タイトル新約聖書・福音書の信頼性は高くない②
当時のユダヤ教徒の状況と、4つの福音書

(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)

イエスが生まれる前のパレスチナは、血の闘争や戦争にあふれていた。

旧約聖書・外典のマカベア書にあるように、前2世紀に統一ユダヤ王国がつくられたが、前63年にはローマ軍の支配下に入れられた。

ポンペイウスのローマ軍がパレスチナに攻め込んで、ローマ支配が押し付けられたのである。

ローマ軍は、パレスチナを征服すると、傀儡政権をつくり、アラブ人のヘロデ家を王位に就けた。

初代のヘロデ王であるアンティパスが王位に就いたのが、前63年である。

アンティパスは前37年に亡くなり、息子のヘロデ大王が継いだ。

傀儡政権下のパレスチナ人は、独自の宗教と慣習は許されたが、ローマ法の下でローマ兵に支配された。

後6年になると、パレスチナは1属州と4分割の2領に分けられた。

それでヘロデ・アンティパスはガラリヤ地方の領主となった。

首都のユダヤは、ローマの行政長官が直接に統治した。

ローマ帝国の統治は残虐で、3千人以上が一斉に十字架にかけられて処刑された事もある。

パレスチナ人には重税が課されて、拷問は日常的に行われ、多数の自殺者が出ていた。

ポンティアス・ピラトがユダヤの行政長官だった26~36年も、状況は同じだった。

新約聖書の福音書に書かれたピラトと違い、現存の歴史記録にあるピラトは残虐と腐敗の人である。

福音書にローマ支配の苛酷さが出てこないのは、削除されたからである。

イエスの生きていた当時、ユダヤ教徒のサドカイ派は、少数の富裕な地主階級で構成され、ローマ帝国と結ぶ売国奴と見られていた。

一方、パリサイ派は進歩的な改革派で、ローマ支配に頑強に抵抗していた。

エッセネ派は、秘儀の志向が強かったが、広く普及して影響力もあった。

他にも多くの党派があった。

イエスとその追従者たちは、「ナザレ教徒」と呼ばれていた。

聖書のギリシア語の原本には「ナザレ教徒イエス」とあるが、英語版になる時に「ナザレ人イエス」と誤訳されてしまった。

ナザレ教徒も、ユダヤ教の一宗派である。

後6年にローマ軍がユダヤの直接支配を始めたとき、ガラリヤのユダというパリサイ派のラビが、後に「熱心党」と呼ばれることになる、ローマ支配を打倒するための軍事的な集団を創設した。

これには、色んな宗派の人が参加した。

イエスが布教活動をした時期も、イエスが十字架にかけられた後も、熱心党は活動していた。

66年に、ついにユダヤ教徒たちが立ち上がり、ローマ支配に反乱を起こした。

それでカエザリアだけでも2万人のユダヤ教徒が、ローマ軍に虐殺された。

4年後(70年)にローマ軍はエルサレムを占領し、ソロモン神殿を襲って略奪した。

それでもマサダの山岳要塞は、それから4年もローマ軍と戦い続けた。

このユダヤ教徒の独立戦争は、失敗に終わり、大量のユダヤ教徒がパレスチナから脱出した。

パレスチナに残ったユダヤ教徒たちは、132年にも再び反乱を起こしている。

135年にローマ帝国のハドリアヌス帝は、ユダヤの地からユダヤ教徒が全員出て行くように命じ、エルサレムはアエリナ・カピトリーナと改名された。

以上のように、当時のユダヤ教徒は虐げられており、彼らはメシアを求めていた。

彼らにとってメシアは、ダビデの家系の者で、それは「油を注がれた者」と呼ばれていた。

つまりメシアとは、ダビデの子孫で、油を注がれたユダヤ王のことだった。

後にキリスト教が主張した、「神の息子」という意味とは、全く違っていた。

多くの研究により、新約聖書にある4つの福音書は、イエスの生きた時期に書かれたものではないと、明らかになっている。

一番早く書かれたのはマルコ福音書と考えられており、ユダヤ教徒の第1回・反乱があった66~74年か、その少し後に書かれたと考えられる。

ちなみにマルコは、イエスの直弟子ではなく、エルサレムの出身らしい。

おそらく彼は、パウロの従者になった人で、パウロ的な考え方が記述に見られる。

マルコ福音書が書かれた時期は、ユダヤ教徒が反乱を起こした時期であり、多くのユダヤ教徒がローマ軍に虐殺されていた。

だからマルコは、自分の文章を残すために、イエスを政治的な人と書かず、イエスの死の罪をローマ人に着せることもしなかったのだろう。

むしろイエスの死の罪を、ユダヤ教徒に被せた。

こうしなければ、マルコ福音書は生き残れなかったのだ。

一方、ルカ福音書は80年頃に書かれたとされており、ルカはおそらくギリシアの医者である。

ルカ福音書は、パレスチナにいるローマ人の高級官僚に向けて書かれたとされている。
従ってルカも、ローマ人を悪くは書けなかった。

マタイ福音書が書かれた85年頃は、「イエスの死はユダヤ教徒のせい」という罪のなすり付けが定着してきて、もう疑問を持たれなかった。

マタイは最初からギリシア語で書かれており、内容の半分以上はマルコのパクリである。

著者はおそらくパレスチナから避難してきた、元ユダヤ教徒である。

このマタイを、イエスの直弟子のマタイと混同してはならない。

マルコ、ルカ、マタイの3福音書を、1つの目で見たとする「共観福音書」と呼ぶが、実際は共通の出典に頼っているが、同じ内容ではない。

ヨハネ福音書は、異なる出典のもので、著者について何も分かっていない。

実のところ、著者名をヨハネとする根拠もない。

100年頃に、ギリシア人の都市エフェソスの近郊で書かれたらしい。

ヨハネ福音書は、イエスの降誕の場面がなく、文頭からグノーシス的である。

他の福音書では、イエスの活動は北部のガラリヤ地区が主だが、ヨハネはガラリヤにほとんど言及せず、ユダヤとエルサレムの活動に集中している。

ヨハネ福音書には、他では書かれていないエピソードが多く、学者の多くは「4つの福音書のうち、歴史事実として最も信頼できる」と見ている。

一番あとに書かれたものだが、真正のイエスの伝承を著者は知っていたと思われる。

私たちも、ヨハネが最も信頼できると考える。

もちろん、ヨハネも削除や改変は行われているだろう。

(2023年4月26日に作成)


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