(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
メロヴィング王朝は、フランク人と呼ばれるゲルマン民族のシカンブリ人に由来する。
5~7世紀に、現在のフランスとドイツにあたる土地を支配していた。
この時代は、暗黒時代と呼ばれてよく分かっていない。
実際には、権力を握ったローマ教会が、後に歴史を消したのである。
メロヴィング家の者は、伝承によると魔術に長けていたという。
彼らは髪の毛を切るのを嫌っており、髪の毛に魔力が宿ると考えていた。
754年にメロヴィング朝のキルデリク3世は、王位を追われて投獄されたが、ローマ教皇の命令で髪の毛が切られた。
メロヴィング朝の王は、祭司王と見なされていた。
1653年に、メロヴィング朝のキルデリク1世の墓が見つかった。
その墓からは、武器や財宝の他に、魔術にふさわしい切断した馬の頭部や、金でできた牛の頭部、水晶玉も出土した。
メロヴィング家は、蜂と熊を象徴にしていた。
近代の作家は、メロヴィング家の発祥をアルカディア地方に求めてきた。
古代アルカディアでは、熊が神聖視されていた。
「アルカディア」は、「熊(神)の人々」を意味する「アルカデス」に由来する。
シカンブリ族フランク人も、熊を崇拝していた。
なおウェールズ語の熊は「アース(arth)」で、これがアーサー王の語源である。
アーサー王とメロヴィング朝は同時代で、両者が共に熊に関係しているのは興味深い。
5世紀の初頭に、フン族が侵入してきたことで、ヨーロッパで民族の大移動が起きた。
メロヴィング家の先祖にあたるシカンブリ人は、ライン川を渡ってゴールに移住し、現在のベルギーと北フランスに定着した。
5世紀の終わりにローマ帝国が崩壊すると、シカンブリ人が勢力を拡大した。
448年にメロヴィクが、トゥールネーでフランク人の王になると宣言した。
これが最初のフランク人の王で、メロヴィング朝が生まれた。
メロヴィング朝では、一般人の読み書きは500年後よりも優れていた。
読み書きの能力が、後の時代に大きく衰えたのは、驚きである。
メロヴィング朝の政治は、官僚に任され、首相に相当する人は「宮宰」と呼ばれた。
メロヴィング朝の王たちは、キリスト教に改宗後も、一夫多妻を続けた。
これはローマ教会(キリスト教カトリック派)の教えに反するが、ローマ教会は黙認した。
メロヴィング朝の王で最も有名なのは、481~511年に王だったクロヴィス1世である。
(※公式にはクロヴィス1世がメロヴィング朝の初代とされている)
クロヴィス1世の時に、メロヴィング朝はキリスト教カトリック派に改宗した。
ローマ教会は、384~399年にかけて、ローマ司教が「教皇」を自称し始めた。
だが実体は、他の司教と同格であった。
当時のキリスト教は、アリウス派が主流で、西ヨーロッパのどの司教座もアリウス派か空位だった。
ローマ教会(キリスト教カトリック派)は、自派の勢力拡大のために、クロヴィス1世に着目した。
クロヴィス1世は、486年までに多くの国と戦争して、領土を急拡大させていた。
『聖レミギウスの生涯』という本には、クロヴィス1世のカトリック派への改宗と洗礼などが詳しく書かれていたが、大部分が失われてしまった。
意図的に抹殺された節がある。
496年に、クロヴィス1世とレミギウスの秘密会合が何度も行われて、クロヴィス1世とローマ教会に協定が成立した。
(※レミギウスは、カトリック派の聖職者である)
この協定では、ローマ教会はコンスタンティノープルを本拠とするギリシア正教に匹敵する権威を得た。
一方クロヴィス1世は、ローマ教会の剣となる見返りに、「皇帝」の称号が与えられた。
この後、クロヴィス1世の王国は、領土を東西に拡大していった。
クロヴィス1世の最大の敵は、キリスト教アリウス派を信奉する西ゴート族だったが、507年のヴイエの戦いで西ゴート族を破った。
この戦争は、カトリック派がアリウス派に武力で勝った戦いでもあった。
敗れたことで西ゴート族は、レデ地方のラぜ、現在のレンヌ・ル・シャトーまで後退し、そこを首都に定めた。
511年にクロヴィス1世が死去すると、彼の築いた王国は4人の息子に分割された。
このあと、メロヴィング朝の権力は分散し、やがて宮廷の首相である「宮宰」が政治を仕切るようになった。
メロヴィング朝の王たちは、宮宰の言いなりとなった。
ところがダゴベルト2世が出てきて、再び王が権力を持った。
ダゴベルト2世は、651年に生まれたが、656年に父が亡くなると、宮宰のグリモアルドに誘拐されて、アイルランドに追放された。
そして王位は、グリモアルドの息子が継いだ。
ダゴベルト2世はアイルランドの修道院で成人し、666年にケルト族の王女マチルドと結婚した。
ほどなくして彼はイギリスに移住し、ヨークに定住して、ヨーク司教のウィルフリッドと親しくなった。
ウィルフリッドは、ローマ教会の人で、ケルト人の教会を取り込む工作をして、664年にウィットビー公会議で成功していた。
当時は、メロヴィング朝のローマ教会への忠誠が弱くなっていた。
そこでウィルフリッドは、ダゴベルト2世をメロヴィング朝の王にすることで、ローマ教会への忠誠を確固にしたいと考えたようだ。
ダゴベルト2世の妻マチルドが死去すると、ウィルフリッドは、ラぜ伯の娘で西ゴート族の王の姪であるジゼル・ド・ラゼと再婚させた。
メロヴィング家と西ゴート族という敵同士を、血縁にさせたのである。
2人の間には、676年に息子シギベルトが誕生した。
ダゴベルト2世はフランスに渡ると、(西ゴート族の拠点である)レンヌ・ル・シャトーに3年留まった後、(メロヴィング朝の分国の1つである)アウストラシアの王だと宣言した。
彼は勢力を拡大すると、レンヌ・ル・シャトーに財宝を集めたらしい。
この財宝は、メロヴィング朝から40年前に独立していたアキテーヌを再征服する資金と考えられる。
ダゴベルト2世は、ローマ教会(キリスト教カトリック派)の支援を得てメロヴィング朝の王位に就いたが、権力を握るとローマ教会と距離をとった。
同じくダゴベルト2世を支援した、妻の出身である西ゴート族は、まだアリウス派に傾斜していた。
ダゴベルト2世は中央集権を進めたので、貴族たちから恨まれた。
ダゴベルト2世の宮宰であるピピン・デリスタル(中ピピン肥満王)は、貴族たちやローマ教会と共謀し、クーデターを起こした。
679年12月23日、ストネイの王宮近くにあるウーヴルの森に、ダゴベルト2世は狩りに出かけた。
そしてダゴベルト2世は、森の中で仮眠中に、下僕に殺された。
なおダゴベルト2世の遺体は、ストネイの聖レミギウス王立聖堂に埋葬されたが、200年近く経った872年に掘り返されて、別の教会に移され、そこは聖ダゴベルト教会となった。
これは大司教会議によって、ダゴベルト2世が列聖されたからだが、列聖された理由はよく分からない。
ずっと後のフランス革命中に、聖ダゴベルト教会は破壊され、遺物も失われた。
ダゴベルト2世の死後は、王は宮宰の操り人形となった。
ピピン・デリスタルの後に宮宰となったのが、彼の息子のカール・マルテルである。
カール・マルテルは、732年にポワティエの戦いでムーア人(イスラム教徒)のフランス侵入を阻止して、英雄となった。
彼はメロヴィング家の娘と結婚することで、自らの地位を確かにした。
カール・マルテルの息子のピピン3世(小ピピン短駆王)も宮宰となったが、751年にローマ教会の支持を得て、キルデリク3世を廃位し、自分が王になった。
ピピン3世はキルデリク3世を修道院に閉じ込めて、754年にキルデリク3世が死ぬと、ローマ教会から塗油を受けて、カロリング王朝を創始した。
753年に、「コンスタンティヌス帝の寄進」という、偽文書が出た。
これは今日では偽文書と分かっているが、当時は本物とされて、甚大な影響を与えた。
この文書では、312年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝が、王権をローマ司教に与えて、ローマ教会の所有になったとする。
それでローマ司教は、イエス・キリストの代理者として、コンスタンティヌスを皇帝に任命したとする。
この偽文書の目的は明白で、ローマ司教が実質的に皇帝となり、王位を意のままにする事である。
ヴァチカン(ローマ教会)が世俗に大きな権力を振るうようになったのは、「コンスタンティヌス帝の寄進」による。
この偽文書を根拠にして、ローマ教会は754年にピピン3世に戴冠と塗油の儀式をした。(カロリング朝の始まり)
この戴冠の時から、カトリック派の司教たちは、貴族たちと対等の立場で出席する権威を得た。
ローマ教会は塗油の儀式を考案することで、魔術のように血を聖化して、王に恵みを与えて王権を正当化させる力を得た。
こうして、全ての王侯がローマ教皇に服従する体制ができた。
メロヴィング朝はユダヤ教徒に寛容で、それによりローマ教会(キリスト教カトリック派)から非難された。
メロヴィング家とユダヤ教徒の結婚は日常茶飯事で、ユダヤ教徒が高級官僚になることも少なくなかった。
メロヴィング家は、奇跡的な力が宿ると信じて髪の毛を切らなかったが、これは旧約聖書のナジル人と同じである。
イエスもナジル人だったと言われている。
メロヴィング家とその一族は、ユダヤ特有の名が多く、サムソンやソロモンの名が見られる。
西ゴート族は、多くはユダヤ教徒だったらしい。
当時の年代記では「ゴート族」と「ユダヤ人」を同じ意味で使うことが多い。
メロヴィング朝とその次のカロリング朝の時代は、「セプティマニア」と呼ばれた、南フランスとスペインの地域に、多数のユダヤ教徒が住んでいた。
しかし8世紀に入ると、西ゴート族はキリスト教カトリック派に改宗したため、領土内のユダヤ教徒を弾圧するようになった。
そこで711年に、西ゴート族のスペインがムーア人(イスラム教徒)に倒されると、ユダヤ教徒はこの侵略者と結んだ。
ムーア人の下で、ユダヤ教徒は行政官になったり商人として繁栄した。
スペインのコルドバなどの都市では、最も人口が多いのはユダヤ教徒だった。
(※ムーア人はコルドバを首都にして、後ウマイヤ朝を創った)
ムーア人はセプティマニアに侵攻して、720~759年にかけてセプティマニアはイスラム教徒の支配下となった。
ムーア人は、首都をフランスのナルボンヌに定めた。
ムーア人はさらに侵攻をしたが、前述の通り、メロヴィング朝の宮宰のカール・マルテルが阻止した。
カール・マルテルの軍は、逆にナルボンヌを包囲したが、落とせなかった。
752年にカール・マルテルの息子のピピン3世(小ピピン短駆王)は、セプティマニアを支配下に置いた。
だが、ナルボンヌは7年も包囲したが落とせなかった。
コロンビア大学のアーサー・ズッカーマン教授によると、業を煮やしたピピン3世は、ナルボンヌに住むユダヤ教徒と密約を結んだ。
ユダヤ教徒は、ムーア人を裏切る代わりに、ピピンにセプティマニアに自分たちの王国を創るの認めさせたという。
759年に、ナルボンヌのユダヤ教徒たちは、イスラム兵に突然襲いかかり、城門を開けてピピン軍を入れた。
このあとピピンはセプティマニアで名目上の君主になったが、実際はユダヤ教徒の主権国家が誕生した。
この国の王は、テオドリックもしくはティエリーと名乗ったらしい。
テオドリックは、ギョーム・ド・ジェローンの父で、ピピン3世から「ダビデ王の子孫」と認められた。
(※これは実際に子孫というよりも、権威のお墨付きとしてその血筋だと認めてもらったと解釈すべきだろう)
多くの研究者が、テオドリックをメロヴィング家の子孫と考えている。
だがアーサー・ズッカーマン教授は、テオドリックはバグダッドの生まれで、バビロンの捕囚からずっとバビロンに住み続けたユダヤ教徒の子孫だと言う。
テオドリックは、ピピン3世の姉妹アルダと結婚し、権力を堅固にした。
息子のギョーム・ド・ジェローンは、ジェローン学院を設立し、そこはユダヤ研究の中心地となった。
ジェローン学院は、キリスト教のマグダラ信仰をする宗派の中心地にもなった。
なおギョーム・ド・ジェローンは、ヴォルフラム・フォン・エシェンバッハの作品では、聖杯と関係づけられている。
(※プリウレ・ド・シオン団の資料によると?)10世紀にギョーム・ド・ジェローンの家系から、ユーグ・ド・プランタールが出て、その息子がブローニュ伯のユスターシュである。
ユスターシュの孫が、十字軍でエルサレムを征服したゴドフロワ・ド・ブイヨンである。
(※ウィキペディアを見たところ、ゴドフロワ・ド・ブイヨンの祖父がブローニュ伯ユスターシュなのは確認できた。
だがユスターシュの父はユーグ・ド・プランタールではない。)
(2023年4月21日に作成、5月1日に加筆)