(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
イエスが語った教えは、ユダヤ教のパリサイ派の教義が多く含まれていた。
さらにユダヤ教エッセネ派の思想も多く含んでいた。
イエスとその側近たちの目的は、(ユダヤ王家の血を引く)イエスを王位に就けることだった。
しかし一般信者たちの目的は、イエスのお告げと約束の実現だった。
この2つの派閥を区別することが重要である。
イエスを王位に就ける運動が、(イエスが重罪で十字架刑になり)失敗に終わると、2つの派閥は分裂した。
キリスト教という新興宗教は、イエスのお告げの信者たちが作り出した。
この新宗教では、イエスの死(処刑)におけるローマ帝国の役割は消されて、ユダヤ教徒に罪が被せられた。
ローマ帝国ではすでにカエサル(皇帝)が神の座に据えられていたので、(ローマ帝国内で布教するにあたり)カエサルと競うためにパウロはイエスを神に仕立てた。
当時のヨーロッパや西アジアでは、死んでは復活する神が常識だったので、イエスも復活したことになった。
同じ理由で、処女懐胎も教義となった。
イエスを神に仕立てるには、イエスの家族や、イエスがユダヤ王家の者だった事は、邪魔だった。
そこで、マグダラのマリアがイエスの妻である事や、イエスと熱心党やエッセネ派との繋がりが、福音書(イエスの記録)から削除された。
イエスが、ユダヤの国を復活させようとした事(ユダヤ教徒の独立運動をした事)、それに失敗した事は、メシアに相応しくない。
だからイエスの政治的な面は、削除された。
キリスト教にとって、イエスの親族や子孫たちは、目ざわり以上の存在になった。
イエスの実像を知っているため、キリスト教の作ったイエスの神話にとって脅威だった。
そこで初期のキリスト教は(パウロの頃から)、イエスの家族をユダヤ教徒という理由で非難し、黙らせてしまった。
キリスト教は、ローマ人に迎合してイエスを神格化し、ユダヤ教徒に罪を被せることで、成長していった。
このキリスト教カトリック派の路線は、180年頃のリヨン司教であるエイレナイオスによって確固となった。
エイレナイオスは、著書『異端駁論』で、自分と違う考えを異端として弾劾し、「真の教会は1つしかなく、それ以外で救いは得られない」と主張した。
エイレナイオスは、カトリック教会を提唱し、様々なイエスについての作品(福音書)をふるいにかけて、自らの考えに合うものを選び、正典を編纂した。
これが、現在の新約聖書の基盤になっている。
キリスト教の発展において、ローマ帝国のコンスタンティヌス帝の役割は、意図的に歪曲されて伝えられてきた。
8世紀に偽造された『コンスタンティヌス帝の寄進』という文書により、人々は騙されたのである。
(※この偽文書は、312年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝が、王権をローマ司教に与えて、ローマ教会が王の任命権を得たとしている。)
ローマ教会は、「コンスタンティヌス帝はキリスト教に改宗して、重要な戦争に勝利した」と、ずっと宣伝してきた。
だがコンスタンティヌスが最初に改宗したのは、太陽神を崇める宗教で、太陽神ソル・インヴィクタスを信奉したのである。
彼は生涯を通じて、太陽神の祭司長としてふるまっていた。
彼は「太陽皇帝」と呼ばれて、貨幣にソル・インヴィクタスが彫られた。
彼は死の床につく337年まで、キリスト教の洗礼を受けなかった。
太陽神の崇拝は、本質的には一神教で、キリスト教カトリック派と多くの共通点があった。
そこでカトリック派は、太陽神崇拝を真似て、キリスト教の普及を進めた。
例えば321年にコンスタンティヌスが出した勅令では、日曜日を休息日とするように命じた。
それまでキリスト教は、ユダヤ教を受け継いで土曜日を安息日にしていた。
それが勅令を機に、聖日を日曜日にした。
さらに4世紀までは、イエスの誕生日は1月6日に祝っていたが、太陽神崇拝の最重要日が12月25日なので、その日に変更した。
さらにキリスト教カトリック派は、ミトラ教も真似て、ミトラ教が強調する霊魂の不滅、最後の審判、死者の復活を取り入れた。
コンスタンティヌス帝は、各宗教の統一を目指して、太陽神が地上に姿を現したものとしてイエスを認可した。
コンスタンティヌスはキリスト教の教会を建てて、母神キュベレと太陽神ソル・インヴィクタスの彫像を置いた。
要するに、コンスタンティヌスは模範的なキリスト教徒ではなかった。
その伝承は後世に作られた偽の話である。
コンスタンティヌスにとって大事だったのは、宗教の統一による自己権力の確立だった。
コンスタンティヌスは325年に、ニカイア公会議を召集し、この会議で「イエスは神である」と定められた。
その1年後にコンスタンティヌスは、イエスについて、異端と考える全ての著作の没収と破棄を命じた。
コンスタンティヌス帝は、331年に、聖書の編纂を委託した。
これより30年ほど前の303年に、ディオクレティアヌス帝の命令で、キリスト教の文書は見つけしだい破棄されていた。
そのためローマにはキリスト教の文書がほとんど残っておらず、カトリック派が好きなようにキリスト教を改変したり福音書などを改作できる状況だった。
新約聖書と呼ばれるものは、4世紀にローマ帝国と結んだキリスト教カトリック派が、この様な経緯で編纂したものである。
(2023年4月29日に作成)