台湾征伐に同行した。

浪速は台湾征伐の際、阿片令施行・巡察官の監督官をしたという。

さて、善耆と川島浪速の出会いだが、義和団の乱の時である。

山東省には義和団という宗教団体があり、これに絡んで義和団の乱、すなわち「北清事変」が起きた。

北京では民衆が「扶清滅洋」(清国を助けて入植をすすめる外国を倒す)を掲げて、諸外国の居留地や公使館を攻撃した。

日本の駐留部隊は肅親王府のある東交民巷にたて籠もったが、応戦空しく王府の宮殿は炎上した。

やがて清朝の西太后と光緒帝は、宣化へ落ち延びた。
肅親王の善耆もこれに随行している。

日本政府は、日本から山口素臣・中将を長とする第5師団を送り込むことにし、先遣隊として福島安正・少将が出発した。

安正は、川島浪速を通訳に指名した。

やがて連合国軍の手で北京は鎮圧され、紫禁城の一部は日本軍が占領した。

この時、浪速は単身で紫禁城の宮禁兵(宮廷の警察官)を説得し、開門させた。

紫禁城以外の万寿山離宮などは、各国軍の略奪にあって灰燼に帰している。

平穏な方法で紫禁城を占領した浪速に対して、「宮中の人々は川島浪速を慈父の如く尊敬するようになった」と、浪速の伝記は述べている。

善耆は、浪速を表敬訪問して礼をのべた。

乱の鎮圧後、連合国軍は北京に受け持ち区域をもって割拠した。

日本軍は順天府衙門内に軍事警務衙門を設立した。

浪速は、警察官を養成する機関の創設を発案し、山口素臣と福島安正の賛同を得た。

1901年4月に発足した「北京警務学堂」がそれで、浪速は総監督に就任している。

1901年7月に各国軍は撤退することになったが、清朝の慶親王は重臣の李鴻章を従えて山口素臣に会見し、「川島浪速を借用して、日本軍の創設した警察制度の運用を期したい」と希望した。

その条件として、浪速に「客卿二品」を与え、治安の維持を託すとした。

善耆の息子・憲立によれば、客卿二品とは日本の正二位にあたり、日本人でこの地位を与えられたのは浪速のみだという。

まもなく清朝政府に工巡局が設置され、善耆がその大臣に任命されて、この局は警察業務も見るので川島浪速の上司となった。

すると善耆は、浪速が内田康哉・駐清公使(のちに外務大臣)らと親密なのを頼りに、日本への接近を考えた。

一方、浪速も蒙古に親日の思想を植え付けたいと考えていて、善耆の妹が蒙古のカラチン王妃なのに目を付け、1903年3月に大阪の博覧会にカラチン王を迎える事に成功した。

カラチン王は、これを機に「蒙古の教育機関に日本女性を迎えたい」と申し出た。

そこで浪速の同郷の松本藩士の家系から、河原操子が送り込まれる事になった。

浪速は、1902年6月14日に川井田フクと見合いで結婚した。

フクは、小村寿太郎の夫人の姉だという噂がある。

だがフクの旧姓は川井田で、小村町子の旧姓は朝比奈である。

フクは結婚時に21歳だったが、浪速の伝記には「フクは北京の社交界で花形となり、外交手腕は夫を凌ぐと言われた程の天才だった」と讃えている。

黒姫山荘保存会には、当時のフクの写真の数々があるが、なぜか全てが顔の部分が剥がしてあり、表情は分からない。

一説によれば、後年にフクが神経症に悩まされ、自ら写真に手を加えたというが、ことごとく顔の部分を消してあるのは異常である。

さて。前述の河原操子は、蒙古に出かけたのは1903年12月で、女学堂の教師となった。

操子は、学習院・女学部長の下田歌子の推薦で上海の務本女学堂の教師となり、そこから蒙古に転勤となりカラチン王府のユイチャン女学堂の教師となった。

川島浪速の伝記には、「操子は、カラチン王家の教育顧問であるが、実は外交官であり、重要な軍事上のスパイである。これを女性とした所に、当事者の苦心した跡が見える」とある。

これを裏付けるように、本庄繁(陸軍大将)の伝記には1904年2月に、「日露開戦と同時に特別任務班の横川省三や沖禎介が、蒙古人に変装してカラチンの河原操子の所へ寄った。操子は班の中継所として目まぐるしく働いた」とある。

一方、川島浪速は清朝の王子たちのための華冑学校の監督に就いた。

さらに王女のための学校を創設して、下田歌子の門下生で松本出身の木村芳子を送り込んだ。

憲立は、「木村女史は浪速の指示で、肅親王家の動静を探りに来ていたと、私は見ています」と言う。

女性を配置してスパイにするのが浪速の方式であったとすると、後に養女の川島芳子がスパイになったのも無理がない。

1906年の暮れに、善耆は川島浪速の家を訪ねて閑談し、「日本と清が提携するには先ず人と人が提携しなければならんと思う。ひとつ私とあなたは兄弟の義を結ぼうではないか」と提案した。

浪速のほうが年長だったが、「とっさの機転で同年生まれであると述べ、自分が弟にまわって義兄弟の契りを結んだ」と、伝記『川島浪速翁』に書いている。

しかし憲立はこれを真っ向から否定し、「義兄弟の契りの証拠はどこにありますか。中国では王族と義兄弟になるには、それなりの儀式や手続きが必要です」と言う。

真偽はさておき、2人が親密であった事は否定できない。

日露戦争でポーツマス講和条約(1905年9月)が結ばれた後、小村寿太郎・外相は全権大使として清国に赴き、同条約に基づいて日清間の協約を成立させた。

しかし清王朝は、安奉鉄道線の改築を約束しながら、一向に正式承認しなかったため、日本政府は伊集院彦吉を公使に昇格させて袁世凱と折衝させようとした。

ところが西太后と光緒帝が相次いで亡くなり、宣統帝の時代に入ると、袁世凱は排斥されて、彦吉は交渉相手を失った。

川島浪速は問題の解決に乗り出し、安奉線改築の内諾を得た。

そして伊集院彦吉にこれを伝え、強硬な態度で交渉にのぞむよう智恵を授けた。

1909年8月6日に、彦吉は強硬敷設の通告をし、「もし平和解決を望むなら、1週間以内に結着をつけろ」と告げた。

その結果、すべての懸案事項が1週間で解決し、「浪速は論功行賞として勲四等を授けられた」と伝記にはある。

黒姫山荘保存会には、09年9月6日付けの彦吉の直筆書簡があるが、「今次の懸案問題の妥結は、貴下が尽力する安奉鉄道問題で熱心に奔走したことに多きに居る」と感謝している。

1911年4月に清国では、慶親王が総理大臣に就任し、善耆(肅親王)は民政大臣となった。

その4ヵ月後に、孫文や黄興らが武昌で蜂起し、いわゆる辛亥革命が始まった。

この鎮圧のため、清朝は一旦は放逐していた袁世凱を起用した。

ところがその結果、慶親王の内閣は11月1日に総辞職し、世凱が総理大臣に就いたが、世凱は清王朝の乗っ取りに動き出した。

このころ川島浪速は、善耆やカラチン王と論議した。

善耆の周辺には帝室(清王朝)を守るべく宗社党が名乗りをあげたが、これに呼応して浪速は日本側の宗社党をつのった。

浪速はさらに蒙古に急速に接近し、カラチン王は「蒙古は清朝の一部ではない。蒙古は独立すべきである。このさい、日本の支持援助によって独立の実を挙げる」と述べたという。

1912年1月29日に、浪速はカラチン王との間に蒙古独立に関する契約を交わした。

この直前の1月22日に浪速は、電文第53号として日本の陸軍・参謀本部に発信している。

「満蒙の王公は、日本の援助で虎口を脱せんことを渇望している」

カラチン王と蒙古独立に関する契約を交わした翌日の、1月30日の第64号では、浪速は参謀本部にこう報告している。

「カラチン王は数日中に北京を引き揚げる決定をした。

3万発の弾薬は昨日に受領した。

カラチン王と私が結んだ密約および借款証書の写しは、本日に発送する。

借款は、卓索図盟五旗管内の鉱山の全部を抵当とし、金20万円を貸与する約束なり。

(中略)右の外巴林王と管内全部の鉱山採掘権を担保として、1万両を貸す約束も成立した。

とりあえずの前金など、5万円を送付してほしい。」

電文第66号で浪速は、善耆を北京から脱出させることを予告している。

「肅親王は、変名して2月2日に北京を出発することに決定せり」

第67号には「肅親王が事を挙げるまでには約5万円を要する見込みなり」とある。

浪速の伝記には、「善耆の北京脱出に際して、川島浪速は密かに岩崎男(岩崎久弥・男爵)へ一通の電報を飛ばし、多額の資金を容易に調達し得た」とある。

2月2日の第70号では、「2日の午後7時20分に肅親王は無事出発せり」とある。

善耆(肅親王)は、商人の姿に扮して北京を脱出し、日本側からは高山公通・大佐が付き添って船で旅順に到着している。

通説では、この脱出は亡命とされているが、善耆の息子である憲立は真っ向から否定した。

「父は亡命するつもりは全く無かったのです。

当初の目的地は奉天で、張作霖に根回しして復辟に協力させる約束が取りつけてあったのです。

父は奉天で清朝の旗を立てて、作霖と共に袁世凱を討つつもりだった。

ところが山海関で鉄橋が爆破されて前進できず、やむなく日本の軍艦で旅順に運ばれる結果となりました。

鉄橋を爆破したのは革命党(孫文ら)を支持する日本人だと聞いてますから、父の復辟は日本人に妨害された事になります。」

石川半山は著書で、善耆が日本租界の旅順に安らぎの場を求めたと書いているが、憲立によれば旅順に軟禁された事になる。

たしかに浪速の電文67号の「事を挙げる」という表現は、亡命に結びつかない。

善耆が北京を脱出してから10日後の2月12日に、溥儀・皇帝は袁世凱に臨時政府の全権を付与して、清朝は事実上滅亡した。

まもなく肅親王家の人々は、日本の軍艦で善耆の許へ向かったが、その一行に5歳の顕㺭(後の川島芳子)も加わっていた。

憲立によると、善耆は奉天行きを諦めきれず、密かに実弟の善予を代理人として張作霖の許へ派遣したという。

作霖は「別室に袁世凱の代理人が3百万元で自分を買収しに来ている。もし清王朝が8百万元を用意するなら、復辟に協力しよう」と切り出した。

ここで善予に同行した部下が「無礼者」と襲いかかり、その場で作霖の部下に殺された。

憲立はこう語る。

「善予は引き返してきて会談は失敗したが、父は晩年にしみじみ言ってました。

『もし自分が張作霖の所へ行っていれば、会談は必ず成功していたであろう。
日本側が自分を軟禁せずに自由の身にしておいてくれたなら、歴史は変わっていたかもしれない。』」

旅順で善耆ら家族は、旧ロシアのホテルを日本の関東都督府の好意で貸与されたという。

家政は、川島フク(浪速の妻)が王妃らを助けて切り盛りした。

やがて善耆の子供たちは、旅順の日本人学校に編入することになった。

旅順での肅親王家の生活費は、月々3千円に上ったと伝えられるが、当初はほとんどを川島浪速の才覚で賄ったらしい。

善耆は、明治天皇に援軍を頼もうと来日の準備をしたが、1912年7月30日に睦仁(明治天皇)は亡くなった。

「出発の準備を整えていたところに崩御の知らせを受けて、父が茫然としていたのを憶えています」と憲立は言う。

原田伴彦の母まつしまは、「思い出の記」という小冊子の中で、1917年12月28日に旅順の肅親王家を訪ねた時を、こう記している。

「4人の王女は連れ立って我等の部屋に来られたが、服装は日本服、言葉も日本語で、極めて質素。

路上で出逢ったら、これが清国皇族の王女とは夢にも知る由がない。

百人に近い大家族だから夕食後の賑わしさ。
王子といえども紙飛行機を飛ばして大騒ぎで、日本の中流家庭の子と異なる所がない。」

川島浪速は、1912年8月にまとめた『対支管見』の中で、「強盗的なロシア式の侵略には反対だが、満州の一部と蒙古の東部はさしあたり日本のものとする」としている。

浪速の満蒙進出の論拠を要約すると、次の5つになる。

① ロシアに対抗するため

② 日本が満蒙で強固な立脚地を有せば、永遠にアジアの覇権を握れる

③ 非常な速度で増殖している日本の人口を、適当に配置するため

④ 未開発の資源を占有して、日本の富力を補足する

⑤ 優秀で便利な地歩をアジア大陸に確保する

(※要するに、ロシアとやる事は同じで侵略するのだが、もう少しソフトにやろうという事だろう)

1912年1月29日に、上述したとおり川島浪速はカラチン王と密約した。

そして浪速は、高山公通・大佐、多賀宗之・少佐、木村直人・大尉、松井清助・大尉らと共に、蒙古義勇軍をつくるべく、カラチン王の北京脱出を行わせた。

続けて蒙古に弾薬を送り、準備を進めたが、突然に福島安正・中将から浪速に帰国命令が出されたのである。

この時、中国では革命党が優勢になり、各国は辛亥革命の支持に傾いていた。

日本政府は、いま満蒙で事を起こすのはまずいと見て、「満蒙独立の計画を中止せよ」と命じたのだ。

こうして浪速の夢は破れた。

浪速は、善耆の生活を永久に保護すること、浪速の同志を満蒙に配置したままにすること、などの条件を提示し、妻・フクと共に日本に帰国した。

浪速にとって日本で暮らすのは、26年ぶりだった。

帰国後も川島浪速は、田鍋安之助らと満蒙独立の活動をし、1913年7月には一進会の内田良平らと対支研究会を組織した。

同年9月7日には日比谷公園で対支問題国民大会が開かれ、群衆は出兵を決議して外務省に押しかけている。

その2日前の9月5日には、軟弱外交に怒った愛国党の岩田愛之助らの画策で、外務省政務局長・阿部守太郎が殺害された。

シーメンス事件で1914年3月に山本権兵衛・内閣が総辞職すると、満蒙に関心の強い大隈重信が組閣した。

この頃に、日本に留学して川島浪速邸に寄食していた金璧東(憲奎)は、帰省して父・善耆に報告した。

「浪速は日夜奔走しているが、夫人のフクは日本に帰ってから生き甲斐をなくし、家庭に波風が絶えない」

これを聞いた善耆は、結婚から十余年を経ても子供に恵まれない浪速夫妻に、自分の子をあげようと決心した。

憲立によると、善耆が自分の娘(第14王女の顕㺭)を川島浪速に送ったのには、次の経緯があった。

首相になった大隈重信は、袁世凱の共和政府に反対だった。
そこで土井市之助・大佐や白川義則・参謀らに「清王朝の復辟を援助しろ」と命じ、清王朝側からも交渉代理人を出すよう要請した。

善耆は浪速を代理人に指名したが、日本政府は公職にない支那浪人ともいうべき浪速を代理人として認めるのを渋った。

そこで善耆は、自らの子供を浪速の養子にして、代理人としての資格を与えたというのだ。

当初は、養子として憲立に白羽の矢が立ったが、皇室典範によって王子は他家に出さぬ事になっており、王女の顕㺭(川島芳子)が選ばれたという。

芳子自身が婦人公論に寄せた手記では、芳子の来日は1913年となっている。

しかし憲立らの話を考えると、1914年説の確度が高い。

顕㺭は1907年の生まれだから、来日時は7歳である。

憲立は当時11歳だったが、顕㺭の渡航の様子を憶えている。

「顕㺭が日本に行くのは嫌だアと泣くのを、母がいい子だから泣くのはおよしとあやしていました」

顕㺭を見送った時の母の淋しげな姿を、憲立は忘れられないと言う。

顕㺭の母は、4番目の側妃で、側妃の中で一番若かった。顕㺭を手放した当時は29歳だった。

憲立は「それにしても私の母は、出身に謎が多すぎます。私は母に日本人の血が流れている気がしてなりません」と大胆な推測をする。

論拠として、浪速の人選で王家のために働いていた日本女性たちと、母がことのほか打ち解けており日本語も多少は理解していたと言う。

さらに憲立が、善耆の息子で唯一、日本女性と結婚した時、他の王妃が「やはり血は争えない」と漏らしたと言う。

さらに、第4側妃の子女ばかりが対日本の人選にあてられたのも不思議だと言う。

余談だが、川島浪速は後に善耆の王子たちも引き取って育てたが、第18王子の憲開は良雄、第21王子の憲東は良治と名付けた。

一説では芳子も、当初は良子であったという。

なお第4側妃の子供たちだが、長男は憲立である。

次男と三男は日本の陸軍士官学校を卒業し、今は北京で暮らしている。

四男の憲開は、陸士を卒業したが、1929年に別府で射殺された。

当時、張作霖の側近だった張宗昌が別府で静養中だったが、憲開は宗昌の愛人と親密になった男と間違われて、射殺されたというのだ。

五男の憲容は東大を卒業したが、のちに獄死している。

(2020年4月25~26日、5月2日に作成)


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