(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
マグダラ(※マグダラのマリア)は、中世の伝説では、「聖杯」をフランスに持ち込んだとされている。
私たちは、有名な聖杯物語たちを分析した結果、聖杯は「ユダヤ王家の血筋」を意味すると考えた。
新約聖書の福音書に出てくるマグダラは、実はイエスと結婚していたのではないか。
そしてイエスが十字架にかけられた後に、イエスの子を連れてフランスに移住し、ユダヤ教徒の共同体で暮らしたのではないか。
このイエスの血脈が続き、5世紀にフランク人の王族と結ばれて、メロヴィング朝になったのではないだろうか。
メロヴィング朝とローマ教会の協定は、メロヴィング朝がイエスの子孫ならば理解しやすい。
そしてローマ教会が絡んだ、メロヴィング朝のダゴベルト2世の暗殺について、ローマ教会が歴史から抹殺しようとした事も説明がつく。
私たちは、この仮説の証明となるものを求めて、調査にとりかかった。
イエスとマグダラが結婚していたという説は根強くあるが、その事を示す記述が新約聖書の福音書にあるのだろうか。
オックスフォード大学のゲザ・ヴァーメッシ博士は、こう指摘する。
「福音書は、イエスの結婚について沈黙している。
これはユダヤ民族では極めて異例で、よく調べないといけない。」
イエスは、独身主義ではなかった。
その証拠に、マタイ福音書では「創造主は初めから男と女をお造りになった。人は妻と結ばれて二人は一体となる」と語っている。
当時のユダヤ教徒にとって、結婚するのは当然で、エッセネ派を除けば独身主義を厳しく非難していた。
ユダヤ教徒の父親にとって、息子に妻を見つけてやるのは、義務であった。
だからイエスが結婚していなければ、異様に目立ったはずで、当然ながら福音書も触れたはずである。
その言及がないという事は、イエスが結婚していたと考えるべきである。
イエスが結婚していた事は、彼がしばしば「ラビ」と呼ばれている事からも説明がつく。
イエスが厳格な意味のラビならば、結婚していなければならない。
ユダヤ教のミシュナー法は、「結婚していない男は、教師(ラビ)になれない」としている。
ヨハネ福音書にある「カナの婚礼」は、イエスの結婚の話かもしれない。
カナの婚礼は、村落の結婚式だが、新郎も新婦も不明である。
イエスはこの結婚式に呼ばれたが、彼はまだ伝道を始めていない時で、不思議なことに彼の母も同席している。
しかも、母がそこにいるのは当然のように書いてある。
途中で母マリアは、イエスに「ぶどう酒が足りなくなったので、何とかしろ」と指示する。
マリアは、その場の召し使いたちにも当然のように指示している。
ここでイエスは、水をぶどう酒に変える奇跡を行った。
マリアとイエスが結婚式の客ならば、わざわざ奇跡を起こしてまで酒を用意するのは不思議である。
だがイエスの結婚式ならば、酒をきらさない配慮は当然だ。
カナの婚礼でイエスが奇跡を行った直後、宴会の世話役は新しい酒を味見して、花婿にこう言った。
「始めに良い酒を出し、(お客に)酔いが回ったら劣った酒を出すものですが、あなたは良い酒を今まで取って置かれた。」
この言葉はイエスに向かって言われているから、花婿はイエスなのである。
福音書において、イエスの妻と思われる女は、2人いる。
マグダラのマリアと、ベタニアのマリアである。
マグダラは、ガラリヤのミグダル村(マグダラ村)出身のマリアのことである。
ルカ福音書では、マグダラはイエスの伝道の初期から同行している。
当時のパレスチナで、未婚女性が旅をするとか、夫ではない宗教指導者やその弟子と一緒に旅をすることは、考えられない。
ルカ福音書にマグダラが登場する時、「7つの悪霊が出て行った女性」と書かれている。
イシュタルやアスタルテを信奉する宗教では、7段階の入会儀式があったから、マグダラはそこから改宗した人なのかもしれない。
ルカ福音書では、マグダラが登場する前に、イエスに油を注ぐ婦人が登場する。
ルカはその女を、「堕落した女性」「罪人」とするが、マグダラがまだ異教の信者だったと考えると、彼女だったと説明がつく。
イエスへの塗油は、福音書でも強調されているが、「油を注がれた者」がユダヤの慣習では王の証であった。
イエスは塗油で、メシア(ユダヤ教徒の王)になったのである。
マグダラは、ヘロデ王の宮廷の高官の妻と友人で、裕福な女だった。
彼女は、イエスと弟子たちを財政面で支援している。
またマグダラは、イエスが十字架にかけられて死んだ後、空になった墓を見つけた人で、復活したイエスが最初に接触したのも彼女であった。
一方、ベタニアのマリアは、ヨハネ福音書で目立つ女性である。
彼女の一家は、エルサレム郊外に大邸宅を持ち、マリアには「マルタ」という姉妹と、「ラザロ」という兄弟がいた。
ラザロたちは、自分の家族の墓を持っていたが、当時はかなりの贅沢で、貴族とつながる特権だった。
ヨハネ福音書では、ラザロが病気になり死ぬが、イエスが蘇らせる。
ラザロが病発した時、イエスは(ラザロたちが暮らす)ベタニアを離れていて、近くに滞在していた。
イエスは急報を受けると、奇妙なことに動かず、そこに2日間も留まり、ラザロが墓に入ってから戻ってきた。
イエスが戻ると、マルタは走り寄ってくるが、マリアは家の中に留まっていて、イエスが命じるまで出てこなかった。
ユダヤ教徒の慣習では、兄弟が亡くなると喪に服するが、夫が命じないと家から出られない。
マリアが家にいて、イエスが命じるまで出てこなかったのは、夫婦関係を示している。
イエスとマリアが夫婦だったのは、ルカ福音書でも暗示されており、こう書いてある。
「イエスがある村に入ると、マルタという女が家に迎え入れた。
マルタには、マリアという姉妹がいた。
マルタはもてなすために立ち働いたが、イエスに対し『主よ、マリアにも手伝うように言って下さい』と言った。
イエスは、『マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない』と答えた。」
マグダラのマリアと、ベタニアのマリアは、同一人物ではないだろうか。
さらにイエスに油を注いだ女も、同一人物だと思える。
実際にヨハネ福音書では、油を注いだのはベタニアのマリアと明記している。
マリアは、イエスの足に香油を塗り、自分の髪でぬぐっている。
マリアがイエスの妻だとすると、ラザロはイエスの義兄弟になる。
ラザロが出てくるのはヨハネ福音書だけだが、死んだのを蘇らせてもらうなど、イエスと親密である。
後に祭司長がイエスを殺すと決めた時、ラザロも殺そうとした。
ラザロは、イエスの十字架刑を見ていないようだが、身を隠していたのかもしれない。
ここで、ラザロの蘇りを詳しく見てみよう。
ラザロが病発した時、急使はイエスに「あなたの愛しておられる者が病気です」と伝えた。
するとイエスは、陽気な態度で「この病気は死で終わるのではない。神の子(イエス)がそれによって栄光を受けるのである」と、謎の返事をした。
ラザロは死んでしまったが、イエスはラザロの墓に行く時も、「友ラザロが眠っている。私は彼を起こしに行く」と言った。
イエスの弟子の反応も異常で、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに「私たちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
コロンビア大学のモートン・スミス教授は、この異常な展開について、『何かの秘儀であり、ラザロの入会儀式だった』と解説する。
こうした儀式は、当時のパレスチナで広く行われていたという。
死と再生の儀式である。
ラザロはこの時、弟子たちよりも優先的な扱いを受けているように見える。
入会の儀式だと考えると、イエスの冷静ぶりや、弟子たちが一緒に死のうと言った事の説明がつく。
しかしラザロの姉妹であるマルタとマリアは、全く知らされていなかったようで、完全に取り乱している。
ヨハネ福音書の著者は、誰なのか明らかにされていないが、自らを「イエスの最愛の弟子」、「イエスの愛した者」と書いている。
最後の晩餐の時も、こう描写している。
「イエスのすぐ隣に、イエスの愛する者が着席していた。
シモン・ペテロはこの弟子に、イエスは誰について言っているのか尋ねるよう、合図した。
そこでこの弟子は、イエスの胸元に寄りかかったまま、『主よ、それは誰のことですか』と言った。
イエスは、『私がパン切れを浸して与える人だ』と答え、ユダにお与えになった。」
この「イエスの愛する者」とは、ヨハネ福音書を読み込むと、ラザロであると分かる。
つまりラザロこそが、ヨハネ福音書の著者である。
(※実際に書いた人は違うだろうが、ラザロの視点で書かれている。)
最愛の弟子とラザロが同一人物ならば、イエスの十字架刑に最愛の弟子は立ち会っているから、ラザロも居たことになる。
最愛の弟子がラザロならば、ヨハネ福音書のこの話も納得できる。
「イエスは、母マリアとその側にいる愛する弟子(ラザロ)を見て、母には『ごらんなさい、あなたの子です』と言い、弟子には『見なさい、あなたの母です』と言った。
その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」
イエスの弟子は皆ホームレスだったが、ラザロは前述のようにベタニアに大きな家を持ち、イエスはよく滞在していた。
そしてイエスとラザロは義兄弟である。
イエスは、ヨハネ福音書の最後で、こうも言っている
「ペトロは、イエスの愛する弟子を見て、『主よ、この人はどうなるのですか』と尋ねた。
イエスは言った。『私が来る(戻ってくる)時まで、彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。』
それで、この弟子は死なないという噂が広まった。
これらの事を証言し、書いたのは、この弟子である。」
イエスは十字架刑の前、エルサレムに入る時、旧約聖書が預言するメシアのように、ロバに乗って入場することにした。
ルカ福音書によれば、イエスは2人の弟子をベタニアに送り、そこでロバを見つけるだろうと言った。
ベタニアでロバを用意したのは、ラザロではないだろうか。
ヒュー・ションフィールド博士は、「イエスのエルサレム入場は、ラザロに計画が託されて、他の弟子たちは何も知らされてなかった」と分析している。
ベタニアは、イエスが一部の者と儀式を行う場所だったのかもしれない。
そう考えると、レンヌ・ル・シャトーの秘密文書に絡むベランジェ・ソニエールが、自分の別荘をベタニア荘と名付けたことも理解できる。
伝説では、イエスの母マリアは逃亡先のエフェソスで亡くなり、後にエフェソスでヨハネ福音書が書かれたという。
ヒュー・ションフィールド博士は、どこかで書かれたヨハネ福音書が、エフェソスのギリシア人の手で改変・編集されたと見ている。
伝承によると、ラザロ、イエスの妻マリア、マルタや、アリマタヤのヨセフたちは、(イエスの処刑後に)船でフランスのマルセイユに逃げたという。
そしてヨセフは、聖ピリポに聖別されて、イギリスに送り出され、グラストンベリーに教会を建てた。
一方、ラザロとマリアはゴールに留まり、ラザロは最初の司教座を設置してからマルセイユで死去したという。
彼らの連れの1人、マキシミは、ナルボンヌに司教座を設置したという。
※以下は、1996年版のあとがきに書いてある補記からの抜粋である。
私たちの書いた『メシアの遺産』では、イエスの家族と弟子たち「ナザレ教徒」が、パウロの思想に基づいたローマ教会と対抗しつつ、存続したことを説明した。
ナザレ教徒たちは、パレスチナにおけるユダヤ教徒の反乱(※ローマ帝国の支配に対する反乱)が失敗すると、エジプトや東欧などに逃げた。
逃げた一部が中東のキリスト教コプト派となり、ナグ・ハマディー文書にあるグノーシス派の福音書を書いたのである。
7世紀にイスラム教が創られて、イスラム教徒が勢力を伸ばすと、8~9世紀にナザレ教徒の子孫はイタリアのシシリー島やカラブリアの修道院に文書を持って逃げた。
これを考えると、カラブリアから来た修道僧たちが建てたオルヴァルの修道会に、真のイエスに関する情報があったとしても不思議はない。
(2023年4月26&28日に作成)