タイトル近年のシオン団の総長や定款、メロヴィング家とのつながり

(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)

フランス政府の官報によると、プリウレ・ド・シオン団は1956年6月25日に、サン=ジュリアン=アン=ジュヌヴォワ小県で発足している。

この団体の定款を読むと、21の条項から成っているが、差し障りのないものである。

例えば、21歳以上のキリスト教カトリック派の信者に会員資格があるとしている。

しかし私たちの調査では、シオン団の思想はカトリック派とあまりに遠い。

それにプリウレ・ド・シオン団の私的な出版物によると、この団体はもっと昔から存在していた。

(※つまり表向きの定款は信用できないという事。
本物の定款は後に出てくる。)

1973年2月13日に『ミディ・リブレ誌』は、プリウレ・ド・シオン団とベランジェ・ソニエールとレンヌ=ル=シャトーの謎について取り上げた。

この記事では、「メロヴィング家の血統が現存し、シオン団と結びついている」と書いている。

そしてメロヴィング家の子孫は、アラン・ポエールだという。

アラン・ポエールは、1969年4月28日~6月19日までフランスの臨時大統領をした人で、1974年4月2日~5月27日にも臨時大統領となった。

上記のミディ・リブレ誌の記事が出た1973年には、上院の議長だった。

プリウレ・ド・シオン団についての著作は、いずれも私的な出版で、フランス国立図書館に保存する形態をとっていた。

何人もの作家が書いているが、情報元はきわめて限られた人だと推測できた。

シオン団がこのような遠回しの発表方法をとるのは、道をならす目的と思われる。

少しずつ情報を開示して、人々の心に準備をさせたいらしい。

プリウレ・ド・シオン団の出版物によると、この団体はメロヴィング家と深く結びついている。

1977年に出版された「ユリシーズの仲間」という6ページの小冊子は、ジャン・デロードが書いた。

ここには、プリウレ・ド・シオン団の新しい情報があった。

「シオン団の総長は、ジャン・コクトーが1963年に死去すると、新しい組織になるまでデュコ=ブルゲ神父がつとめている。

会員のルフェーヴル大司教は、『私を教皇にすれば、あなたを王にしよう』と言った。」

マルセル・ルフェーヴル大司教は、ローマ教会(キリスト教カトリック派)でも保守派の最右翼で、教皇パウルス6世を猛攻撃し、1976年と77年に破門の脅しを受けた人だ。

彼の保守路線と、ヘルメス思想的な志向のシオン団は、真逆である。

また現総長というフランソワ・デュコ=ブルゲは、1897年生まれで聖シュルピス神学校で教育を受けた人だが、彼もパウルス6世に激しく歯向かった人である。

デュコ=ブルゲは、ローマ教会の近代化に反対し、1977年2月27日には千人を率いてパリのサン=ニコラ=ド=カルドネ教会を占拠した。

私たちは最初、ルフェーヴルとデュコ=ブルゲがシオン団員だという話は、2人を貶める嘘だと疑った。

しかし2人が工作員として働き、ローマ教会に騒乱を作ったとも考えられる。

事実、ジャーナリストや聖職者は最近、ルフェーヴルが誰かに操られていたと考えている。

ルフェーヴルとデュコ=ブルゲは、教皇パウルス6世を改革派にするために、強烈な保守の立場を打ち出したのではないか。

不思議なのは、ルフェーヴルは破門が確実と見られていたのに、パウルス6世が引き下がった事である。

その事については、「シオン団には、ローマ教会への秘密兵器がある」との説がある。

(※本書では、その秘密兵器とはイエスの血脈が存続していることや、イエスの子孫をローマ教会が裏切って迫害したことだと述べている)

1981年1月22日に、フランスの新聞に次の記事がのった。

「121名で構成されるプリウレ・ド・シオン団は、1099年にエルサレムでゴドフロワ・ド・ブイヨンが設立した団体である。

シオン団は、1981年1月17日にブロワで総会を開いた。(その前の総会は1956年6月5日にパリで開かれた)

ブロワの総会で、ピエール・プランタール・ド・サン=クレールが総長に選ばれた。

会員の121名は、(フランスの)財界、政界、思想界に勢力を誇っている。

ピエール・プランタールは、ダゴベルト2世を経るメロヴィング王朝の直系の子孫である。

このことは、1891年にレンヌ=ル=シャトーの教会でソニエール神父が発見した、カスティーリのブランシュ女王の羊皮紙によって証明されている。

この文書は、1965年にソニエールの姪がローランド・スタンモアとトーマス・フレイザー卿に売却し、ロイド銀行のロンドン支店の貸金庫に保管されている。」

シオン団の代弁者として活動する、作家のフィリップ・ド・シェリセイに聞いたところ、デュコ=ブルゲの総長選出は暫定であり、デュコ=ブルゲはシオン団への所属を公式の場で否定したから総長の正当性は無かったと言う。

フィリップ・ド・シェリセイは、シオン団の本物の定款をくれた。

そこには総長だったジャン・コクトーの署名があったが、定款の主な内容はこうだった。

①シオン団は、ブイヨン公ゴドフロワ6世によって、エルサレムにて1099年に創設された。
すべての布告はラテン語で公開される。

②121名の会員で構成される。会員は自分の後継者を指名できる。

③総会では、動議は81名以上の賛成で可決となる。

④シオン団の組織構造は、総長1名の下に、3名の第二位階者が置かれ、その下に9名の第三位階者が置かれる。
この13名が薔薇十字委員会となり、会員の入会を決定する。

総長などの職位は、特権により後継者に譲れる。

⑤シオン団員121名の下に、1681年の布告にしたがって243名の同胞を置く。この同胞は、総会にも投票にも参加できないが、一部の権利が与えられる。

⑥シオン団の財産は、13名の薔薇十字委員会が管理する。

⑦会員であることを公式の場で否認したら、除名される。

この定款は、フランス政府の官報やフランス警察の持つ定款と大きく異なっている。

プリウレ・ド・シオン団の出版物を見ると、プランタール家がよく出てくる。

どうやらピエール・プランタールが情報を提供しているらしい。

調べたところ、プランタール家はレンヌ・ル・シャトーやレンヌ・レ・バンの周辺に多数の土地を持ち、ストネイの町にあるダゴベルト2世をまつる古い教会の土地も所有している。

ピエール・プランタールの友人には、アンドレ・マルローやシャルル・ド・ゴールもいる。

ド・ゴールがフランス大統領への復帰を望んだ1958年に、プランタールはアンドレ・マルローと共に支援し、公安委員会を召集した。

1958年7月29日付の手紙で、ド・ゴールは支援への謝意を表している。

私たちは、ピエール・プランタールがまだシオン団の総長になる前で事務局長をしていた1979年3月に、彼に取材した。

彼は外見は地味だが、貴族的な雰囲気があり、博識で、冨を誇ることはせず、謙虚な態度だった。

ピエール・プランタールは、「現在のシオン団については喋らない」と言ったが、過去のシオン団については教えてくれた。

彼によるとシオン団は、70年にローマ軍がユダヤ教徒の反乱を討伐した時、エルサレム神殿で略奪した財宝を、保有している。

しかし彼は、財宝はあまり重要ではないとし、真の財宝は「精神的なもの」と強調しつつ、「私はメロヴィング家の子孫で、フランスの王になる権利がある」と述べた。

スイス人のマチュー・パオリが書いた『政治的野望の地下水脈』では、シオン団を調査してこう書いている。

「メロヴィング家の系統を引く、君主制の政府を目指す、シオン団という秘密の運動がある。

シオン団のメンバーは、偽名を使い、スイスやフランスで架空の住所を用いて、実在しない出版社から出版している。

こんな事が許されているのは、政府機関が仕事をさぼっているか、シオン団が政府に強力なツテがあるかの、どちらかだ。

政府の役人や権力者は、シオン団の会員か、シオン団に服属していると思われる。」

シオン団はメロヴィング家を特別視してるが、それはなぜなのか。

私たちは次に、メロヴィング家(メロヴィング王朝)を調べることにした。

(2023年4月18日に作成)


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