タイトルレンヌ=ル=シャトーの教会で見つかったもの

(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)

1885年6月1日に、フランスの小村であるレンヌ=ル=シャトーに、(キリスト教カトリック派の)新しい司祭がやってきた。

ベランジェ・ソニエールという33歳の男である。

当時、レンヌ=ル=シャトーは200人くらいの住人で、教会で出世を目指す者にとっては流刑地に等しかった。

とはいえこの村は、ソニエールの生まれ育ったモンタゼル村からすぐ近くで、彼は故郷に戻った気分だったろう。

赴任後の6年間、彼はのんびりと過ごし、家政婦兼召し使いとしてマリー・デナルノーという18歳の娘を雇った。

やがてベランジェ・ソニエールは、近くの村の司祭アンリ・ブデと交流して、その影響もあって遺跡などを調べ始めた。

この地の歴史は古く、レンヌ=ル=シャトーの南東にあるベヅにはテンプル騎士団の要塞の遺跡があった。

また東にあるブランシュフォール城は、テンプル騎士団の4代目総長であるベルトラン・ド・ブランシュフォールの居城だった。

ある時ソニエールは、レンヌ=ル=シャトーの教会の修復を思い立った。

この教会は、6世紀にさかのぼる遺跡の上に建っていた。

修復中に、柱の中から4枚の羊皮紙が見つかった。

このうち2枚は家系図で、残る2枚はソニエールの前の司祭であるアントワーヌ・ビグーが書いたものらしい。

アントワーヌ・ビグーは、この地の有力貴族であるブランシュフォール家に出入りしていた。

ビグーが書いたと思われる2枚は、明らかに暗号文で、解読すると次の2つの文が出てきた。

「誘惑のない女牧童、(画家の)プッサンとテニエが鍵をもつ、平和681、十字架とこの神の馬のそばで、私は正午にこの警護の悪魔に達する、青いリンゴ」

「ダゴベルト2世とシオンにこの財宝は属し、彼はそこで死んだ」

上の暗号文を見て、ソニエールはパリの教会に報告することにした。

そしてパリに行き、エミール・オッフェと会い、オッフェのサークルの面々と会った。

エミール・オッフェは、1873年5月に生まれ、ローマ教会(キリスト教カトリック派)の司祭になり、宗教史などを執筆した人である。

オッフェは言語学者でもあり、ギリシア語、ヘブライ語、サンスクリット語に堪能だった。

ジェラール・ド・セードによると、オッフェのいた修道会の記録係は、オッフェの死後に彼がフリーメーソンを研究してまとめた原稿を見つけた。
記録係はこの原稿の厳重な保管を命じたという。

なおエミール・オッフェは、聖シュルピス神学校ではなく、ロレーヌのシオン神学校「ラ・コリーヌ・アンスピレ(霊感の丘)」で修行している。

オッフェのサークルには、ステファヌ・マラルメ、モーリス・メーテルリンク、クロード・ドビュッシー、エンマ・カルヴェがいた。

エンマ・カルヴェはオペラ歌手だが、パリの秘儀団体の高位の女祭司でもあった。

カルヴェとソニエールは愛人関係になったとの説もあり、事実として彼女はその後に何度もソニエールを訪ねてレンヌ=ル=シャトーに行っている。

ソニエールはパリから戻ると、レンヌ=ル=シャトーの教会の修復を再開したが、その過程で奇妙な彫刻の敷石と、地下の納骨堂を発見した。

それからのソニエールは奇妙な行動を始めて、ブランシュフォール侯の妻マリーの墓を建てて、その墓にビグー司祭の書いた羊皮紙の文字を彫った。

さらに西ヨーロッパ諸国の何者かと文通を始めて、様々な銀行と怪しげな取引も始めた。

ソニエールはカネを湯水のように使い始めて、それは死ぬまで続いた。

彼はレンヌ=ル=シャトーに、マグダラ塔やベタニア荘を建てた。

修復されたレンヌ=ル=シャトーの教会は、玄関に「この場所は恐ろしい」と彫られている。

玄関を入ると悪魔アスモデウスの像があり、この悪魔はユダヤ教の伝説ではソロモン神殿を建てた者で、財宝の番人とされる。

ソニエールの存命中にレンヌ=ル=シャトーを、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの従兄弟のヨーハン・フォン・ハプスブルグも訪れている。

2人が会った後、かなりの金額がヨーハンからソニエールの銀行口座に振り込まれた事が、記録から分かっている。

ベランジェ・ソニエールは亡くなる前に、長く連れ添ったマリー・デナルノーに全財産を譲渡した。

マリーは主人の死後、1953年に死去するまでベタニア荘で快適な暮らしを続けた。

多くの研究者が、「ベランジェ・ソニエールは財宝を発見した」と考えている。

レンヌ=ル=シャトーは6世紀には3万人が住んでいたそうで、西ゴート帝国の北の首都があった所だ。

その後も500年に渡って、ラゼ伯爵領の首都だった。

しかし北方から騎士団(アルビ十字軍のこと。アルビジョア十字軍ともいう)がやってきて、レンヌ=ル=シャトーを占領して掠奪した。

さらにカタラン蛮族も来て、この地は滅ぼされた。

レンヌ=ル=シャトーには、キリスト教カタリ派の財宝伝説や、テンプル騎士団の財宝伝説もある。

5~8世紀に現在のフランスはメロヴィング朝に支配されていたが、メロヴィング朝のダゴベルト2世はレンヌ=ル=シャトーに要塞を築き、財宝を隠したとの文書もある。

紀元70年に、ローマ軍はエルサレムを徹底的に破壊して、ユダヤ教の宝物を奪って持ち去った。

それからだいぶ経った410年に、今度はローマが西ゴート族に攻め落されて、ローマにあった財宝のほとんどが略奪された。

もしかするとソニエールは、元はエルサレムにあり、ローマを落した西ゴート族が入手した財宝を見つけたのかもしれない。

だがそれだけでは、ソニエールが特別扱いされた事を説明しきれない。

前述したヨーハン・フォン・ハプスブルグは、1889年に自分の権力や爵位を捨てて、国外追放された人だが、追放直後に初めてレンヌ=ル=シャトーを訪れている。

ヨーハンは1890年に死んだとされているが、実は1910年か11年にアルゼンチンで亡くなったらしい。

もしかするとソニエールが裕福になったのは、口止め料をもらったのかもしれない。

ソニエールをローマ教会(ヴァチカン)は恐れて、丁重に扱っていた。

ヨーハンからソニエールに渡された大金は、実はヨーハンは仲介役にすぎず、ヴァチカンからのカネだったのかもしれない。

私の関わったBBCのテレビ番組『失われたエルサレムの財宝か?』が1972年2月に放送されると、引退したイギリス国教会の司祭から手紙が来た。

その司祭は手紙に、「イエスは十字架では死なず、紀元44年まで生きていた」と書いていた。

興味をそそられたので、彼に会ったところ、イギリス国教会のアルフレッド・レズリー・リレーから内密に聞いたと言う。

リレーは、多数の著作があり、若い頃にパリでエミール・オッフェとも知り合っていた。

ソニエールはこうした秘密を知り、何かの証拠を得たので、ヴァチカンは恐れたのだろうか。

私たちは、プリウレ・ド・シオン団に関する私的な出版物を、フランス当局の友人やフランス国立図書館を通じて入手した。

その出版物によると、ベランジェ・ソニエールがレンヌ=ル=シャトーの教会で羊皮紙を見つけたのは、プリウレ・ド・シオン団の指示だったという。

1916年にソニエールはシオン団と喧嘩したといいい、本当だとすると翌年1月のソニエールの急死は暗殺の可能性も出てくる。

ソニエールは単なる手先にずぎず、操っていたのは友人でレンヌ・レ・バン村の司祭のアンリ・ブデだった。

ブデは1887年から1915年にかけて、1300万フランもソニエールに渡した。

このカネを使って、ソニエールはレンヌ=ル=シャトーの教会の改築などを行った。

ソニエールがずっと雇っていた家政婦のマリー・デナルノーは、実はブデの手先で、彼女を通じてブデはソニエールに指示していたらしい。

そしてブデの背後には、プリウレ・ド・シオン団がいたようである。

ジャン=ルク・ショーメルが1979年に出版した『黄金の三角地帯の財宝』によると、ベランジェ・ソニエールやアンリ・ブデといった表向きはキリスト教カトリック派の聖職者は、「スコットランド典礼」のフリーメーソンの会員だった。

「スコットランド典礼」のフリーメーソンは、他のフリーメーソンと違って、「キリスト教、ヘルメス思想、貴族(血統)」を重視して、魔術志向をもち、プリウレ・ド・シオン団の下部組織だった。

ショーメルははっきり書いていないが、ソニエールやブデのいたスコットランド典礼のフリーメーソンは、「ヒエロン谷の黄金団」と一体化していたようだ。

「ヒエロン谷の黄金団」は、1873年頃に設立され、世界オカルト政府の樹立を目指していた。

この世界政府の計画には、ハプスブルグ家も関係していたようで、だからこそハプスブルグ家の大公(ヨーハン・フォン・ハプスブルグ)がレンヌ=ル=シャトーを訪れたのだろう。

しかし第一次世界大戦でハプスブルグ家は失脚したため、計画は挫折したらしい。

(※以下は、『レンヌ=ル=シャトーの謎』の1996年版のあとがき(補記)からの抜粋である)

画家のダヴィドは、ナポレオンの宮廷で働き、「皇帝ナポレオンの戴冠式」などの作品で知られている。

1795年頃、ダヴィドはパリの自分のアトリエに、生徒を集めて集会を開いていた。

モーリス・クエイは、この集会の一員で、秘密結社の創設者だった。

クエイは、プリウレ・ド・シオン団の第23代・総長とされるシャルル・ノディエと親友でもあった。

クエイの秘密結社は、ダヴィドのアトリエの上の部屋で会合を開いていたから、ダヴィドが知らなかったとは考えられない。

ダヴィドの生徒には、アルマン・ドープール侯爵がいた。

ドープールは、フランス革命が起きるまでは、レンヌ=ル=シャトーを領有していた。

ドープールは、オープール=ブランシュフォール家の者で、マリー・ド・ネグレ・ダブレ(マリー・ド・ブランシュフォール)の甥にあたる。

マリーの暗号化された墓石は、レンヌ=ル=シャトーの教会にベランジェ・ソニエールが設置したものだ。

レンヌ=ル=シャトーのすぐ近くに、ブランシュフォール城址がある。

アルマン・ドープールは、ナポレオン政権では軍人として働き、その後には復活したブルボン朝の王に仕えて将軍になっている。

彼の叔父ジョセフ=マリーは、マリー・ド・ブランシュフォールの夫だった。

ド・シャンボール伯爵の未亡人は、ベランジェ・ソニエールを支援した。

ソニエールの許を、ヨーハン・フォン・ハプスブルグ大公は毎年のように訪ねているが、ヨーハンは「ド・シャンボール王子」と名乗っていた。

ヨーハンは、自分とシャンボール家が、メロヴィング朝(メロヴィング家)の子孫だという証明書が見つかると期待して、ソニエールを支援していたらしい。

1793年に、フランス王のルイ16世と、その妻マリー・アントワネットは、フランス革命によって処刑された。

この時、ルイ16世の兄ルイと弟シャルルは国外に逃亡した。

その後、皇帝にもなったナポレオンが失脚すると、兄ルイがルイ18世として王位に就いた。

ルイ18世が1824年に死ぬと、弟シャルルがシャルル10世として即位した。

シャルル10世の息子は、1820年に暗殺された。

この息子には子供があり、1821年にド・シャンボール伯爵の爵位を受けた。

つまりド・シャンボールは、シャルル10世の孫で、ブルボン朝の王位継承権があった。

シャルル10世は愚かな君主で、絶対君主制を目指した結果、1830年に革命が起きて退位させられた。

シャルル10世は、孫のド・シャンボール伯がアンリ5世として王位を継ぐのを期待していたが、フランス議会は投票でルイ・フィリップ(ドルレアン公)を王に決めた。

ド・シャンボールは、退位した祖父シャルルと共に、イギリスに移住し、イギリス王から宮殿を提供された。

1836年にシャルルが死去すると、16歳のド・シャンボールに家庭教師としてアルマン・ドープールが付いた。

このときドープールは、ルイ・フィリップの即位に抗議して、軍人を辞めていた。

1846年に26歳のド・シャンボールは、イタリアのハプスブルグ領の領主でモデナ公の姉妹である、マリー=テレーズ・フォン・ハプスブルグ・エステと結婚した。

1848年にフランスで再び革命が起きたが、ルイ・ナポレオンが大統領に選ばれ、4年後にナポレオン3世として皇帝になった。

しかし、1870年に普仏戦争でドイツに負けたため、ナポレオン3世は退位を余儀なくされた。

その後、ド・シャンボールは王位に就くチャンスが訪れた。

1873年10月に、フランス革命の原則と三色旗を受け入れるという条件で、王位が打診された。

しかしド・シャンボールは、絶対君主になるのを求めており、この打診を断った。

それで1875年2月に、フランスで第三・共和政がスタートした。

ド・シャンボールが死去すると、前述のとおり未亡人となったマリーは、親族のヨーハン・ステファン・フォン・ハプスブルグをレンヌ=ル=シャトーに派遣したのである。

ド・シャンボールの未亡人らは、メロヴィング家の子孫がハプスブルグ家だと証明することで、権威を増そうと考えたらしい。

それで証明書を探した。

1914年に第一次世界大戦が始まり、フランスとハプスブルグ家(オーストリア)が交戦状態になると、ベランジェ・ソニエールの立場は危うくなった。

ソニエールをフランス軍事省が調べていたという情報があり、1917年のソニエールの急死はこれが絡んでいるかもしれない。

私たちの著書『メシアの遺産』では、ベランジェ・ソニエールがレンヌ=ル=シャトーの教会で発見した系図が、イギリスに運ばれたと書いた。

私たちが入手した1956年付の文書によれば、系図はロンドンの銀行の貸金庫に預けられた。

1987年9月6日付の『サンデー・タイムズ紙』に、「フランス、イギリス連邦に加盟か」という見出しの記事が載った。

これは、公開された政府文書を、ジョン・ザメチカが調査した結論が書いてある。

第二次大戦中の1940年に、フランスとイギリスを合体して、イギリス王家を両国の君主にする議論が、イギリスとフランス政界の上層部であったらしい。

(※この年は、ナチス・ドイツがフランスを占領した年である)

この話が、1956年に再浮上し、フランス首相のギュイ・モレ(ギー・モレ)が、イギリス首相のアンソニー・イーデンに政治連合を提案した。

モレは、イギリス王室を元首として受け入れると明言したらしい。

だが、イギリスの財務省と外務省が合体に反対した。

そこでモレは、イギリス連邦にフランスが加盟する案を出した。

だがイギリスの反対勢力は、引き伸ばし作戦を図った。

その34日後に、イギリスとフランスの軍が、エジプトのスエズを侵略した。(第二次・中東戦争)

この戦争の大騒動で、イギリスとフランスの合体案は消滅した。

ソニエールが見つけた系図が、1956年にイギリスに運ばれたのは、上の政治事件と関係があったかもしれない。

(2022年12月23~24日に作成
2023年4月18日、5月3日に加筆)


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