ピネロル監獄に入れられたニコラ・フーケとローザン伯爵

(『鉄・仮・面』ハリー・トンプソン著から抜粋)

ニコラ・フーケは、国王ルイ14世の命令で逮捕されるまでは、最重要の政治家で、大蔵大臣をしていた。

ローザン伯爵も、ルイ14世に気に入られて出世した人である。

この2人は、国事犯としてルイ14世の命令で逮捕され、ピネロル監獄に送られた。

なおローザン伯爵の本名は、アントワーヌ・ノンパール・ド・コモンである。

フーケ逮捕の罪状は、国庫のカネを横領したことだった。

一方ローザンの罪状はなかった。
だからローザンは入獄すると怒り狂い、「納得いかぬ、私が何をしたというのか」と訴えた。

フランスでは長いこと、宰相が国を動かし、国王は何もしないのがしきたりになっていた。

だから宰相となったリシュリュー枢機卿は、ルイ13世を思いのままに操った。

リシュリューの後を継いだマザラン枢機卿も、同じように国を動かした。

ジュール・マザランが1661年3月に死去した時、ニコラ・フーケが宰相になると思われた。

ところが若い国王ルイ14世はこの時、自ら政治を行うことを望んだ。

そしてルヴォワ(後に陸軍大臣)の父であるミッシェル・ル・テリエールと、ジャン=バティスト・コルベールを登用した。

ニコラ・フーケは、権力を使って公金を横領していたので、保身のために検事総長になっていた。

ルイ14世はフーケに、「検事総長を辞めるなら宰相にする」ともちかけて、フーケに承知させた。

その後フーケは宰相になるのを祝うパーティまで開いたが、1661年9月5日にルイ14世が派遣したダルタニャンに逮捕されて、汚職で告発された。

それから3年の間フーケは、ダルタニャンとその副官であるサン・マールの監視下に置かれた。

フーケの汚職の証拠を集めたのは、コルベールだった。

フーケは汚職をしまくっていたが、愛すべき悪党で、パリ市民に味方が多かった。

だからルイ14世はフーケの死刑を宣告したが、裁判の判事たちは投票で国外追放に決めた。

フランス王家の秘密をたくさん知っているフーケを国外に出すのを嫌ったルイ14世は、死刑から終身刑に減刑することで情けのある所をアピールしつつ、フーケをピネロル監獄に送った。

ニコラ・フーケは、仮面の男の候補者の1人とされてきた。

今でもフーケが仮面の男だったと信じている人はいる。

しかしそうだとすると、なぜフーケが仮面を被せられたのかという謎が残る。

それに仮面の男は1703年に死亡した事が分かっているが、フーケは1680年に獄死したと証明されている。

フーケは、監獄を訪れるのを許されていた家族に看取られて亡くなった。

フーケは、仮面の男であるユスターシュ・ドージェと唯一、ピネロル監獄内で会話するのを許可されていた。(※ルイ14世が途中で許可した)

これは、フーケが仮面の男の秘密を知っていたからに違いない。

フーケが監獄を出るには、ルイ14世に気に入られる事をして、許されるしかなかった。

だから彼は、1673年頃から手紙で、「国王陛下のお役に立ちたい」と訴えていた。

この年から彼は、ペンと紙を与えられ、妻に手紙を書くことも許された。

フーケが1680年3月23日に獄中死すると、同年7月10日の手紙でルヴォワ陸軍大臣は、ピネロル監獄のサン・マール司令官にこう命じている。

「先のお前の報告に書かれている事を、ユスターシュ・ドージェがいかにして実行したかを、必要な薬物をどこから入手したのかを、教えてくれ。」

ルヴォワは珍しいことに、この手紙は自分で書き、代筆させていない。

実はフーケは、監獄付きの医者を信用せず、自分で薬を調合する許可をもらっていた。

まず間違いなく、ドージェに薬物を渡したのはフーケである。

ユスターシュ・ドージェは、フーケを毒殺したのだろうか?

あるいはと思わせる事実がある。

フーケの遺体は通例に反して、すぐには家族に渡されず、死後17日も経ってから渡されたのである。

そしてドージェは、(別ページに詳述するが)薬物や毒物に詳しい人だった。

サン・マール司令官は、フーケが死んでその監房を片づけた時に、煙突にはめてある鉄棒が切り離されているのを見つけた。

フーケは、ローザンと夜に密談するために、穴を開けていたのだ。

この事を報告されたルヴォワ陸軍大臣は、サン・マールに命じている。

「国王陛下から、フーケとローザンが話すために用いていた穴をふさぎ、厳重に補強するよう指示があった。

ローザンには、ユスターシュ・ドージェ(仮面の男)とラ・リヴィエール(フーケの下僕)がすでに釈放されていなくなったと納得させよ。」

この出来事の後、ドージェとラ・リヴィエールへの監視はさらに厳しくなり、2人は翌1681年にエグズィル監獄に移送された。

ここで、ローザン伯爵ことアントワーヌ・ノンパール・ド・コモンのことを説明する。

彼はルイ14世の近衛隊長になった男だが、興味深いのはその昇進は1669年7月28日で、『ルイ14世がダンケルク駐在のヴォロワ大尉に、ユスターシュ・ドージェの逮捕を命じた日』である。

ローザン伯爵は、粗野で礼儀知らずのため、多くの人から毛嫌いされていた。

1665年に彼は、ルイ14世とモナコ王女の密会を戸棚の中に隠れて聞き、バレてしばらくバスティーユ監獄に入れられた。

1669年の初めにも、ルイ14世と愛人のモンテスパン夫人の密通を盗み聞きし、再びバスティーユ監獄にしばらく送られた。

そんな男が、すぐに釈放されて1669年7月には、不可解にも近衛隊長に昇進したのである。

しかもローザンは、宮廷内のどこへでも自由に出入りできる権利が与えられ、ベリー州の知事にも就任した。

ところが1671年10月に、ルイ14世の命令で、ローザンは突如としてピネロル監獄に入れられた。

監獄に入れられたローザンは、誰とも会うのを禁じられた。

この時にローザンが牢に入れられた理由は、ついに明かされなかった。

ローザンとユスターシュ・ドージェは、別ページに詳述するが、親友だった。

ローザンについての謎を解くには、ローザンが親友だったユスターシュ・ドージェを売って、ドージェの逮捕に協力したことで近衛隊長に出世したと考えると分かりやすい。

ルイ14世から秘密を知ったと思われたローザンは、危険視されて2年後に監獄に送られたのだ。

ローザンは、監獄に入れられると怒り狂い、食事を拒んだり、家具を壊したり、自室に火を付けたりした。

ある時、ローザンの召し使いのウルトローが衛兵のマトネに賄賂を渡して、ローザンの脱獄の手伝いをさせようとした事が分かった。

マトネは、サン・マールの拷問で殺された。

1676年にローザンは、もう少しで脱獄に成功するところまで行った。

3年かけて折れ釘で引っかき、自室の床下の石に穴を開けて、中庭まで抜け出したのだ。

しかし巡回中の歩哨に見つかった。

ローザンは、最終的には釈放された。

ローザンが何の罪もなく牢獄に送られたことは、ずっと宮廷で話題になっていた。

しかもローザンは、ピネロル監獄に送られる前年に、ルイ14世の従妹であるプランセス・ド・モンパンスィエールと婚約していた。

モンパンスィエールは大変な金持ちで、ローザンを釈放させたくてルイ14世に大金を寄進したりした。

ローザンが釈放されたのは、ルイ14世とルヴォワ陸軍大臣が、「ローザンは仮面の男の秘密を知らない」と確信したからだろう。

フーケが国王らに手紙で情報提供を始めた頃から、国王らの態度に変化が生じている。

フーケが1680年に死に、翌81年にドージェとラ・リヴィエールがエグズィル監獄に移されるや、ローザンはパリに呼び出されて、ルヴォワ大臣と面談した。

そして、いくつかの条件付きで釈放された。

その条件とは、アンボワーズで自宅軟禁で暮らすこと、パリに近づかないこと、どこへ行くにも専属の監視人に付き添われること、だった。

ローザンは釈放後、婚約者と結婚し、妻が死ぬとその遺産を相続した。

軍人として復権したローザンは、アイルランドでフランス軍を指揮して敗れ、イギリス軍に捕まった。

この時、9通の手紙が押収されたが、いずれもルヴォワ陸軍大臣からのもので、暗号で書かれていた。

この手紙が仮面の男の謎と関係あるかは分からない。
暗号が解読されていないからだ。

(2023年2月6日に作成)


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