(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
キリスト教の聖杯伝説は、中東の異教の植物崇拝が起源と考えられる。
またアイルランドやウェールズの神話でも、死と再生の話があり、ウェールズの伝説を集めた『マビノギオン』には「再生の大釜」が登場する。
しかし聖杯伝説は、他の神話にはない、非カトリック派キリスト教の影響が見られる。
そしてイエスと強く結びついている。
聖杯は、最後の晩餐で用いられた後、アリマタヤのヨセフが十字架にかけられたイエスの血を受けたコップと、一般的に言われている。
伝説によれば、ヨセフがイギリスのグラストンベリーに運んだとか、マグダラのマリアがフランスに運んだという。
しかし実は、聖杯がコップと考えられるようになったのは、後世になってからである。
当初は様々な解釈がなされていた。
聖杯物語ができたのは、1188年頃に『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』を、クレティアン・ド・トロワが書いた時だった。
クレティアンは、多くの作品をシャンパーニュ伯の妻マリーに捧げているから、彼がシャンパーニュの宮廷と関係があったのは明らかである。
『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』は、マリーではなく、フランドル伯のフィリップ・ダルザスに捧げられている。
物語の冒頭で作者クレティアンは、「この話を最初に聞いたのは、フィリップ・ダルザスからだ」と述べている。
物語の主人公であるペルスヴァルは、寡婦の息子である。
これは、イエスを指す言葉としてよく用いられたものだ。
ペルスヴァルは騎士になるため家を出て、旅の途中で「漁夫王」に出会い、漁夫王の城で一夜をすごすが、その夜に聖杯が現れた。
宝石を散りばめた黄金の聖杯を、乙女が運んできたのだ。
翌朝にペルスヴァルが目覚めると、城は空になっていたが、後にペルスヴァルは自分が聖杯家の一員で漁夫王は自分の叔父だと知る。
そしてペルスヴァルは、「聖杯を経験してからは、神を信じるのはやめた」と告白する。
『ペルスヴァルあるいは聖杯の物語』は未完で、クレティアン・ド・トロワは1188年に死去した。
この年に、彼が住んでいたトロワは大火事になっているが、繋がりがあると推測する学者もいる。
彼の聖杯物語は、広まるにつれてアーサー王やイエスと結びついていった。
1190~99年に書かれたロベール・ド・ボロンの『聖杯の由来の物語』では、聖杯をキリスト教徒の象徴にして、最後の晩餐で使ったコップとし、イエスの血を受けたとした。
この物語では、アリマタヤのヨセフの家族が聖杯の管理者となり、ヨセフの義理の兄弟ブロンがイギリスに聖杯を運んで漁夫王になっている。
この聖杯物語は、アーサー王の時代ではなく、アリマタヤのヨセフの時代(イエスの時代)のイギリスである。
同じく聖杯を扱った『ペルレスヴォー』は、1190~1212年に書かれた匿名の作品である。
この作品は、兵器や戦術、戦争について詳しく述べていて、騎士が書いたと思われる。
主人公のペルスヴァルは、ある城に出くわし、そこは聖杯を知る伝授者たちの秘密会議の城であった。
城には2人の親方がいて、33人の会員が会議に加わった。
彼らは皆、胸に赤い十字架をつけた白い服を着て、同じ歳のようだった。
『ペルレスヴォー』では、ペルスヴァルの家系を聖なるものとし、アリマタヤのヨセフの家系とする。
ヨセフは、ペルスヴァルの母の叔父で、7年間(イエスを裁いたローマ人の)ピラトの兵士だった。
だが時代はアーサー王の時代なので、話のつじつまが合わない。
『ペルレスヴォー』は、魔術や錬金術への言及が多い。
非キリスト教の内容も多く、子供たちを焼いて食べたという記述まである。
この物語では、聖杯は十字架にかけられた王などに変化する。
おそらく聖杯は、ある家系を表している。
1195~1216年に書かれた『パルツィヴァール』は、聖杯物語の中で最も有名である。
作者はヴォルフラム・フォン・エシェンバッハという、バイエルン出身の騎士である。
私たちは調査の結果、この聖杯物語が最も信用できると結論した。
『パルツィヴァール』は、冒頭で「クレティアン・ド・トロワの書いた聖杯物語は間違っている」とし、自分のものが正確だと述べている。
ヴォルフラムは、「この物語は、キオート・ド・プロヴァンスから得た情報である」と述べ、こう書いている。
「大先生キオートは、トレドでこの物語の原版を発見したが、それはアラビア語で書かれていた。
フレゲタニスという異教の学者は、母はソロモン王の後裔で、イスラエルの民の出身だった。
フレゲタニスが、その聖杯物語の著者であった。
フレゲタニスの父は異教徒で、彼自身も仔牛を神として崇めていた。
フレゲタニスは、星の運行に詳しく、秘密を星座の中に見たのだ。
聖杯を、星座の中に読み取った。
キオートは(フレゲタニスの著書を読んだあと)、聖杯を守護する民を求めて、ラテン語の本を読み漁った。
ついにアンジューで見つけて、マツァダンについて偽りのない物語を読んだのである。」
この話で驚くのは、聖杯がユダヤ教と結びついている事である。
キリスト教の聖なる秘物なのに、ユダヤ教徒と思われるフレゲタニスが知っていたのだ。
『パルツィヴァール』に出てくるキオート・ド・プロヴァンスは、間違いなくギヨ・ド・プロヴァンのことだ。
ギヨは吟遊詩人で、プロヴァンス地方のテンプル騎士団を代弁する詩歌を作っていた。
1184年にギヨは、ドイツのマインツを訪れて、フリードリヒ・バルバロッサ王(フリードリヒ1世)の騎士祭に参加している。
こうした祭りには、各地の吟遊詩人が集められていたから、ここでギヨはヴォルフラム・フォン・エシェンバッハと知り合ったと思われる。
ギヨから影響を受けたヴォルフラムは、テンプル騎士団の活動を見るため、わざわざエルサレムまで行った。
『パルツィヴァール』では、聖杯の守護者はテンプル騎士団になっている。
聖杯は、主人公パルツィヴァールが漁夫王の城に滞在している時に登場するが、こう書いてある。
「乙女(聖杯家の女王)は、アラビア産の衣装を付けて聖杯を持ってきた。
聖杯は物で、グラールといい、この女性は名をレパンセ・ド・ショイエといった。
聖杯に奉仕する女性は、純潔を守らねばならなかった。
聖杯の前に手を伸ばすと、食べ物いっさいが整っていた。
聖杯こそは至福の果実である。」
後にパルツィヴァールの叔父が聖杯を説明する時は、こう描写された。
「ムンサルヴァーシェ城の聖杯の許には、多くの騎士が住んでおり、彼らは戦いの旅に出向いている。
騎士たちは、犯した罪の懺悔のために戦っている。
この騎士たちは、1つの石に養われている。
その石は『ラプジト・エクシリース(lapsit exillis)』といい、不老の石で、石を見ていれば髪が灰色になるだけで若さを保てる。
この石は、グラールとも言われている。」
つまり『パルツィヴァール』では、聖杯は石である。
ラプジト・エクシリースについては、ラピス・エクス・カエリス(天からの石)とか、ラピス・エリクシール(錬金術の賢者の石)とか解釈されている。
この石は、なんと人を呼び出す能力も持っており、こう書いてある。
「聖杯に召命される騎士たちは、まず聖石に文字が現れ、聖杯への旅に向かう名前と家系が告げられる。
召されるのは少女と少年で、その母親はこれを皆喜ぶ。」
聖杯のあるムンサルヴァーシェ城は、キリスト教カタリ派の伝説的なモンサルヴァ城と関係がありそうだ。
『パルツィヴァール』では、クレティアン・ド・トロワの聖杯物語と同じく、漁夫王はパルツィヴァールの叔父である。
『パルツィヴァール』の聖杯は、王を決める力も持っている。
「聖杯城は高い家柄の少年を召し出すが、他方ではどこかの国で主君が亡くなり住民が神に新しい君主を望むと、聖杯の騎士団から主君を選んで(住民を)従わせる。」
こうも書いている。
「聖杯城にいる人々を決めるのは、他ならぬ神なのだ。」
(※自分の主張を権威付けたり鵜呑みにさせたい時、神を持ち出す者がいる。読者はこれを理解しておくのが大切である。)
『パルツィヴァール』では、主人公パルツィヴァールは漁夫王アンフォルタスの甥である。
アンフォルタスの祖父はティトゥレルで、さらにさかのぼるとラジリエになる。
ラジリエの両親の名は、マツァダンとテルデラショイエである。
キオートが聖杯物語を見つけたのは、アンジュー家の年代記で、パルツィヴァールもアンジュー家の血筋と言っている。
アンジュー伯のファルケ(フルク5世)は、テンプル騎士団員で、伝承によると1131年にメリシュン(※メリザンド)というゴドフロワ・ド・ブイヨンの姪と結婚し、後にエルサレム王になった。
『パルツィヴァール』では、アーサー王の宮廷があるキャメロットは、フランス国内のナントにある。
またパルツィヴァールはワレという土地の出身だが、これはスイスのレマン湖畔のヴァレだと思われる。
ヴォルフラム・フォン・エシェンバッハは、『ティトゥレル』という未完の作品も書いているが、ティトゥレルは漁夫王アンフォルタスの父で、聖杯城の建設者である。
そして聖杯城は、ピレネー山脈にある。
ヴォルフラムの作品『ヴィレハルム』は、主人公は9世紀にピレネー山脈を統治したギョーム・ド・ジェローンである。
ギョーム・ド・ジェローンは、ヴォルフラムの作品に出てくる人のうち、本名でそのまま書かれている唯一の人だ。
『聖杯の探求』という物語では、聖杯物語の出来事はイエスの復活から454年後に起きたとしている。
イエスが仮に西暦33年に死んだとすると、487年に聖杯物語が起きたことになる。
これはメロヴィング朝のクロヴィス1世の洗礼の9年前である。
聖杯物語が作られたのは、メロヴィング家の子孫と私たちが考えるゴドフロワ・ド・ブイヨンが、実質的なエルサレム王になった後である。
(2023年4月23~25日に作成)