(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
〇マニ教
マニ教は、キリスト教グノーシス派にゾロアスター教とミトラ教を混ぜたもので、マニという人が創始した。
マニは、214年にペルシア王家につながる家系に生まれ、若い頃に父親によって禁欲主義と独身主義の秘儀団体に入会させられた。
マニは240年頃から宣教を始めて、癒しと悪霊祓いで有名になった。
信者はマニのことを「新しいイエス」と呼んだが、マニはイエスなどと同じ源から啓示を受けたと述べていた。
マニは、「イエスは人間で、十字架刑では身代わりを使って生き延びた」と述べていた。
276年にマニは、王の命令で投獄され、処刑された。
マニ教は迫害されたが、その影響は今日まで続いている。
最新の研究では、キリスト教カタリ派は、ブルガリアのボゴミール派から枝分かれしたものではなく、マニ教から派生したという。
〇キリスト教アリウス派
アリウスは、アレクサンドリアで活動したキリスト教の教父で、355年に亡くなった。
アリウス派の教えと勢力は、カトリック派にとって最も脅威だった。
アリウスは、「イエスは神性のないただの人で、他の教師たちと変わらない」と述べた。
アリウス派の言う「至高の神」という考え方は、西ヨーロッパの王や貴族に支持された。
ローマ帝国のコンスタンティヌス帝は、熱心なカトリック派だったと宣伝されてきた(カトリック派が長く宣伝してきた)が、晩年はアリウス派に共鳴していた。
その息子のコンスタンティウスは、「自分はアリウス派」と公言した。
コンスタンティウスが召集した公会議では、カトリック派の指導者が追放され、360年までにローマ教会はほとんどアリウス派になった。
その後、381年に再びアリウス派は告発されたが、5世紀になってもほとんどの司教座はアリウス派だった。
アリウス派の西ゴート族の貴族と、イエスの子孫が婚姻関係を結び、そこからメロヴィング朝が生まれたと思われる。
ローマ教会の勅書によると、メロヴィング朝のダゴベルト2世の息子は、アリウス派に改宗した。
メロヴィング朝のキルペリクも、アリウス派なのを隠さなかった。
アリウス派は、カトリック派と違って、ユダヤ教と敵対せず、7世紀に登場したイスラム教とも敵対しなかった。
メロヴィング朝はユダヤ教徒に寛容で、それによりローマ教会(カトリック派)から非難されていた。
メロヴィング家とユダヤ教徒の結婚は日常茶飯事で、ユダヤ教徒が高級官僚になることも少なくなかった。
メロヴィング家は、奇跡的な力が宿ると信じて髪の毛を切らなかったが、これは旧約聖書のナジル人と同じである。
イエスもナジル人だったと言われている。
メロヴィング家とその一族は、ユダヤ特有の名が多く、サムソンやソロモンの名が見られる。
西ゴート族は、多くはユダヤ教徒だったらしい。
当時の年代記では「ゴート族」と「ユダヤ人」を同じ意味で使うことが多い。
(2023年4月30日に作成)