(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
フランスのサン=クレール/ジゾール家のスコットランド分家であるシンクレア家は、領地としたロッシリンが、テンプル騎士団のスコットランド支部から数マイルしか離れていない。
15世紀に建てられたロッシリン聖堂は、フリーメーソンや薔薇十字団に長く関係していた。
1601年にさかのぼる特許状によれば、シンクレア家はスコットランド・フリーメーソンの世襲総長である。
フリーメーソンの記録によると、世襲総長の地位をシンクレア家に委ねたのは、1437~60年にスコットランド王だったジェームズ2世である。
1660年にイギリスで君主制が復活すると、「王立協会(英国学士院)」が創設された。
王立協会の創設会員は、実質的に全員がフリーメーソンだった。
王立協会は、薔薇十字団に端を発し、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエの創ったキリスト教同盟を経た、フリーメーソンの組織だった。
アイザック・ニュートンは、1703年には王立協会の会長となった。
この頃に、フランスから逃げて来たジャン・デザギュリエと親しくなった。
デザギュリエはフリーメーソンで、フリーメーソンの普及で活躍した人である。
デザギュリエは1731年に、ロレーヌ公フランソワのフリーメーソンへの入会式を取り仕切った。
フランソワは後にマリア・テレジアと結婚して、神聖ローマ帝国の皇帝(フランツ1世)になった。
ニュートンは、教皇アレクサンデルも会員だった半フリーメーソンの「スポルディング紳士クラブ」のメンバーだった。
ニュートンはフリーメーソンの著作と同様に、(旧約聖書の)モーゼよりもノアを秘儀知識の源泉として高く評価していた。
彼は古代ユダヤ教を知識の宝庫と考え、聖書や古典神話の出来事を科学で体系化する研究をし、イアーソーンの金羊毛の探求を軸に据えていた。
彼は、フリーメーソンと同じく、(聖書に書いてある)ソロモン神殿の配置と寸法が重要と見て、そこには錬金術の調合が隠されていると信じていた。
ニュートンは、イエスの神性に疑問をもち、新約聖書の一部は5世紀に挿入された偽物と考えていた。
また彼は、グノーシス思想に関する論文も書いている。
彼は、キリスト教カミザール派(セヴェンヌの預言者たち)に共感を示したが、カミザール派はかつてのカタリ派と同じく、グノーシス(人々への直接的な神の啓示)を重視し、イエスの神性に疑問を持っていた。
ニュートンは、臨終のときに終油の秘跡(※カトリック派の信者が受ける儀式)を受けず、人々を驚かせた。
ボニー・チャーリー王子らスチュアート家の者は、フランスに滞在中、フリーメーソンの普及に励んだ。
「スコットランド典礼」として知られるフリーメーソンの儀式は、スチュアート家が持ち込んだと考えられている。
彼らは、スコットランドに伝わる秘儀や、錬金術、カバラ主義などを持ち込んだ。
スコットランド典礼によるフリーメーソンは、チャールズ・ラドクリフが普及させたと言える。
ラドクリフは、フリーメーソンの支部を1725年にパリに設立している。
そしてフランス支部の総長になった。
ボニー・チャーリー王子の家庭教師をしたアンドリュー・ラムゼーは、1737年にフリーメーソンの歴史について有名な演説をし、これは後に「組合(クラフト)」に発展した。
私たちの調査では、ラムゼーの背後にいたのがチャールズ・ラドクリフである。
1738年にローマ教皇のクレメンス12世は、フリーメーソンをローマ教会の敵として、破門する勅書を出した。
1962年になってから公開された彼の手紙は、「フリーメーソンはイエスの神性を否定する異端で、その背後にはルターの宗教改革と同じ思想がある」と主張している。
彼は、高度に組織された団体が、何世代にもわたってカトリック派を倒そうとしていると考えていた。
1750年代に、カール・ゴットリープ・フォン・フントというドイツ人が、フリーメーソンについて告白した。
フントは1742年にフリーメーソンに入会したらしいが、フリーメーソンの上位者たちはジャコバイト派と密接だったと言う。
フントは当初、自分の入会式を仕切ったのはボニー・チャーリー王子だと信じていた。
フントによると、フリーメーソンはスコットランド典礼をさらに発展させて、「厳守令」が掟になっていた。
「厳守令」という呼び名は、上位者たちに会員が絶対服従を誓うことに由来する。
この掟は、かつてフランス国王やローマ教会から迫害されて、スコットランドに逃げて来たテンプル騎士団に由来するものだった。
テンプル騎士団がスコットランドに逃げて生き延びたのは歴史事実で、徐々に世俗化しつつ、フリーメーソンや貴族と融合していったらしい。
フントは告白をしたことで、フリーメーソンから除名され、大噓つきと非難されたが、彼の証言は真実を含んでいると思える。
フントが公開したテンプル騎士団の総長の一覧表は、私たちがパリ国立図書館で見つけた『秘密文書』の記述と一致している。
非難を浴びたフントを庇護したのは、神聖ローマ帝国の皇帝フランソワ(フランツ1世)だった。
フランソワは、マリア・テレジアと結婚して、ハプスブルグ家とロレーヌ家を結びつけ、ハプスブルグ=ロレーヌ王朝を創設した人である。
なおフランソワ(フランツ1世)は、「自分はフリーメーソンである」と公言していた。
彼の入会式を取り仕切ったのは、ニュートンらと親しいジャン・デザギュリエだった。
さらにフランソワは、イギリス滞在時に半フリーメーソンの「スポルディング紳士クラブ」の会長にも就いている。
フランソワ(フランツ1世)の宮殿は、フリーメーソンなどの活動拠点となり、フランソワ自身も王宮に実験室をつくって、錬金術を研究していた。
18世紀の後半になると、「メンフィスの東洋典礼」と呼ばれる、フリーメーソンの一派が力を持ち始めた。
この典礼には「オルムス」が登場するが、彼らは「オルムスはエジプトの賢人で、46年ごろに異教と初期キリスト教を混合した人物」と主張した。
「メンフィスの東洋典礼」は、ジャック・エティアンヌ、マルコニ・ド・ネグレが、ブリュッセルにオシリスの本部を設立した1838年に登場した。
そして「オルムスは薔薇十字団の原型をつくった」と主張した。
メンフィスの東洋典礼は、97の位階から成っていた。
これが後に、33位階に改められた。
この典礼は、H・J・セイモアによって1854~56年頃にアメリカに伝わり、ジョン・ヤーカーによって1872年にイングランドにも伝わった。
1875年にこの典礼は、「ミスレイム典礼」と合体した。
(※以下は、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の1996年版のあとがき(補記)からの抜粋である)
私たちが著書『神殿とロッジ』に書いたように、モンゴメリー家はフリーメーソンの発生と発展に特別の役割を果たした。
1559年に、フランスのヴァロア朝の王であるアンリ2世は、槍で突き殺されたが、殺したのはモンゴメリー家のガブリエル・ド・モンゴメリーだった。
(2023年3月12日に作成)