テンプル騎士団の歴史

(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)

テンプル騎士団と聞くと、多くの人は十字軍で活躍した騎士をイメージする。

さらにテンプル騎士団には、謎の組織、秘密結社のイメージもある。

200年にわたって活躍した彼らは、最後にはフランス王・フィリップ4世の謀略により、イエス・キリストを否認した罪で告発されて、歴史からその名は消えた。

テンプル騎士団についての最初の歴史書は、1175年から1185年に書かれた、フランスの歴史家ギョーム・ド・ティールに手によるものだ。

これが書かれた時期は、すでに十字軍はエルサレムを征服しており、エルサレムに王国が創られていた。

(エルサレムを含む)パレスチナを十字軍が占領してから70年、テンプル騎士団が創設されてから50年以上が経っていた。

ギョーム・ド・ティールは、人々の伝え話を下敷きにして、歴史書を書いたと思われる。

なおテンプル騎士団の正式名称は、「キリストの貧しき騎士修道会とソロモンの神殿」である。

ギョーム・ド・ティールによれば、テンプル騎士団は1118年に創設された。

創設者は、シャンパーニュ伯の家臣だったユーグ・ド・パイヤンである。

ある日、ユーグ・ド・パイヤンは8人の仲間を連れて、エルサレム王国の王であるボードワン1世を訪ねた。

なおボードワン1世の兄が、第1回・十字軍を率いてエルサレムを征服したゴドフロワ・ド・ブイヨンである。

パイヤンらは、公道の安全確保と巡礼者たちの保護をしたいと訴え、これに賛同したボードワン1世は王宮の脇にある建物を貸し与えた。

伝説によると、この建物はソロモン神殿の遺跡の上に建てられており、そのためパイヤンら9人は「テンプル騎士団」と呼ばれるようになった。

(※テンプルには神殿という意味がある)

ギョーム・ド・ティールによると、パイヤンら9人は騎士団の創設後、9年間も新人を受け入れなかった。

そして当時のテンプル騎士団が巡礼者たちの保護をしたという記録は、1つも存在しない。

9人だけで、長旅をしてエルサレムに巡礼に来る者たちを保護できるはずもない。

ボードワン1世が雇った歴史家のファルク・ド・シャルトルは、著書でなぜか初期のテンプル騎士団について一言も触れていない。

活動の見えないテンプル騎士団だが、1128年頃にクレルヴォーの修道院長をしているベルナール(ベルナルドゥス)が『新しい騎士道を讃えて』という小冊子を出して、彼らを称賛して神格化した。

1127年にベルナールがお膳立てをして、テンプル騎士団の9人はヨーロッパに戻り大歓迎を受けた。

1128年1月に、シャンパーニュ伯の宮殿があるトロワにて、教会公会議が開かれ、ベルナールの働きもあってテンプル騎士団はローマ教会に承認された。

そしてテンプル騎士団のリーダーのユーグ・ド・パイヤンは、「総長」の称号が与えられた。

テンプル騎士団は顎髭を剃るのが禁じられ、きれいに髭を剃っていた当時の人々と容易に見分けられた。

団員は白い外衣か外套を着ることも定められた。

また戦場では、捕虜になっても慈悲を乞うたりしてはならず、死ぬまで戦うのが規則となり、敵が3倍以上にならなければ退却も許されなかった。

1139年にクレルヴォーのシトー修道会の出身で、ベルナールの後輩にあたる教皇インノケンティウス2世が、勅書を出した。

この勅書は、「テンプル騎士団は教皇以外のどの権力にも忠誠しなくてよい」と命じていた。

これにより、テンプル騎士団は王などの権力から独立した存在になった。

強大な特権を与えられたテンプル騎士団には、貴族の子息が次々と入団するようになり、カネや土地が次々と寄進された。

前述の1128年のトロワ教会公会議の1年後には、テンプル騎士団はフランス、イギリス、スコットランド、フランダース、スペイン、ポルトガルに広大な土地を所有するようになっていた。

1130年にパイヤン総長がパレスチナに戻る時、ヨーロッパ各地に300人の新人騎士たちが(土地の管理などで)残された。

その後、第二次・十字軍でテンプル騎士団は活躍した。
寄せ集めで統制のとれない十字軍を大敗北から救った。

テンプル騎士団は、イギリスの王とも密な関係を築き、イギリス王たちはロンドンにあるテンプル騎士団の領地に住むこともしばしばだった。

テンプル騎士団は、敵であるイスラム世界とも徐々に関係を築き、有名なアサシン暗殺団とも内密に関係を保った。

テンプル騎士団は、現在の銀行制度を創った集団でもある。

彼らは蓄えたカネを、ヨーロッパやイスラムの君主に貸していた。

さらに貿易商人たちのカネを、手数料をとって、安全に送金する仕組みをつくった。

テンプル騎士団のパリ管区は、ヨーロッパ金融界の中心地になった。

小切手も、テンプル騎士団が発明したと考えられている。

テンプル騎士団はイスラムやユダヤの文化に接していたので、アラビア語を話せる者がおり、ユダヤ教徒の金融学にも通じていた。

テンプル騎士団はイスラム教やユダヤ教の文化に触れて暮らしていたので、新しい知識や科学を得ており、兵器、石工、建築などの分野で最新技術を持ち、測量や航海術も発展させた。

彼らは自分たちの港や造船所を持ち、羅針盤を初めて使用した船団を保有していた。

1185年にエルサレム王国のボードワン4世が亡くなると、テンプル騎士団の総長であるジェラール・ド・リドフォールは亡き王との約束を破り、内戦寸前にまで行った。

リドフォールはイスラム教徒との休戦関係にもヒビを入れて、1187年7月にハッティンの戦いで大敗北した。

ハッティンの戦いでは、リドフォールに率いられた3万人の軍が、6万人のサラディン軍(イスラム軍)に包囲されて全滅した。

この敗北により、エルサレムはサラディン軍に降伏した。

1291年までにパレスチナは、ほとんどがイスラム教徒の支配下となり、キリスト教徒の拠点で唯一残っていたアッコンの要塞も1291年5月に陥落した。

アッコンの防衛戦では、テンプル騎士団の総長が戦死し、婦女子を逃がした後に騎士たちは全滅した。

テンプル騎士団は本部をキプロスに移したが、征服できそうな異教徒の土地がないので、西ヨーロッパに注目し始めた。

テンプル騎士団の下には「チュートン騎士団」がいたが、チュートン騎士団はヨーロッパの北東部に移住して、東部バルト諸国のほとんどを含む国、オルデンシュタート(オーデンスランド)を建国していた。

テンプル騎士団は、チュートン騎士団と同じような自分たちの国を欲しがり、南フランスのラングドック地方に目を付けた。

テンプル騎士団は設立当初から、ラングドックに多くいるキリスト教カタリ派と親密だった。
4代目総長のベルトラン・ド・ブランシュフォールは、カタリ派の出身であった。

13世紀前半に、ローマ教皇が命じてアルビ十字軍がラングドックを襲い、キリスト教カタリ派の大虐殺をした。

この時テンプル騎士団は、中立を保って見物したが、陰ではカタリ派に避難場所を提供したと言われている。

フランス王のフィリップ4世は、テンプル騎士団の莫大な冨に魅了され、それを奪おうとした。

彼はテンプル騎士団に入団しようとしたが、断られていた。

1303年に、フィリップ4世と聖職者が共謀して、ローマ教皇のボニファティウス8世を誘拐して殺害した。

さらにフィリップ4世は、次の教皇ベネディクトゥス11世もおそらく殺害した。

フィリップ4世は1305年に、ボルドー大司教をローマ教皇の座に据えた。

これが教皇クレメンス5世だが、フィリップ4世の傀儡であり、命じられてクレメンス5世はテンプル騎士団の弾圧を始めた。

フィリップ4世は、スパイをテンプル騎士団に潜入させて、脱会した騎士の自白も使って、罪状を集めていった。

そしてゲシュタポ並みの秘密作戦を立てて、封印された極秘の指令書を国中に送り、1307年10月13日の夜明けにそれを皆が開封して、即座に実行するよう命じた。

その指令とは、フランス全土のテンプル騎士団員を逮捕し、領地や財産を没収する内容だった。

この作戦は実行されたが、騎士たちは逮捕したが、テンプル騎士団の財宝は見つけられずに終わった。

作戦は漏れていたようで、テンプル騎士団の総長ジャック・ド・モレーは直前に大量の書類を焼かせている。

また騎士たちは抵抗せずに逮捕されたが、そう指示されていたらしい。

噂によると、財宝はテンプル騎士団の海軍基地ラ・ロシュールに運ばれ、そこから18隻のガレー船でどこかに運ばれた。

逮捕された騎士たちは拷問を受け、自白を強要された。

そしてバフォメットという悪魔を崇拝しているとか、幼児を殺したり男色をしているといった告発がなされた。

フィリップ4世は、騎士たちを拷問した後に、投獄したり火あぶりで処刑した。

フィリップ4世の圧力で、教皇クレメンス5世は1312年にテンプル騎士団の解散を宣言した。

1314年3月に、テンプル騎士団の総長ジャック・ド・モレーとノルマンディー管区長のジョフロワ・ド・シャルネーは火あぶりの刑で殺された。

伝説によると、ジャック・ド・モレーは火刑で死ぬ際に、「クレメンス5世とフィリップ4世は、1年以内に自分と同じ運命になり、神の前で申し開きをする」と叫んだという。

それから1ヵ月以内にクレメンス5世は赤痢で死に、フィリップ4世も年末までに謎の死をとげた。

テンプル騎士団には毒薬の専門家もいたので、毒殺も考えられる。

フランス王・フィリップ4世は、他国にいるテンプル騎士団も解散させようとした。

義理の息子であるイギリス王・エドワード2世は、しぶしぶ従ったが、騎士たちの多くは逃亡した。

イギリスのテンプル騎士団の土地は、聖ヨハネ・ホスピタル騎士団に譲渡された。

スコットランドでは、イギリスと戦争していたのもあり、テンプル騎士団は解散せず、フランスやイギリスから逃げてきた騎士たちはスコットランド独立のために戦った。

1314年のバノックバーンの戦いでは、ロバート・ブルース側で戦い、勝利してスコットランドの独立をイギリスに承認させた。

スコットランドではそれから4世紀も、テンプル騎士団は存続したようだ。

ポルトガルでは、テンプル騎士団は「キリスト騎士団」と名を変えて残った。

キリスト騎士団は16世紀まで存続し、団員は海運業に従事した。

ヴァスコ・ダ・ガマはキリスト騎士団員だったし、エンリケ航海王子は総長だった。

コロンブスの妻は、父がキリスト騎士団員だった。

テンプル騎士団は、魔術、秘儀、錬金術を使ったと言われてきた。

同時代の人々も、悪魔と結んでいるとして、テンプル騎士団を避けていた。

私たちはテンプル騎士団の逮捕と告発について調べた結果、他の研究者たちと同様に、告発にはそれなりの根拠があると結論した。

多くの騎士は尋問の際に「バフォメット」について証言したが、それが何者なのかは分かっていない。

バフォメットは崇拝の対象で、支配的な存在らしい。

ムハンマド(イスラム教の創始者)の名前がなまったものという説もあるが、それよりもアラビア語の「アブフィハメット」やムーア人スペイン語の「ブフィヒマット」の変形だろう。

アブフィハメットとブフィヒマットは、理解の父とか智恵の父を意味する。

テンプル騎士団は秘密儀式に頭像を用いていたが、これも何なのか分かっていない。

これはテンプル騎士団の所有していたという「トリノの聖骸布」とも関係があるらしく、頭像の複製はトリノの聖骸布とよく似た顎髭をしている。

この頭像を、斬首されたヨハネの頭と結びつけて、テンプル騎士団はヨハネを真のメシアと認める「ヨハネ派」だったと説く作家もいる。

テンプル騎士団が中東にいたヨハネ派と接触したのはほぼ確実だが、騎士団全体の方針だったとは考えにくい。

テンプル騎士団への告発で最大のものは、十字架(イエス・キリスト)を拒絶し、これに唾を吐いたというものである。

団員のジャン・ド・ショーメは、「入団式のとき、イエス・キリストは偽予言者だから、キリストではなく天の神だけを信じなさいと言われた」と証言した。

団員のデオダタ・ジェフェも、「イエスという男がお前を救う神だと信じてはならない、と言われた」と証言した。

団員のファルク・ド・トロワは、「十字架像を見せられ、これを信仰するな、これはごく最近のものだ、と言われた」と証言した。

これらの証言は一貫しており、テンプル騎士団の宗教観がキリスト教カトリック派と一致していなかったのは確実である。

前述したが、テンプル騎士団の初期について、エルサレム王国の公式の年代記を書いたファルク・ド・シャルトルは、全く触れていない。
これはあまりに不自然である。

テンプル騎士団が秘密の活動に従事していたため、シャルトルは書くのを止められたと考えるのが自然だろう。

これも前述したが、ギョーム・ド・ティールは、「テンプル騎士団は1118年に創設され、9年間は新人を受け入れなかった」と書いている。

だが記録によると、ジョフリー・プランタジネットの父であるアンジュー伯(ファルク・ダンジュー)は1120年に入団している。

さらに1124年には、ヨーロッパで最も裕福な君主の1人だったシャンパーニュ伯(ユーグ・ド・シャンパーニュ)も入団している。

ユーグ・ド・シャンパーニュは、1114年にエルサレムへの旅を考えたが、出発の直前にシャルトル司教からもらった手紙にはこう書かれている。

「エルサレムに出発なさる前に、『キリストの民兵』に入団されたいと望んでいると、お聞きしました」

「キリストの民兵」とは、ベルナール(ベルナルドゥス)が提唱したテンプル騎士団の元の名称である。
1114年の時点で、テンプル騎士団は存在したか、創設が計画されていたと、上の手紙で分かる。

シャンパーニュは、この時点で入団の意思を固めていたのだろう。

テンプル騎士団の創設メンバー9人のうち、初代総長になったユーグ・ド・パイヤンを含む少なくとも3人は、家系に繋がりのある知り合いで、おそらくはシャンパーニュに仕えていた。

1115年にシャンパーニュは、テンプル騎士団の後援者であるベルナールに、ベルナールがクレルヴォー修道院を建てた土地を寄進している。

またテンプル騎士団の創設メンバーの1人であるアンドレ・ド・モンバールは、ベルナールの叔父である。

シャンパーニュの宮殿があるトロワでは、カバラ主義と秘儀研究の学院が栄えていた。

1128年にトロワで行われた教会公会議では、前述したようにテンプル騎士団がローマ教会に承認されたが、それからテンプル騎士団が解散を命じられるまでトロワは騎士団の戦略を立てる中心地だった。

トロワから聖杯の物語が、おそらくクレティアン・ド・トロワの手によって生まれた。

こうした繋がりは、単なる偶然とは思えない。

詩人で冒険作家のヴォルフラム・フォン・エシェンバッハは、テンプル騎士団を取材するためにウトルメール(エルサレム王国)まで足を運んだ。

そして1195年から1220年にかけて、『パルツィヴァール』という詩を書き、テンプル騎士団は「聖杯」や「聖杯城」を守っていると描いた。

テンプル騎士団は創設時に、エルサレム王からソロモン神殿の跡地を住居として与えられた。

クムランで見つかった「死海文書」にある「銅の巻物」は、解読したところ大量の財宝について書いてあり、ソロモン神殿の下に埋めたとある。

12世紀の中頃にエルサレムを巡礼したヨハン・フォン・ヴュルツブルグは、「ソロモン神殿の跡地にテンプル騎士団の広大な厩舎があった」と書いている。

もしかするとテンプル騎士団は、創設直後からソロモン神殿の発掘に取りかかったのかもしれない。

こう考えると、エルサレム王国の年代記がテンプル騎士団に触れない異常さを説明できる。

前述の裕福な君主ユーグ・ド・シャンパーニュは、1104年に、エルサレムから帰った高位の貴族と会合を開いた。

(※1099年に第1回・十字軍はエルサレムを攻め落として占領していた)

この秘密会議には、ブリエンヌ家、ジョアンヴィル家、ショーモン家、アンドレ・ド・モンバールが出席した。

前述のとおり、モンバールはテンプル騎士団の創設者の1つであるベルナールの叔父である。

この秘密会議からほどなくして、シャンパーニュは自らエルサレムに行き、4年も滞在して、1108年に帰ってきた。

前述のとおり、シャンパーニュは1114年にもテンプル騎士団に参加するつもりでエルサレムに向けて旅立ったが、1年後に戻ってきて、帰るとすぐに自分の領地の一部をベルナールが代表者となっていた「シトー修道会」に寄進した。

その土地にベルナールは、クレルヴォー修道院を建てたのである。

シトー修道会は、それまでは破産寸前だったが、この時期から一気にカネ回りが良くなり、数年で6つの修道院を新設した。

その後も次々とベルナールは修道院を創設した。

シトー修道会の急成長は、テンプル騎士団の急成長と時期が重なっている。

ここまで書いてきた一連の出来事から、仮説を立ててみた。

まず十字軍が占領したエルサレムで、途方もない何かが発見された。

それはごく少数の高位の君主にだけ報告され、シャンパーニュたちの秘密会議が行われた。

直後にシャンパーニュは、自分の目で確かめるために、エルサレムに向かった。

シャンパーニュは戻った後に、彼の家臣たちとテンプル騎士団を創設し、シャンパーニュが騎士団の指導者かつ後援者となった。

その頃から大金がシトー修道会に流れ込むようになり、ベルナールの支援でテンプル騎士団はローマ教会に認められ、強力な権限と信用を得た。

テンプル騎士団が見つけた財宝が何だったかは、イエスに対する騎士団の考え方にヒントがあるのかもしれない。

1153年にテンプル騎士団の第4代総長になったのは、ベルトラン・ド・ブランシュフォールだった。

ブランシュフォール家は、レンヌ=ル=シャトーの辺りが領土の貴族である。

ベルトランは1170年まで総長を務め、騎士団をよく訓練された、階級制度の組織に育てた。

そのベルトランを指導したのは、アンドレ・ド・モンバールだった。

ベルトラン・ド・ブランシュフォールは、テンプル騎士団に入団すると、レンヌ=ル=シャトーとベヅ周辺の土地を寄進した。

その土地に、テンプル騎士団は1156年にドイツ人の鉱夫たちを派遣した。

鉱夫たちは、土地の人々との交流を禁じられ、完全に隔離された。

表向きの仕事は、千年も前にローマ人が掘りつくした金の採掘であった。

17世紀にその鉱山を調査した技術者カエサル・ダルコンの報告書では、「ドイツ人たちが採鉱に従事したとは考えにくい」と結論している。

ダルコンは、「地下の秘密の場所を発掘し、溶解した金属から何かを組み立て、沈殿物を作っていた」と推測している。

テンプル騎士団は、ベヅの山頂に住居を構えて、見張り塔と礼拝堂を建てた。

表向きは山間の巡礼路の警護だったが、噂では財宝の発掘や埋蔵を警護したという。

フランス王・フィリップ4世が1307年10月にテンプル騎士団の一斉逮捕をした時、ベヅのテンプル騎士団・分遣隊の指揮官はド・ゴス侯だった。

この時の教皇クレメンス5世は、本名はベルトラン・ド・ゴスで、彼の母親はイーダ・ド・ブランシュフォールである。

クレメンス5世は、何かの秘密を家族に託し、その秘密は18世紀までブランシュフォール家だけに伝わった。

ブランシュフォール家の聴罪司だったアントワーヌ・ビグー神父は、この秘密を知り、レンヌ=ル=シャトーの教会で見つかった羊皮紙に書いたのだろうか。

テンプル騎士団の歴代の総長は、シオン団と決別する1188年までに、多くの資料では10人だったとされている。
(※シオン団との決別の件はこの記事に書いてあります)

ところが、パリ国立図書館にある『秘密文書』では8人としている。

アンドレ・ド・モンバールは、『秘密文書』では総長とされていない。

またベルトラン・ド・ブランシュフォールは6代目ではなく4代目である。

テンプル騎士団の資料は、彼らが最終的に有罪となって解散させられたために、公式のものがないし、抹消されてしまった。

テンプル騎士団では、それぞれの領地に管区長がいた。
これらの管区長は、文書に署名する時に「マジスタール・タンプル」(テンプル騎士団長)と書いたらしい。

総長も「マジスタール・タンプル」と署名していたから、エルサレム管区長のアンドレ・ド・モンバールは、後世の歴史家に総長だと誤解されたらしいのだ。

エヴラール・デ・バールも、フランスにいた管区長だが、総長と勘違いされたようだ。

私たちは、1年以上も調査した結果、『秘密文書』のほうが歴代総長について正確に書いていると結論した。

この正確さは、特別の内部情報に基づくと考えるしかない。

(2022年12月28~30日に作成)


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