(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
イエスが十字架刑で死ななかった、あるいは十字架刑がごまかしだったという説が、古くからある。
その証拠はあるのだろうか。
イエスの十字架刑は、実は謎が多い。
ローマ法の十字架刑は、手だけで吊るされては息が出来ない(※胸に圧力がかかり、すぐに死ぬ)ので、十字架に足を打ちつけた。
この状態だと、健康な男ならば1~2日は生き続ける。
死ぬまで1週間かかることもあった。
この苦痛の刑は、足の膝頭を砕けば、終わらせることができた。
膝を折ると、すぐに窒息死となる。
現代の聖書学者たちは、ヨハネ福音書だけが十字架刑の場面を正確に書いており、刑の証人(目撃者)による記述と見ている。
そしてヨハネ福音書では、イエスは膝を折られなかったのに、たった数時間で死亡した。
マルコ福音書では、「ピラト・ローマ総督は早すぎる死に驚いた」と書いている。
ヨハネ福音書では、イエスは脇腹を槍で刺される前に死んでいる。
処刑人がイエスの膝を折って早く死なせてやろうとする寸前に、イエスは死んだ。
イエスの死のタイミングは完璧で、計画があったと考えられる。
イエスは十字架に吊るされると、喉が渇くと叫んだ。
差し出されたのは酢に浸されたスポンジで、当時これはガレー船をこぐ奴隷が弱った時に、気付け薬としてよく用いられていた。
ところがイエスは、気付け薬を使ってすぐに、息を引き取っている。
この事は、気付け薬ではなく、催眠薬だったならば理解しやすい。
イエスは死んだように見せかけて、命を救われつつ、旧約聖書のメシアの預言を実現させたのではないか。
イエスは、ゴルゴタで十字架に吊るされたが、伝承ではこの場所は骸骨の形をした不毛の丘とされている。
だがヨハネ福音書では、イエスが十字架刑となった所には園があり、誰も葬られていない新しい墓があった。
マタイ福音書によると、この墓は、裕福なイエスの弟子であるアリマタヤのヨセフが所有していた。
通説では、イエスは大勢の人々が見物する中で処刑されたと言われている。
しかし福音書では、ほとんどの人は遠く離れた所から眺めており、私有地で行われた内輪の十字架刑であった。
多くの学者は、処刑場所はゲッセマネの園と分析している。
ゲッセマネの園が私有地ならば、偽の死でごまかす余地もあるだろう。
イエスの死が偽のごまかしならば、ピラト総督の共謀が不可欠である。
史実のピラトは、残虐な男だが、賄賂に弱い男でもあった。
史実のピラトは、福音書が描く人柄と違い、高潔な人ではなかった。
ピラトは、イエスの遺体をアリマタヤのヨセフに渡している。
ローマ法では、ローマ帝国に反逆して十字架刑になった者は、埋葬が禁じられていた。
そのまま十字架に放置され、鳥獣に荒らされることになっていた。
ピラトがローマ法を守らず、イエスが死ぬと直ちにヨセフに与えたのは、ピラトの共謀の証明である。
アリマタヤのヨセフは、エルサレムのユダヤ共同体を支配する長老協議会「サンヘドリン」のメンバーだった。
またヨセフは、後世の伝説ではイエスの血縁だったとされる。
ヨセフは裕福なので、ピラトに賄賂を渡せたろうし、イエスと血縁ならば死体をもらい受けるのも自然である。
イエスの十字架刑は、賄賂に弱いピラト総督と共謀して、一般人の入れない私有地で行われた。
そして身代わりが十字架刑にかけられたか、イエス本人がかけられたが見せかけの死が仕組まれたのだ。
ぼんやりとしか見えない夕暮れ時に、イエスは死んだとされて、隣接する墓に運ばれたが、死体は姿を消すのである。
この筋書は、キリスト教の教えとは違うが、キリスト教の聖書は削除と改変を経て編纂された事を忘れてはいけない。
イエスは生き延びたと思われるが、その後にどうしたかは様々な説がある。
新約聖書に入れられなかった作品は、「外典」と呼ばれるが、その1つに180年にアンティオキアの司教が引用している「ペトロ福音書」がある。
ペトロ福音書の写本が、1886年にナイル川の上流の渓谷で見つかった。
ペトロ福音書では、アリマタヤのヨセフは、ローマ総督ピラトの親友である。
これが本当ならば、虚偽の十字架刑だった可能性は高まる。
なおペトロ福音書では、イエスの埋葬場所は「ヨセフの園」である。
ちなみに外典には、「幼児イエス・キリストの福音書」もある。
ここでは子供時代のイエスが登場するが、無分別な子で、子供や指導者を殴り殺している。
余談になるが、イスラム教の聖典であるコーランは、「イエスは十字架刑で死ななかった」と書いている。
イスラム教の注釈では、イエスの代わりにクレネ人シモンが十字架刑で死んだ。
(2023年4月29日に作成)