タイトル使徒言行録とパウロの教え

(『死海文書の謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リーの共著から抜粋)

新約聖書の『使徒言行録』は、初期のキリスト教についての多くの情報を含んでいる。

しかし『使徒言行録』は、偏見に満ちている。

著者のルカは、多くの違った資料から、自分の目的に合わせて編纂している。

年代順は混乱しているし、著者は書いてある多くの事件を、直接は見ていない。

『使徒言行録』は、イエスの十字架刑の直後から始まり、西暦64~67年のどこかの時点で終わる。

たいていの学者は、70~95年に編纂されたとしている。

これは、新約聖書にある4つの福音書と同じ時期に編纂されており、一番成立が遅いヨハネ福音書よりも前に編纂されたのはほぼ確かである。

『使徒言行録』の著者は、自らをルカと言う、高い教育を受けたギリシア人である。

「コロサイの使徒への手紙」によると、パウロの親友である。

「愛する医者ルカ」と同一人物かは、確定していない。

多くの学者は、『ルカ福音書』の著者と同一人物と見ている。

実際に『使徒言行録』と『ルカ福音書』は、どちらもテオフィラスという受取人に宛てられている。

ギリシア語でギリシア人に向けて書かれているので、ヘブライ語やアラム語の原語からは意味が変わっている所もあるはずだ。

『使徒言行録』は、パウロに焦点を当てており、エルサレムの教会(キリスト教の初代教会)とパウロの関係も書いている。

初代教会は、「イエスの兄弟ヤコブ」の指揮下にあり、イエスの直弟子から成っていた。

今では彼らは「最初のキリスト教徒」とか「初代教会」と呼ばれているが、彼らの実体はユダヤ教のキリスト派と言える。

『使徒言行録』は、パウロを常にヒーローとして描いており、イエスの兄弟であるヤコブであってもパウロに反対の立場をとれば悪人扱いしている。

ヤコブたちの教会について、『使徒言行録』はこう書いている。

「信者たちは全ての物を共有し、財産や持ち物を売って皆がそれを分け合った。

彼らは毎日、神殿にお参りし、家ごとに集まってパンを裂き…」

『使徒言行録』は、最初のキリスト教徒の殉教者として、ステファノを書いている。

ステファノは死刑の宣告を受けるが、彼は自分を弁護しつつ、「義人」あるいは「正しい者」の来臨を預言した人々が殺されてきた事を話す。

この「義人」は、死海文書に出てくる「義人」や「義の教師」を思わせる。

死海文書は義人を「ザディク」と書き、義の教師を「モレーハ・ゼデク」と書いている。

歴史著述家のヨセフスは、反ローマのユダヤ教徒の指導者として、「ザドゥク」あるいは「ザドク」という教師に言及しているが、同じものを指すと思われる。

ステファノは、自分を迫害する者たちについて、「あなた方は律法を受けたのに、守りませんでした」と言う。

つまりステファノは、律法に固着していた(律法を遵守していた)。

ステファノを一員とする初代教会は、律法に固着していた。

そしてこの教会を迫害するユダヤ教徒たちは、(占領者・支配者である)ローマ軍と仲良くすることで、律法の教えから外れた者たちだった。

こう考えると、全ての辻褄が合う。

ステファノは殺され、後には「義人」「イエスの兄弟」と呼ばれていたヤコブも殺されるのである。

タルソのサウロ(後のパウロ)が登場したのは、ステファノが殺される時だった。

サウロは、ステファノを迫害し殺す現場にいた。
それも迫害する側で、である。

サウロは初代教会を破壊するのに熱心で、聖書によると「教会を全面的に破壊しようとし、教会を荒らして男女を問わず引き出して、牢に送っていた」のである。

つまりサウロは、親ローマの立場をとるユダヤ祭司に従っていた。

エルサレムの初代教会を破壊した後にサウロは、ダマスカスに向かう。

そこにいる初代教会のメンバーを捜して逮捕するためであった。

なおダマスカスは、前述したように、シリアのダマスカスではなく、クムランのことと筆者は考えている。

サウロはダマスカスに行く途中で、天からの光に襲われ、盲目になってしまう。

天からの声は、「あなたが迫害している私は、ナゾレ人イエスである」と言った。

彼はダマスカスに行き、そこで初代教会の者によって視力が回復させられ、改心して洗礼を受けるのである。

そして名をパウロに改めた。

パウロは180度の転向をし、それまで初代教会を根絶しようとしていた熱心さをもって、今度は初代教会の教えを広め始めた。

『ガラテアの信徒への手紙』によれば、パウロは3年間、彼らの下で指導を受けた。

クムランで見つかった『死海文書』には、クムラン共同体に加わる新参者の見習い期間は3年間とある。

パウロは3年間の見習い期間を終えると、エルサレムに戻り、初代教会に加わろうとした。

だが多くの者は、彼の改心を疑っていた。

それでパウロは、身の危険を避けるため、生まれ故郷のタルソ(現在のトルコにある)に派遣された。

この派遣は、追放に等しいものだった。

この後パウロは、布教のためにアンテオケに行った。

注釈者たちは、このアンテオケへの旅を紀元43年の出来事としている。

パウロは4~5年の間、アンテオケで伝道していたが、そこにエルサレムから初代教会の者が来た。

おそらくパウロの活動(教え)がおかしいと聞いて、調査に来たのだろう。

エルサレムから来た者たちは、パウロに律法を守るよう力説し、「パウロは律法を守らず怠慢である」と叱った。

パウロの同僚であるバルナバは、エルサレムに戻るよう命令された。

この時点から、パウロと初代教会の指導者ヤコブの対立が始まった。
そして『使徒言行録』は、パウロの弁護を続けていく。

パウロの教えは、後にキリスト教の基礎になるのだが、初代教会の教えから逸脱していた。

イエスの兄弟ヤコブが、イエスを直接知っていて、その教えを受けたのは明らかである。

これに対し、パウロはイエスを自らの救い主と見なしたが、イエスと会ったことは無い。

パウロは、旅の途中に砂漠で神秘的な体験をし、イエスと名乗る声を聞いただけである。

つまるところ、パウロは独特の神学を作り、それはイエスに由来すると称した。

しかしそれはイエスの教えとは、大きく違うものだった。

パウロは、神を脇に押しのけて、イエスを礼拝するように教えた。

これは、当時に(ローマやギリシアで)信仰されていた神々と、イエスを同列に並べる作業であった。

そこでライバルの神々と競うために、イエスの伝記に奇跡を加えていった。

奇跡の話は、パウロの創作であって、ヤコブたちの教えとひどく食い違っていた。

ヤコブたちがパウロの教えに当惑したのは、当然といえる。

パウロは、自分のやっている事を十分に承知していた。

彼はプロパガンダの技術を理解しており、1人の男(イエス)を神に仕立て上げるために、抜け目なく立ち回った。

パウロは『コリントの信徒への手紙』にあるように、エルサレムのヤコブたちが自分とは異なるイエス像を伝えていることを認めていた。

パウロは、初代教会の指示でエルサレムに戻された。
紀元48~49年の頃である。

『使徒言行録』によると、ヤコブは和平のためにパウロに妥協した。
そして異教徒たちも集会に参加しやすくなった。

この時点では、まだパウロは表面上は初代教会に従っている。
しかし彼はすでに我が道を行くと決意していた。

パウロは次の伝道旅行に出かけるが、彼の手紙のほとんどは50~58年の伝道中に書かれた。

彼は初代教会の教えにも律法にも固着せず、どんどん離反していった。

『ガラテヤ信徒への手紙』でこう言っている。

「人は律法ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされます。

律法の実行では、誰一人として義とされません。」

パウロの創った『キリスト教』は、この頃にその根(ユダヤ教イエス派)と関係を断ち、実在したイエスとは関係のない、「イエスについてのパウロのイメージ」だけになったのである。

58年頃に、パウロはエルサレムに戻った。

この時、パウロの支持者たちは、戻ると争いになると考えて、戻らないよう懇願した。

しかしパウロはエルサレムに戻り、ヤコブたち初代教会の指導者と会った。

ヤコブたちは、パウロが外国に住むユダヤ教徒たちに説教して、モーセの律法を破棄するよう勧めていることを、批判した。

パウロはここで偽証し、ヤコブらの告発を否定したようである。

そして7日間の身の清めを指示され、パウロは同意した。

だがパウロは数日後に、律法に熱心な信者たちと揉めて、神殿にいる時に襲われた。

パウロは神殿から引きずり出されたが、この騒動を聞いたローマ軍が現れて救出された。

ただしパウロは逮捕された。

ここから話がおかしくなる。

事実の一部が改ざんされたか、削除されたと疑う他ない。

現在の『使徒言行録』によれば、パウロはローマ軍に抗議して、自分をリンチしようとした群衆に話しかける許可を得ようとした。

そして奇妙なことに、ローマ軍はそれを許可した。

パウロは自分がガマリエルという教師の下で(ユダヤ教)ファリサイ派の修行をし、初代教会を弾圧した事や、ステファノの死に関わった事、その後の改心を長々と話す。

話を聞いた群衆は再び怒った。

それでローマ軍はパウロを「砦」に連行した。
おそらくローマ軍の指令部があったアントニアの砦だろう。

パウロは富裕なユダヤ教徒なので、ローマ市民権を持っていた。

だから拷問されたりせず、そのまま砦に置かれた。

一方、律法に熱心な40~50人のユダヤ教徒は、パウロを殺すまで飲食しないと誓った。

当時、これほど律法に熱心なユダヤ教徒は、クムランで発見された死海文書を残した者たちだけである。

彼らの態度は、戦闘的なゼロテ党や、ゼロテ党の暗殺集団であるスィーカリ派に近い。

ここからも死海文書を残した者たち(ユダヤ教エッセネ派)は、ゼロテ党などと同一だったと思える。

ところが律法に熱心な者たちのパウロ暗殺計画は、突然のパウロの甥の登場で中止となった。

パウロの甥は、どうやってか暗殺計画を知り、パウロとローマ軍に知らせた。

その夜にパウロは、身の安全のため、ローマ軍の兵士470人に護衛されて、エルサレムを脱出した。

パウロはユダヤにおけるローマの首都であるカエサレアに運ばれて、そこでローマ総督と、傀儡のユダヤ王であるアグリッパに会見した。

パウロはローマ市民権を持つので、彼のことを裁判するためにローマに送られることとなった。
何の裁判かは書いていない。

『使徒言行録』は、パウロがローマに行く途中の冒険を語って、そこで終わる。

その終わり方は、結びの部分が削除され、その代わりの結びが挿入されたかのように不自然である。

そのためローマで投獄されたとか、処刑されたとか、釈放されてスペインに行ったとの伝説が生まれた。
しかし資料の裏付けはない。

ひょっとすると著者のルカは、何かを隠蔽するために、そこで書き終えたのかもしれない。

『使徒言行録』の、パウロがエルサレムの神殿で襲われた所からの記述は、混乱だらけで、謎に満ちている。

確かなのは、パウロは信者をできるだけ多く獲得することを主とし、そのためにはローマ軍のご機嫌をうかがう事まで辞さなかったことだ。

パウロの布教の敵は、「イエスの兄弟ヤコブ」だった。

そしてヤコブは、初代教会の指導者だった。

ヤコブは新しい宗教を創ることは考えておらず、反対にパウロはそれを目指したのである。

パウロの唱える(信仰する)イエスは、完璧な神であり、ローマの神々と奇跡を競う存在である。

これはユダヤ教徒にとって冒涜であり、背教だった。

もしヤコブの教えが勝利したなら、キリスト教はユダヤ教の分派に留まっただろう。

実際には、パウロの教えが勝ち、新しい宗教がパウロによって生まれたのである。

(2023年12月13&20日に作成)


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