タイトルユダヤ教のエッセネ派と、異端とされてしまった福音書たち

(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)

イエスが生きていた当時、エッセネ派はユダヤ教の重要な一派だった。

だが新約聖書の福音書では、エッセネ派のことがほとんど出てこない。
これは意図的に消されたと思われる。

エッセネ派は、グノーシス思想の二元論に傾倒し、痛しの技術を持ち、禁欲主義をとった。

彼らは、一目で分かる簡素な白い服を着ていた。

クムランで発見された「死海文書」は、エッセネ派の残したものと考えられるが、多くの点でイエスの教えと一致している。

死海文書を見ると、イエスはクムランの共同体を知っていて、その教えを取り入れたと思われる。

イエスが行った癒しも、エッセネ派を思わせる。

イエスが十字架刑になり、遺体となって埋葬されて、墓から消えた時、墓には白い衣服の人物がいた。

マタイ福音書では「雪のように白い衣を着た天使」、マルコ福音書では「白い長い衣を着た若者」、ルカ福音書では「輝く衣を着た2人の人」、ヨハネ福音書では「白い衣を着た2人の天使」と書かれている。

これは、エッセネ派の人だったと考えることもできる。

エッセネ派の持っていた癒しの技術を考えれば、イエスが十字架から降ろされた後に、わずかな望みをかけて癒しを行ったのかもしれない。

一般的には、熱心党とエッセネ派は相容れないと考えられている。

しかし熱心党は宗派ではなく、ローマ帝国の軍事支配と戦う、政治的な軍事集団で、そこには多数のエッセネ派も参加していた。

熱心党とエッセネ派の結びつきは、ヨセフスの著作を読むと分かる。

ヨセフスことヨセフ・ベン・マタイは、西暦37年にユダヤ貴族の息子として生まれた。

彼は、66年にユダヤ教徒がローマ軍に対して反乱した時、ガラリヤ知事に任命され、ローマ軍と戦った。

しかしすぐに捕虜となってしまい、ローマ帝国に寝返った。

そしてローマ風にフラウィウス・ヨセフスと名乗り、ローマ市民となった。

彼は前妻と離婚して、ローマ人の新妻をもち、ローマ皇帝から協力の見返りとしてユダヤ教徒から奪った土地などを与えられた。

ヨセフスは、著書『ユダヤ戦記』で、ユダヤ教徒がパレスチナで66~74年に行った反乱を書いている。

74年のマサダ要塞(※ユダヤ教徒たちが立てこもった要塞)の陥落も書いているが、ヨセフスは74年4月のマサダ陥落時に、ローマ軍と共に入場したらしい。

生き残った女と子供から話を聞いたとして、ユダヤ教徒たちが陥落時に集団自殺したと書いている。

マサダ要塞は、熱心党が守っていた要塞だが、指導者のエリアザルの演説を読むと、エッセネ派やグノーシス派と同じ思想である。

魂の不死、死による神との一体化、人生を悪と見なすこと、で一致している。

19世紀になってから、ロシアで他の版と異なるヨセフスの著作が見つかった。

これは「スラヴォニア版ヨセフス」と呼ばれているが、イエスのことを「人間の政治革命家、統治しなかった王」と書いている。

3世紀のキリスト教の教父オリゲネスは、イエスのメシア性を否定するヨセフスの版があるとほのめかしている。

これがスラヴォニア版ヨセフスの下敷きになったと考えられる。

初期のキリスト教では、様々な考え方やイエスについての解釈があった。

初期のキリスト教で影響をもった指導者の1人に、アレクサンドリア生まれのヴァレンティノスがいる。

彼は、イエスの秘密の教えを知っていると主張し、「個人的な霊的体験があらゆる階級制度に優越する」として、ローマ帝国に屈しなかった。

他にもマルキオン司教は、新約聖書の編纂を初めて行った人だが、旧約聖書の内容は全て外した。

マルキオンに対抗するため、リヨンのエイレナイオス司教も聖書を編纂し、これが今日の新約聖書の基になった。

アレクサンドリアの学者バシレイデスは、24を超える福音書を読み、120~130年に書いた本でその注釈を書いたと言われている。

エイレナイオスの著書によると、バシレイデスは「イエスの十字架刑はごまかしで、イエスの代わりにクレネ人シモンが犠牲になった」と主張していた。

ちなみに7世紀に成立した、イスラム教の聖典であるコーランも、「クレネ人シモンがイエスの身代わりとして十字架につけられた」と書いている。

エジプトのアレクサンドリアは、ローマ帝国において第2位の大都市で、色々な宗教や情報が集まった所だった。

パレスチナでユダヤ教徒が、66~74年と132~135年にローマ帝国に対して反乱を起こした時、多数のユダヤ教徒やキリスト教徒がアレクサンドリアに避難してきた。

だから、エジプトに初期キリスト教の重要な情報が入ってきたのは、当然だった。

そのエジプトで見つかった重要文書が、「ナグ・ハマディー文書」である。

1945年12月に、エジプトのナグ・ハマディーで、壺に入ったパピルス文書や古写本が見つかった。

これを持ち出して闇市場に売った者がおり、一部はC・G・ジャン財団が購入した。

そこには「トマス福音書」が含まれていた。

1952年にエジプト政府は、残りのナグ・ハマディー文書を国有化した。

1961年には全文書の複写と翻訳が許された。

1972年に最初の写真複写版が出版され、77年に全文書の英語訳が出版された。

ナグ・ハマディー文書は、グノーシス思想の聖書群で、「トマス福音書」の他にも、「真理の福音書」、「エジプト人の福音書」などがある。

これらは、初期キリスト教の教父たちが著作で言及していたものだ。

これらの福音書には、新約聖書に収録された4つの福音書より古いものがあるかもしれない。

ナグ・ハマディー文書は、後にキリスト教を支配したローマ教会の検閲や改変がないもので、エジプト人のために作られているのでローマ人に向けた福音書(新約聖書の福音書)に見られる偏見も入っていない。

ナグ・ハマディー文書の「大いなるセトの第二の論考」は、イエスは身代わりを使って十字架刑を逃れたと書いている。

「私(イエス)ではなく、十字架を背負ったのはシモンである。それを見て、私は彼らの無知を嘲笑っていた。」

ナグ・ハマディー文書の「マリア福音書」では、マグダラのマリアがイエスに愛されて、他の弟子が知らないイエスの言葉を知っていたと書いている。

「フィリポ福音書」では、こう書いてある。

「3人は、いつもイエスと一緒に歩いていた。

母マリアと姉妹、そしてマグダラである。

イエスは、他の弟子よりもマグダラのマリアを愛し、しばしば彼女に口づけをした。

他の弟子たちはこれを見て怒った。」

「フィリポ福音書」の最後には、こうある。

「イエスは人の子で、イエスには息子がいる」

こうしたイエスの結婚や息子の存在を示す文書は、ローマ教会(キリスト教カトリック派)が学問や教義を独占するにつれて、失われてしまった。

(2023年4月30日に作成)


NEXT【次のページ】に進む

BACK【前のページ】に戻る

目次【キリスト教の歴史】 目次に戻る

目次【宗教・思想の勉強】 目次に行く

home【サイトのトップページ】に行く