キリスト教カタリ派とアルビ十字軍

(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)

ベランジェ・ソニエールとレンヌ=ル=シャトーの謎には、キリスト教カタリ派が絡んでいる。

(カタリ派はアルビ派とも言う)

キリスト教カタリ派は、中世のフランスに普及していたが、アルビ十字軍(アルビジョア十字軍)によって根絶されてしまった。

レンヌ=ル=シャトーの辺りは、アルビ十字軍がカタリ派の殺戮を行った場所の1つである。

この辺りは、現在でも農民の多くはカタリ派に同調し、カタリ派の教会まである。

ベランジェ・ソニエールが見つけた羊皮紙には、「世界の王」(REX MUNDI)という文字が隠されていた。

これはカタリ派の思想と繋がった言葉である。

ここで、アルビ十字軍について少し説明する。

1209年に、3万人の軍隊が北ヨーロッパ(北フランスなど)から、南フランスのラングドック地方に侵攻した。

これはローマ教皇が呼びかけた(命じた)戦争で、エルサレムに向かった十字軍と同様に、参戦した者は全ての罪が免責され、天国に行くのが約束され、略奪が認められた。

アルビ十字軍のした事は、「大虐殺」だったと歴史的に位置づけられている。

アルビ十字軍によって、都市や町は破壊され、ほとんどの住民が殺された。

軍の指揮官が、「どのように異端のカタリ派の信者を見分けるのか」と、現地に来た教皇の代理に問うと、代理者はこう答えた。

「すべてを殺せ、神は自らの民を選びたまう」

ローマ教皇・インノケンティウス3世に宛てた手紙では、「年齢や性別や地位を考慮せず、すべてを殺しました」と報告されている。

ほぼ40年も続いたこの戦争は、今日では「アルビ十字軍」と呼ばれている。

アルビ十字軍の破壊と虐殺で、ラングドックは野蛮な土地に逆戻りしてしまった。

破壊される前のラングドック地方は、独立した君主が統治しており、貴族も数多くいた。

そして当時のキリスト教国の中で、最も洗練された文化を誇っていた。

ラングドックの上流の人々は読み書きを当然にしていたが、北ヨーロッパでは貴族ですら自分の名前さえ書けなかった。

ラングドックは宗教面で寛容で、イスラム教やユダヤ教が交易都市マルセイユから輸入されていた。

その一方で、ローマ教会(キリスト教カトリック派)は腐敗を重ねていたので、人々に支持されてなかった。

ローマ教会は、「ラングドックはアルビ派(カタリ派)という異端に感染している」と言って非難した。

ラングドックにある町アルビは、(カトリック派から見て)異端思想の中心地だったので、その信者たちを「アルビ派」とか「カタール派」とか「カタリ派」とローマ教会は呼んだ。

ローマ教会はアルビ派と呼んで一括りにしたが、彼らは実際にはそれぞれに指導者をもつ宗派の集合体で、教義も細かく見ればかなり異なっていた。

一般的に言えば、カタリ派(アルビ派)は受肉の教義と母権主義が特徴で、指導者には女性もおり、聖職者階級の存在やローマ教会を否定していた。

カタリ派は、信仰を二次的なものとし、個人の知識や神秘的な経験を重視していた。

そして神秘的な経験や知識を表すギリシア語からとって、それを「グノーシス」と呼び、どの教義よりも重視していた。

彼らは直接に神と接触するのを重視しており、司祭といった(ローマ教会の)聖職者たちを無視していた。

カタリ派は、カトリック派と同じく、この世界を二元論で捉えていた。

光と闇、霊と肉、善と悪が、戦い続けていると考えていた。

しかし、カトリック派では至高の神がいて悪魔は神よりも劣るが、カタリ派では神には善神と悪神の2人がおり、善神は決して受肉せず物質に汚されない。

カタリ派では、悪神が物質を創造したとし、この世の物質や権力は全て本質的には悪である。

この世は悪神が創造したもので、その悪神をカタリ派は「世界の王」と呼んでいた。

カタリ派の一派は、すべての物を放棄することで、善神(愛の原理)と結合できると考えた。

別の派は、人生の目的は霊化(非物質化)することだと考えた。

カタリ派はイエス・キリストについても、普通の人と見ており、愛の原理のために十字架上で死んだと考えていた。
(つまり復活を信じていなかった)

カタリ派にとっては、裕福で贅沢な暮らしを続けるローマ教会こそが、「世界の王(悪神)」の現れに他ならなかった。

だからローマ教会にとっては、危険な異端思想そのものだった。

現代では、カタリ派を秘密の知識の伝授者と考えるのが流行している。

だがカタリ派のほとんどは、カトリック派の強いる重税、告解、葬式といった重荷から逃げてきた一般人だった。

カタリ派は、生殖を非難していたが、これは生殖が世界の王への奉仕になると考えたからである。

ただし実際には、貞節はコンソラメントゥムと呼ばれる救慰礼を受けた者しか守る義務はなかった。

一般信者の性行為は、大目に見られていた。

カタリ派は、質素な生活を守り、瞑想を行い、魚を食べるのは許されていたが、それ以外は菜食主義を守っていた。

カタリ派の司祭(聖職者)にあたる「完徳者」(パルフェ)は、30%が貴族だったとされる。

アルビ十字軍の半世紀前の1145年に、カトリック派の重鎮の聖ベルナール(ベルナルドゥス)がラングドックに説教に来た。

彼はラングドックにおけるローマ教会の腐敗に呆れつつ、「カタリ派はどの説教よりもキリスト教的で、その品行は純粋である」と褒めている。

話をアルビ十字に戻すが、そのきっかけは1208年1月に、ラングドックに向かったローマ教皇の使節団の1人が殺された事だった。

この殺人の犯人は、カタリ派とは関係なかったらしいが、カタリ派を倒す機会を狙っていたローマ教会はカタリ派の仕業とし、教皇・インノケンティウス3世は十字軍の派遣を命じた。

シトー修道会長の下に十字軍は編成され、指揮はシモン・ド・モンフォールに任された。

(シトー修道会は1098年に創設され、ベルナールが指導者だった時期に急拡大した組織である。

シモン・ド・モンフォールは、フランスの名門貴族である。)

この十字軍には、スペインのドミニコ・グスマンも加わった。

グスマンは、カタリ派の改宗に尽力し、1216年に「ドミニコ修道会」を創設した。

ドミニコ修道会は、1233年に悪名高い「異端審問所」を創設し、犠牲者はカタリ派に留まらなかった。

シモン・ド・モンフォールは1218年に、トゥールーズの包囲戦で戦死した。

抵抗を続けたカタリ派だが、ラングドックのカタリ派の町や要塞は1244年までにほとんどが陥落した。

最後まで戦ったモンセギュールの山岳要塞も1244年3月に落ち、南フランスからカタリ派は表向きは絶滅した。

だが一部の信者は山の洞穴で暮らしつつ、ゲリラ戦を続けた。

なおカタリ派について、歴史家の多くはその前身を10~11世紀にブルガリアで活動したボゴミール派と考えている。

ボゴミール派がフランスに根付いてカタリ派になったと考えている。

アルビ十字軍の時、カタリ派はモンセギュールの要塞に財宝を隠していると噂された。

だがモンセギュールが陥落した際に、大したものは見つからなかった。

モンセギュールの包囲戦では、包囲する十字軍の兵士の多くはラングドックの者で、同情的だった。

だから包囲網は緩く、籠城中のカタリ派は抜け道を使って財宝を運び出したと言われている。

さらに3月の落城の時も、4人の完徳者が抜け道を使って脱出したと言われている。

この4人は重要な財宝を持ち出したというが、おそらく秘密の教義書といった宗教的な品だったろう。
もうモンセギュールでは儀式を行わないので、運び出したと思われる。

12~13世紀に流行した聖杯信仰は、カタリ派と共通点がある。

クレティアン・ド・トロワやヴォルフラム・フォン・エシェンバッハの発表した聖杯物語は、カタリ派の思想が秘められているらしい。

エシェンバッハの話(詩)では、聖杯城の主はペリラ(Perilla)である。

モンセギュールの領主の名はレイモン・ド・ペレイユ(Pereille)で、ラテン語の文書ではペリラと書かれていた。

レンヌ=ル=シャトーは、モンセギュールから馬に乗れば半日で行ける。

もしかしたらベランジェ・ソニエールは、カタリ派の財宝を見つけたのかもしれない。

(2022年12月25日に作成)


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