(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
1833年に、シャルル・ノディエ(シオン団の23代目総長)の弟子だったジャン・バプティスト・ピトワが、公共教育省の役人になった。
公共教育省はこの年、フランス史の文書を出版する委員会を組織し、メンバーにはヴィクトル・ユゴー、ジュール・ミシュレ、エマニュエル・レイ男爵が入った。
ミシュレは委員会の仕事として、テンプル騎士団の裁判記録をまとめた著作『テンプル騎士団裁判』を出版した。
レイも、十字軍やエルサレムにつくられたフランク王国を扱った著作を出した。
この本に、プリウレ・ド・シオン団に関係する特許状の原本が初めて印刷された。
レイたちは、歴史研究も行い、聖書について冷静な視点で調査を行った。
エルネスト・ルナンの書いたベストセラー本『イエス伝』は、その結果であった。
聖書は、きちんと調べると、一貫性のなさ、矛盾、ローマ教会(キリスト教カトリック派)の教義に反する内容が、次々と出てくる。
カトリック派の近代主義運動の温床は、かつてはサン=サクレマン修道会の本拠地だった、パリの聖シュルピス教会であった。
この運動は、ローマ教皇の無謬性の原理に、強く反対した。
そのためローマ教会から攻撃され、多くの者が停職か破門となり、著作は禁書のリストにのった。
1903年にローマ教皇のレオ13世は、聖書学の著作を監視するため、「教皇庁・聖書委員会」を設置した。
1907年には、教皇ピウス10世が、近代主義を公式に非難した。
タルメル神父は、14の偽名を用いて近代主義の著作を出していたが、ローマ教会の禁書リストに入り、タルメルは破門となった。
ラスプーチンがロシア宮廷に大きな影響を持ったことは、よく知られている。
しかしそれ以前から、ロシア宮廷では秘儀を行う集団が大きな影響力を持っていた。
その秘儀集団は、ムッシュー・フィリップと、その家庭教師だったパピュスを中心に形成されていた。
パピュスは、1865年7月13日にスペインで生まれた人だが、1888年にペラダンやスタニスラス・ド・ガイタと共に、「薔薇十字カバラ修道会」の創設メンバーとなった。
1891年にパピュスは、マルティヌス派・修道会の最高幹事会の結成に参加し、総長に就いた。
パピュスは1895年には、黄金の曙・修道会の、パリ支部の会員になった。
さらにパピュスは、東方テンプル騎士団のメンフィスとミスライム支部のフランス総長にも就いていた。
1899年にパピュスは、親友のフィリップ・ド・ライアンとロシアに向かい、宮廷内にマルティヌス派のロッジを創設した。
パピュスは、ロシア皇帝と皇后の相談役になった。
パピュスがロシアを最後に訪問したのは1906年だが、この時にラスプーチンと出会っている。
パピュスは、有名なタロット作品(タロット・カード)を出版した人としても知られている。
(2023年4月17日に作成)