(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
ニコラ・プッサンは、レンヌ=ル=シャトーの教会で見つかった暗号文に名前の出てくる画家である。
彼は1594年にフランスの、ジゾールから数マイルの町レ・アンデリで生まれた。
フランスの宮廷画家にもなった人だが、ローマに移住して長く活動し、ローマで死去した。
私たちは、ニコラ・プッサンについて調べてみた。
すると1656年にローマに住んでいたプッサンを、フランスのニコラ・フーケ財務長官の兄弟であるルイ・フーケ神父が訪問していた。
ルイ・フーケは訪問後、次の手紙をニコラ・フーケに送っている。
「プッサンと私は話し合いました。
プッサンのおかげであなたが手に入れる巨利は、フランス王でも取り上げる事は出来ないでしょう。
プッサンによれば、この世でこれ以上の冨は考えられません。」
この手紙を受け取ってほどなく、ニコラ・フーケは逮捕されて、死ぬまで獄中で過ごすことになった。
正体不明の鉄仮面をつけた囚人は、フーケだったと考える歴史家もいる。
フーケの逮捕が逮捕されたのは1665年だが、その年にニコラ・プッサンは亡くなった、
それから数年間フランス王(ルイ14世)は、プッサンの描いた絵画「アルカディアの牧童」を探させた。
そして入手すると、それを自らの住むベルサイユ宮殿の私室にしまい込み、誰にも見せなかった。
この絵画は、3人の牧童と1人の少女が、墓石の前に集まって、墓に刻まれた文字を見ている。
この墓が実在のものだと、1970年代に突き止められた。
墓はアルク村の郊外にあり、6マイルの距離にレンヌ=ル=シャトーがある。
「アルカディアの牧童」に描かれた背景の山頂の1つは、レンヌ=ル=シャトーである。
「アルカディアの牧童」の墓石には、「そして、アルカディアにて我」(ET IN ARCADIA EGO)と彫られている。
これを並び換えると、「立ち去れ!私は神の秘密を隠した」(I TEGO ARCANA DEI)になる。
(※これはラテン語だが、Iが立ち去れ!の意味になるらしいが、そこだけ確認できなかった)
プッサンは、「フロンドの乱」に深く関与した。
彼の手紙を読むと、反マザランの運動に加わり、多数のフロンド党員と親しかったのが分かる。
プッサンの絵にある「アルカディアにて我」という文は、彼の初期の絵にも登場しており、1630年頃のもので、有名な「アルカディアの牧童」の10年前の作品である。
「アルカディアにて我」という言葉は、ジオヴァンニ・フランセスコ・グエルチーノの1618年頃の作品にも描いてある。
この作品は、2人の牧童が森で墓石に出くわすもので、その墓石の上には頭蓋骨がのっており、墓石にこの言葉が彫られている。
グエルチーノは、フリーメーソンについての作品もあり、「親方の復活」という絵を描いている。
プリウレ・ド・シオン団について書いた文書によると、「アルカディアにて我」は、ジャン・ド・プランタールがイドワーヌ・ド・ジゾールと結婚した12世紀に、プランタール家の家銘になった。
イドワーヌは、シオン団の初代総長であるジャン・ド・ジゾールの妹である。
イングランドのアンソン家のシュグボローの領地には、1761~67年にかけて大理石に彫られた絵が残っている。
この絵は、プッサンのアルカディアの牧童を裏返しにした複製になっていて、謎の文字が彫り込まれている。
(2022年12月24日、2023年3月12日に作成)