(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
私たちは調査を進めるうちに、テンプル騎士団とシトー修道会の背後にいる組織の存在に気付いた。
1956年以降、レンヌ=ル=シャトーの謎に関する資料(情報)が、意図的に漏らされてきた。
これは内部情報に基づいていると見られ、根底にあるのは途方もない秘密についての予告である。
この情報公開の一翼を担う、作家のジェラール・ド・セードは、キリスト教カタリ派、テンプル騎士団、メロヴィング朝、薔薇十字団、ベランジェ・ソニエール、レンヌ=ル=シャトーという、一見ばらばらな内容の一連の作品を発表してきた。
私たちは、ド・セードに情報を提供している者を突き止めた。
その男は、ピエール・プランタールである。
レンヌ=ル=シャトーなどの資料(情報)は、重要なものは本ではなく、文書や小冊子にあり、ほとんどがパリ国立図書館に保管されている。
小冊子のほとんどは、ペンネームで発表されたもので、出版社は「グラン・ロッジ・アルピナ」のこともある。
グラン・ロッジ・アルピナとは、フリーメーソンのスイス本部である。
私たちは当初、レンヌ=ル=シャトーの謎になぜフリーメーソンが首を突っ込むのか理解できなかった。
パリ国立図書館にある関連文書で最も重要なものは、『秘密文書』と題されたファイルで、「4番 lm 249」というマイクロフィルムになっている。
『秘密文書』に入っている系図は、アンリ・ロビノーという人が作成したと書かれているが、それはペンネームで、1966年に死去したオーストリア人のレオ・シドロフが書いたと言われていた。
レオ・シドロフの妹に取材したところ、シドロフは系図学者ではなく、細密画の専門家にして売買業者だったという。
シドロフは1946年にアメリカに入国しようとした際、スパイの疑いで却下されていた。
シドロフがスパイ活動をしていたとの文献が、『秘密文書』に含まれていた。
さらに調べたところ、アンリ・ロビノーとはフランスの貴族であるアンリ・ド・レノンクール伯だと分かった。
レノンクールが系図を書いたのである。
『秘密文書』には、「レオ・シドロフの革の書類鞄」という項目があり、それによるとシドロフの鞄にはレンヌ=ル=シャトーに関する多数の秘密文書が入っていた。
シドロフの死の直後、鞄はファカー・アル・イスラムという男に渡されたが、1967年2月20日にイスラムは死体となって発見され、鞄は行方不明となった。
フランスの新聞を調べて、イスラム殺しは事実と確認できた。
ファカー・アル・イスラムは若いパキスタン人で、何らかの理由で西ドイツから追放され、パリからジュネーブに列車で行く途中に、列車から投げ捨てられた。
新聞によると、DST(国土保安局、防諜局)がこの殺人を調査中という。
調査の過程で、『レンヌ=ル=シャトーのメロヴィング家の財宝』という題名に何度も出くわした。
気になったので入手して読んでみたが、グラン・ロッジ・アルピナの出版だったが、新しい情報は書いてなかった。
調査していくと、「聖書に出てくるマグダラ」「ノルマンディー要塞のあった地、ジゾール」「メロヴィング朝のダゴベルト2世が暗殺された地、ストネイ」も重要だと分かってきた。
調査して分かったのは、テンプル騎士団の背後に「シオン団」がいて、シオン団がテンプル騎士団を創設したことである。
テンプル騎士団は、フランス王・フィリップ4世とローマ教皇・クレメンス5世によって解散させられたが、シオン団は無傷で生き残った。
シオン団は、「プリウレ・ド・シオン団」として今日も存在しており、活動を続けている。
上述の1956年から内部情報を漏らしてきた者たちは、実はこの組織である。
プリウレ・ド・シオン団の目的は、メロヴィング朝の復活である。
メロヴィング朝の家系は、今も存続している。
ここまで調べてきて、レンヌ=ル=シャトーの教会で見つかった羊皮紙の暗号文に書かれていた「シオン」とは、プリウレ・ド・シオン団だと分かった。
さらに羊皮紙と、レンヌ=ル=シャトーにあるマリー・ド・ブランシュフォールの墓石に書かれた「P.S.」も、プリウレ・ド・シオン団のことだろう。
パリ国立図書館にある『秘密文書』によると、シオン団は1090年にゴドフロワ・ド・ブイヨンによって創設された。
ブイヨンは、第1回・十字軍で聖地エルサレムを征服した人で、彼の弟がエルサレム王国の最初の王・ボードワン1世となった。
『秘密文書』によると、シオン団がボードワン1世を王位につけて、シオン団の本部はエルサレムの南にあるシオン山(小高い丘、シオンの丘)に置かれた。
調べたところ、1099年にゴドフロワ・ド・ブイヨンの率いる十字軍がエルサレムを占領した時、シオンの丘には古い聖堂の廃墟があった。
ブイヨンはそこに修道院を建てたが、1172年に書かれたエルサレム王国の年代記によると、この修道院は要塞になっていて、ノートル・ダム修道院と呼ばれた。
シオンの丘を占拠した騎士たちが、「シオン団」と名乗ったのだろう。
同じくブイヨンが創設した騎士団で、聖墳墓教会を占拠した騎士たちは、「聖墳墓騎士団」と名乗っていた。
なお聖墳墓教会とは、イエスが十字架にかけられたとされる場所に建てられた教会である。
1116年7月19日付の特許状には、ノートル・ダム修道院のアルナルダス院長の署名がある。
そして1125年5月2日付の特許状には、アルナルダスと共にテンプル騎士団の総長ユーグ・ド・パイヤンの名前がある。
つまり、ノートル・ダム修道院の実在と、テンプル騎士団との繋がりが確認できた。
シオン団について書かれた資料によると、1070年にイタリア南部のカラブリアの修道僧たちが、ゴドフロワ・ド・ブイヨンの領土であるアルデンヌの森にやってきた。
作家のジェラール・ド・セードによると、この修道僧たちはメロヴィング家と結びつくウルサスという人が率いていた。
修道僧たちは、ブイヨンの叔母で育ての親でもあったロレーヌ公妃のマチルド・ド・トスカンに厚遇され、オルヴァルの土地をもらって修道院を建てた。
しかし修道僧たちは1108年に居なくなり、消息不明になった。
その後、1131年にオルヴァルはベルナール(ベルナルドゥス)の所有地となっている。
ジェラール・ド・セードによれば、上の修道僧の一団には「隠者ピエール」がいた。
隠者ピエールは、第1回・十字軍の遠征を熱心に呼びかけた人で、ゴドフロワ・ド・ブイヨンの家庭教師だったと言われている。
今日では、隠者ピエールは十字軍に人々を駆り立てた者と考えられている。
ブイヨンが十字軍でエルサレムに向かった時、参謀に相当する助言者を伴っていた。
彼らがエルサレムを征服した直後の1099年に、正体不明の一団がエルサレムで秘密会議をした。
ギョーム・ド・ティールが約75年後に書いたものによると、会議に出席した重要人物は「カラブリアの司教」だった。
この会議の目的は、エルサレム王を誰にするかを決める事だったが、正体不明の人物がブイヨンを指名した。
ブイヨンは辞退した上で、聖墳墓の守護者の地位を引き受け、実質的な王位に就いた。
(ブイヨンは1100年7月に亡くなり、弟のボードワンが後を継いで王になった)
ブイヨンをエルサレムの王にしたのは、隠者ピエールを含むカラブリアから来た修道僧だったのではないか。
そしてこの集団は、シオンの丘にある修道院に住むようになったのではないか。
『秘密文書』によると、シオン団から王位を授けられたボードワン1世は、1117年3月にテンプル騎士団を創設するのを余儀なくされた。
どうやらシオン団は、エルサレム王に命令するほどの力があったようだ。
エルサレム王国史を書いたギョーム・ド・ティールは、テンプル騎士団の創設は1118年と書いているが、シオン団の軍事・行政部門として1114年頃から活動していたと思われる。
フランス王・ルイ7世が第2回・十字軍を行ってフランスに戻った時、75人のシオン団員を同行していたと言われている。
そしてルイ7世は、彼らに謝礼を支払った。
もしシオン団がテンプル騎士団の背後にいる組織ならば、ルイ7世は十字軍の遠征でテンプル騎士団に大いに助けられていたので、謝礼を支払ったことが説明できる。
シオン団は1152年に、フランスに足場をつくった。
団員がルイ7世の寄進したオルレアンのサン=サムソンの大修道院に入り、さらにオルレアン郊外のサン・ジャン・ル・ブランにある「シオンの丘の小修道院」に入った。
この件は、ルイ7世の特許状が現存している。
1178年のローマ教皇・アレクサンデル3世の勅書では、シオン団の所有物が出ているが、フランスのオルレアン、イタリアのカラブリア、パレスチナのアクレ(アッコン)の聖レオナールの屋敷など、色々な場所がある。
オルレアンの公文書館には、シオン団への20以上の特許状が残されていたが、1940年の爆撃でほとんどが失われてしまった。
1187年に、テンプル騎士団の総長ジェラール・ド・リドフォールの無分別な行動が原因で、エルサレムはイスラム教徒に奪われた。
そのためシオン団は、一斉にフランスのオルレアンに移住したらしい。
このリドフォールの痛恨のミスとエルサレムの失地から、シオン団とテンプル騎士団は仲違いして、1188年に正式に分離した。
この決別では、「楡の木を切る」という儀式がジゾールで行われたという。
フランスのジゾールには、「シャンサクレ」(聖なる土地)と呼ばれる牧草地があり、そこでイギリス王とフランス王が何度も会合を開いていた。
1188年に、イギリス王・ヘンリー2世とフランス王・フィリップ2世が、ジゾールで会合した。
この時に揉め事が起きて、楡の古木が切り倒された。
争いになってイギリス側はジゾールの要塞に逃げ込み、苛立ったフランス側が楡の木を切り倒してからパリに帰ったという。
当時のテンプル騎士団は各国で活動し、イギリス王とも親密で、イギリス王はテンプル騎士団を伴うことがよくあった。
ジゾールの土地はテンプル騎士団が所有していたので、上記の揉め事の時にテンプル騎士団もいたと考えられる。
この事件後、テンプル騎士団はシオン団から独立し、1307年にフランス王・フィリップ4世の弾圧を受けるまで独自の道を歩んだ。
1188年にテンプル騎士団と別れたシオン団は、この年に組織を抜本的に見直して、「プリウレ・ド・シオン団」(シオン修道会)に名称を変更した。
そして総長は、テンプル騎士団と無関係のジャン・ド・ジゾールが就いた。
プリウレ・ド・シオン団は、副称として「オルムス」(Ormus)を採用した。
この副称は、テンプル騎士団が逮捕される前年の1306年まで用いられた。
オルムスの記章にあるMは、占星術の乙女座を意味し、中世の図象学ではノートル・ダムを指した。
また、フランス語でオルウス(Orus)は、ラテン語のウルサス(Ursus)と同じで、熊を意味する。
これはメロヴィング朝とそのダゴベルト2世を象徴している。
さらにオルメ(Orme)はフランス語の楡で、オル(Or)は金を表す。
他にも、ゾロアスター思想とグノーシス思想では、オルムスは光の原理を意味する。
フリーメーソンの18世紀後半の系図では、オルムスはエジプトはアレクサンドリアの賢人で、グノーシスの熟達者である。
フリーメーソンの伝説では、オルムスは紀元46年にキリスト教に帰依し、キリスト教に古い秘儀を伝えて、新しい宗派ができたとする。
フリーメーソンの伝承では、46年に結成された「伝授者たちの団体」に、赤十字か薔薇十字を象徴するオルムスが授けられた。
オルムスは、「薔薇十字団」の起源とも考えられる。
1188年に「プリウレ・ド・シオン団」は、オルムスと共に「薔薇十字真理の修道会」という副称も採用した。
「薔薇十字団」が一般の人々に知られたのは、1614~16年に3冊の扇動的な小冊子が出版された時だった。
この小冊子によると、薔薇十字団はクリスチャン・ローゼンクロイツが、神秘の伝授者の秘密結社として創設した。
ローゼンクロイツは1378年に生まれて、1484年に106歳で亡くなったという。
3冊のうち、『クリスチャン・ローゼンクロイツの化学の結婚』の著者は、ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエというドイツ人の神学者だと判明している。
アンドレーエは、『化学の結婚』は悪ふざけの冗談だったと告白している。
しかし、プリウレ・ド・シオン団についての文書が正しいとすると、薔薇十字団は実在したのかもしれない。
薔薇十字団の研究をして著書もあるフランセス・イエンツによれば、薔薇十字団は実在し、それより前に活動していた秘密結社がいて、その政治思想は薔薇十字団と一致していた。
1629年という薔薇十字団への世間の関心が頂点にあった時期に、ジゾールの司祭ロベール・デニョーは、ジゾールの歴史とジゾール家を調べ上げた。
デニョーの原稿には、薔薇十字団はジャン・ド・ジゾールが1188に創設したと書かれている。
(※上記のとおり、シオン団がテンプル騎士団と別れてプリウレ・ド・シオン団になった1188年に、ジャン・ド・ジゾールは総長となった)
1239年から1244年までオルレアンにある「シオンの丘の小修道院」の長だったジラールは、アクレの所領地を(テンプル騎士団と親しい)チュートン騎士団に譲ったといわれている。
(※前述のとおり、シオンの丘の小修道院はシオン団の系列である)
1281年に「シオンの丘の小修道院」を率いていたアダムは、オルヴァル近くの土地をシトー修道会に譲った。
プリウレ・ド・シオン団に関する文書によれば、アダムはこの寄進でシオン団の仲間たちの怒りを買い、追放された。
アダムはアクレに行ったが、この都市がイスラム教徒の手に落ちると逃げて、1291年にシシリーで亡くなった。
プリウレ・ド・シオン団の文書によると、1307年にフランスでテンプル騎士団が一斉に逮捕された時、プリウレ・ド・シオン団の総長ギョーム・ド・ジゾールはテンプル騎士団から金の頭像を受け取った(押収した)。
テンプル騎士団を裁いた異端審問所の公式記録には、こうある。
「テンプル騎士団の逮捕後、押収した品の管理はギョーム・ピドワ王がした。
ピドワ王は逮捕時に、ギョーム・ド・ジゾールとレイナール・ブルドンと共に発見物を押収した。
押収物には銀メッキされた女性の頭像があった。」
シオン団は、かつての仲間であるテンプル騎士団の逮捕に協力したらしい。
(2022年12月30日、2023年1月4日に作成)