タイトル16~17世紀のフランス政治における数々の陰謀
ヴァロア朝の断絶、フロンドの乱、サン=サクレマン修道会、聖シュルピス教会

(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)

16世紀に、フランスのロレーヌ家とその分家のギーズ家は、(フランスの)ヴァロア王朝を倒す作戦を行った。

30年間でヴァロア王朝の王子などは一掃され、最終的に家系は断絶に追いやられた。

この作戦は、ロレーヌのシャルル枢機卿と、その兄弟のギーズ公フランソワが首謀し、マントヴァのゴンザーガ家やブルボン家の高官シャルル・ド・モンパンシェと協力した。

この謀略には、当時にプリウレ・ド・シオン団の総長だったフェランテ(フェルディナン)・ド・ゴンザーグも加わった。

1563年に、フランソワ・ド・ギーズが凶弾で死んだ時、彼は実質的にはフランス王になっていた。

兄弟のシャルル枢機卿は、12年後の1575年に亡くなった。

その後、1584年に、新しいギーズ公アンリとロレーヌの枢機卿は、フランス王家への新たな攻撃を始めた。

今度の協力者はヌヴェール公のルイ・ド・ゴンザーグで、彼もシオン団の総長だった。

この結果、16世紀末にヴァロア王朝は断絶したが、ギーズ家も多数の死者が出た。

作家のジェラール・ド・セードによれば、ギーズ家やロレーヌ家の秘密工作員として働いた1人が、(予言者として有名な)ノストラダムスだった。

ノストラダムスが工作員だったならば、フランス宮廷の占星術師として得た重要情報を伝えたのだろう。

そうなると、ノストラダムスの予言のほとんどは、予言ではなく、秘密の伝言、暗号、計画書、指令だったと言える。

ノストラダムスの四行詩の多くが、ラングドック地方に由来する「ル・グラン・モナルク」(偉大なる君主)の到来を告げている。

伝説によると、ノストラダムスは預言者になる前、かなりの期間をロレーヌで過ごしている。

彼はロレーヌで修練し、何かの秘密を伝授されたらしい。

古代の本を見せられたといわれているが、その場所はオルヴァルの修道院で、そこはプリウレ・ド・シオン団の拠点だった。

ノストラダムスの予言書は、オルヴァルから発行されていた。

1620年代になると、(ブルボン王朝の)ルイ13世がフランスの王位に就いていた。

ルイ13世は、政治は宰相のリシュリュー枢機卿に任せていた。

当時はヨーロッパで「三十年戦争」が起きていたが、リシュリューはフランスを戦争に参加させて、驚くことにプロテスタントの側についた。

リシュリューはカトリック(ローマ教会)の枢機卿なのに、カトリック国のフランスをプロテスタントの側で参戦させたのである。

これは、カトリック側で参戦した大国スペインの覇権を打ち砕く狙いからだった。

この頃になるとロレーヌ家は、ルイ13世の弟であるガストン・ドルレアン(ガストン・ド・オルレアン)を担いで、フランスの王位を狙い始めた。

ガストンは、1632年にロレーヌ公の姉妹と結婚した。

この結婚により、ガストンがフランス王になれば、次の世代ではロレーヌ家の者が王位に就けることになった。

ガストンの支持者には、ギーズ公シャルルもいた。

シャルルの家庭教師は、当時のシオン団の総長であるロバート・フラッドだった。

ルイ13世は、妻アンと疎遠で、他の女とも遊ばず、長く子供が生まれなかった。

このため、弟のガストンが王位を継ぐ可能性は高かった。

ところが1638年に、アンが初めて子を産んだ。

この出産はかなり疑われており、当時も今も「本当の父親はリシュリュー枢機卿か、リシュリューの子分のマザラン枢機卿だ」と考えられている。

ルイ13世の死後、マザランとアンは密かに結婚したとまで言われている。

リシュリューが1642年に死去し、翌年にルイ13世も死去すると、マザランを追い出してルイ13世の息子(ルイ14世)を王位から蹴落とす策謀が起きた。

これは大衆蜂起から始まり、10年も続く内戦に発展したが、これを「フロンドの乱」という。

「フロンドの乱」は、1648年に三十年戦争による財政危機を理由に、宰相となったマザラン枢機卿が官職の給与支払いの停止を宣言したことが発端だった。

給与支払い停止に対して、貴族たちが反乱を起こしたのである。

重税に苦しむ民衆も決起して、王宮や高等法院を包囲した。

国王ルイ14世とマザランは、ドイツに逃亡した。

しかし最終的にルイ14世の側が勝ち、絶対王政につながった。

フロンド党の本拠地は、プリウレ・ド・シオン団に絡んでよく出てくるストネイだった。

シオン団の文書によると、シオン団はマザランの追放を目指したが、最終的に敗れた。

マザランは1661年に死去するまで、ルイ14世の宰相であり続けた。

当時にシオン団の中核だったロレーヌ家、ゴンザーガ家、ギーズ家は、マザランと戦った貴族の筆頭だった。

これを考えると、フロンドの乱はシオン団の活動だったことになる。

マザランと戦った勢力には、「サン=サクレマン修道会」もいた。

サン=サクレマン修道会は、シオン団の別名だったと思われる。

この修道会は、秘密結社で、実体がほとんど分かっていない。

1627年~29年に、ガストン・ドルレアンの知人の貴族が創設したと言われている。

サン=サクレマン修道会と関係した人に、ヴァンサン・ド・ポールや、レンヌ=ル=シャトーのすぐ近くの町アレの司祭ニコラ・パヴィヨンや、聖シュルピス学院の創設者ジャン=ジャック・オリエがいた。

聖シュルピス教会は、サン=サクレマン修道会の活動拠点と考えられている。

この修道会は、後の秘密結社フリーメーソンと同じく、支部や分会を構築し、会員たちは指導者の正体を知らされずに働かされた。

サン=サクレマン修道会は、フロンドの乱で荒廃した地域に慈善事業するのを表向きの活動としていた。

だが今日では、慈善事業は巧妙な見せかけだったと考えられている。

修道会のメンバーだったヴァンサン・ド・ポールは、国王ルイ13世の聴罪司祭となり、マザランに外されるまでは次の国王ルイ14世の相談相手もつとめた。

多くの歴史家は、サン=サクレマン修道会を、キリスト教カトリック派の軍事的な極右組織で、狂信的な連中としている。

しかし、この修道会にはカトリック派が異端として攻撃していた、プロテスタント派やヤンセン主義の者が多数いた。

もしこの修道会がカトリック派ならば、(カトリック派の)マザラン枢機卿と戦わなかっただろうし、(同じくカトリック派の)イエスズ会とも争わなかったはずだ。

マザランが死去した直後に、ルイ14世はサン=サクレマン修道会の解散を命じた。

修道会はこの命令を無視したが、徐々に追いつめられて5年後の1665年には「現在の形態では活動できない」として、すべての書類をパリの秘密保管庫に隠した。

この保管庫は、聖シュルピス教会と見られている。

サン=サクレマン修道会は、代弁者となる作家を雇っていたようで、噂ではラ・ロシュフーコーはその1人だという。

作家のジェラール・ド・セードは、ラ・フォンテーヌも修道会のメンバーだったと言う。

ラ・フォンテーヌの後援者には、ギーズ公やブイヨン公、ガストン・ドルレアンの未亡人がいた。

プリウレ・ド・シオン団の文書によれば、シオン団はマザランの攻撃を受けて、プランタール家が最も犠牲者となった。

1548年にジャン・ド・プランタールはマリー・ド・サン=クレール(※シオン団の2代目総長とは別人)と結婚したが、この時期までにプランタール家はフランスのニヴェルネー地方のヌヴェール近くに、バルベリー城を建てていたという。

それが1659年7月11日にマザランは、バルベリー城と町を攻撃して、徹底的に破壊した。

通常の歴史書にこの事は書かれていないが、私たちは調査して、マザランがニヴェルネーの土地を欲しがり、1659年7月11日に土地を購入したことを突きとめた。

1874~75年の発掘調査で、ヌヴェールのバルベリー城跡が見つかっている。
火災で岩はガラス状となっており、火で破壊されたと思われる。
この場所は、レ・プランタールの村からわずかしか離れていない。

バルベリー城の破壊が記録されていないのは奇妙で、マザランがもみ消したのなら大変な苦労をしたはずだ。

マザラン枢機卿の敵には、ニコラ・フーケもいた。

フーケはルイ14世に気に入られて、1653年に財務長官になった。

フーケの母はサン=サクレマン修道会の代表メンバーで、フーケの兄弟のシャルル大司教も会員だった。

1661年にルイ14世は、フーケを逮捕した。

罪状はあいまいだったが、フーケの財産と土地は全てルイ14世に没収された。

ルイ14世は、「フーケの文書や手紙に手を触れるな」と役人たちに命じて、自らが取捨すると指示した。

フーケの裁判は4年も続き、サン=サクレマン修道会はフーケを擁護したが、ルイ14世は死刑を求めた。

裁判所は国外への永久追放の刑を下したが、これをルイ14世は認めず、もっと従順な裁判官にすげ替えて、再び死刑を求めた。

結局、ニコラ・フーケは終身刑となり、監獄に入れられた。

ルイ14世の命令で、フーケは監獄内でも隔離され、手紙も禁じられた。

(※フーケはそのまま監獄から出ることなく、獄中死した。詳しくはこのページに書いてある。)

以下は余談だが、フーケは獄死したが、子孫の出世には影響しなくて、フーケの孫のベル・アイル侯はフランス屈指の権力者になった。

ベル・アイル侯は、要塞島ベル・アイルをフランス王に割譲し、その代わりにロングヴィルとジゾールに領地をもらった。

そして1718年にジゾール伯、1742年にはジゾール公になった。

※以下は、1996年版のあとがきに書いてある補記からの抜粋である。

1988年にカナダ人の作家マイケル・ブラッドレーは、『大西洋を越えた聖杯』という本を出した。

それによると、カナダのモントリオールを建設したのはサン=サクレマン修道会で、1641年にこの修道会は50名の移住者を派遣した。

この移住者たちはモントリオールの中心部を開拓し、1650年に「モンレアル協会」つまりモントリオール会社を設立した。

モントリオール島の共同所有者に、ジャン=ジャック・オリエ(聖シュルピス教会の創設者)の名がある。
彼は1642年に、聖シュルピス教会をパリに設置した。

彼は、聖シュルピス教会に秘密集団を創設しようとしたと、プリウレ・ド・シオン団の内部文書に書かれている。

(2023年3月11日に作成)


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