(『レンヌ=ル=シャトーの謎』マイケル・ベイジェント、リチャード・リー&ヘンリー・リンカーン著から抜粋)
私たちは、パリ国立図書館にある『秘密文書』を調査した結果、テンプル騎士団の歴代総長について、他の資料よりも正確に書いてあると結論した。
この正確さは、特別の内部情報に基づくと考えるしかない。
『秘密文書』には、プリウレ・ド・シオン団の歴代総長も書いてある。
それを見ると驚きの陣容だが、テンプル騎士団の歴代総長の正確さを見ると、これも本当の事かもしれない。
なおプリウレ・ド・シオン団の総長は、古代フランス語で「航海者」や「舵」を意味する「ノートニエ」と呼ばれていた。
「プリウレ・ド・シオン団」の歴代の総長は、次のとおりである。
①(初代)ジャン・ド・ジゾール 1188~1220年
②マリー・ド・サン=クレール 1220~1266年
③ギョーム・ド・ジゾール 1266~1307年
④エドアール・ド・バール 1307~1336年
⑤ジャンヌ・ド・バール 1336~1351年
⑥ジャン・ド・サン=クレール 1351~1366年
⑦ブランシュ・デヴロー 1366~1398年
⑧ニコラ・フラメル 1398~1418年
⑨ルネ・ダンジュー 1418~1480年
⑩イオランデ・ド・バール 1480~1483年
⑪サンドロ・フィリペピ(ボティチェリ) 1483~1510年
⑫レオナルド・ダ・ヴィンチ 1510~1519年
⑬コネタブル・ド・ブルボン 1519~1527年
⑭フェルディナン・ド・ゴンザーグ 1527~1575年
⑮ルイ・ド・ヌヴェール(ルイ・ド・ゴンザーグ) 1575~1595年
⑯ロバート・フラッド 1595~1637年
⑰ヨハン・ヴァレンティン・アンドレーエ 1637~1654年
⑱ロバート・ボイル 1654~1691年
⑲アイザック・ニュートン 1691~1727年
⑳チャールズ・ラドクリフ 1727~1746年
㉑シャルル・ド・ロレーヌ 1746~1780年
㉒マクシミリアン・ド・ロレーヌ 1780~1801年
㉓シャルル・ノディエ 1801~1844年
㉔ヴィクトル・ユゴー 1844~1885年
㉕クロード・ドビュッシー 1885~1918年
㉖ジャン・コクトー 1918~年
11代目のサンドロ・フィリペピは、有名な画家であるボティチェリのことである。
3代目のギョーム・ド・ジゾールは、プリウレ・ド・シオン団を「ヘルメス(思想)的なフリーメーソン」に改組したと言われている。
ギョームの祖父であるジャン・ド・ジゾールは、シオン団が1188年に「楡の木を切り倒す事件」を経てテンプル騎士団と分裂し、プリウレ・ド・シオン団を名を変えた時に初代の総長となった。
初代のジャン・ド・ジゾールは実在の人で、当時の特許状にも名が出てくる。
彼はイギリス王の家臣だが、ノルマンディー城砦のあるフランスのジゾールの君主だった。
『秘密文書』によると、ジャン・ド・ジゾールは1169年に領地のジゾールで、トーマス・ア・ベケット(イギリス王・ヘンリー2世に反抗して殺されたカンタベリー大司教)と会談している。
ベケットがこの年にジゾールにいたのは、調べて確認できた。
プリウレ・ド・シオン団の総長は、芸術や科学の分野で活躍した者と、貴族や王族の者に大別できる。
調べてみると総長の多くが、レンヌ=ル=シャトー、ジゾール、ストネイ、聖シュルピス教会という、それまで調査の過程で出てきた場所のどこかと接点があった。
また総長の多くは、ロレーヌ家と繋がりがあった。
例えばロバート・フラッドは、ロレーヌ公アンリの息子の家庭教師だった。
ロバート・ボイルやアイザック・ニュートンは著名な科学者だが、ヘルメス思想に傾倒していた。
ここからは各総長について書いていく。
〇初代総長のジャン・ド・ジゾール
1133年に生まれ、1220年に亡くなった。
フランスのノルマンディーのジゾール要塞の領主だった。
1188年にジゾールで、イギリス王とフランス王が争い、楡の木を切り倒す紛争が起きた。
この時に、シオン団とテンプル騎士団は分裂したという。
ジャン・ド・ジゾールは、イギリス王の家臣で、イギリスにも土地を持っていた。
〇2代目のマリー・ド・サン=クレール
1192年に生まれた。
祖先は第1回・十字軍でゴドフロワ・ド・ブイヨンに随行した、ヘンリー・ド・サン=クレール男爵である。
マリーの祖母は、フランスの貴族であるショーモン家に嫁いでいる。
マリーは、(初代総長の)ジャン・ド・ジゾールの後妻になったという説もある。
マリーの母はイザベル・レヴィで、名前からユダヤ系と思われる。
〇3代目のギョーム・ド・ジゾール
初代総長ジャン・ド・ジゾールの孫で、1219年に生まれた。
プリウレ・ド・シオン団の文書によれば、姉妹がジャン・ド・プランタールと結婚している。
1269年に彼は、「船と二重十字の騎士団」に入団した。
この騎士団は、第6回・十字軍(第7回・十字軍)のためにルイ9世が創設したもので、ギョームはルイ9世と共にエジプト遠征に行ったと思われる。
〇4代目のエドアール・ド・バール
1302年に生まれた。
イギリス王・エドワード1世の孫で、エドワード2世の甥である。
エドアールの家系はメロヴィング朝と関係があり、エドアールの娘はロレーヌ家に嫁いでいる。
エドアールは、ロレーヌ公と共に6歳で参戦して、捕虜になり1314年に釈放された。
彼は、叔父のジャン・ド・バールから、ストネイの領地を買い取った。
1336年にキプロス沖で遭難死した。
プリウレ・ド・シオン団の文書によると、エドアールは(3代目総長の)ギョーム・ド・ジゾールの妻イオランデ・ド・バールの兄弟の孫である。
エドアールが1307年にシオン団の総長になったとすると、その時はまだ5歳である。
彼が捕虜になっていた期間は、叔父のジャン・ド・バールが代わりに領地を治めていた。
だからジャンはシオン団の総長も代理していたかもしれない。
〇5代目のジャンヌ・ド・バール
前総長エドアールの姉で、1295年に生まれた。
彼女はイギリス王・エドワード1世の孫である。
1320年に伯爵と結婚したが、この夫は姦淫の罪で破門になり離婚した。
その後もイギリスに留まり、イギリス王と親しくした。
フランス王・ジャン2世が1356年のポワティエの戦いで捕まりロンドンの牢屋に入れられると、ジャンヌはフランス王に仕えるのが許され、愛人になったという。
ジャンヌは1361年にロンドンで亡くなった。
〇6代目のジャン・ド・サン=クレール
1329年頃に生まれた。フランスの貴族である。
プリウレ・ド・シオン団の文書によれば、彼の祖父はジャンヌ・ド・バールの叔母と結婚している。
〇7代目のブランシュ・デヴロー
ナヴァラ王の娘であるブランシュ・ド・ナヴァラのことである。
1332年に生まれて、父からジゾールに隣接するロングヴィルとエヴルー伯領を相続した。
彼女はフランス王・フィリップ6世と結婚し、フィリップ6世を通じて(5代目総長の)ジャンヌ・ド・バールと知り合ったと思われる。
生涯のほとんどをジゾールに近いニュール城で暮らし、1398年に死去した。
彼女は錬金術に熱中し、高価な錬金術の作品を所有していたという。
〇8代目のニコラ・フラメル
フラメルは、それまでは血族が継いでいたプリウレ・ド・シオン団の総長職を、血族外で初めて継いだ。
フラメルは1330年頃に生まれ、パリで代書や複写を仕事にしていた時に、稀覯本に触れてカバラ思想や錬金術に興味を持った。
1361年頃に、錬金術の本『ユダヤ人、王子、祭司、レビ人、占星師で哲学者のアブラハムから神の怒りによってゴールに離散させられたユダヤ人への聖なる書』に出会い、21年間も研究した。
だがほとんど何も分からなかったと、彼は言う。
1382年にスペインに行った時、改宗ユダヤ人から本の内容を説明してもらった。
スペインからパリに戻ると、学んだことを実践して、錬金術の変成に初めて成功した。
それからの彼は裕福になり、多くの家や土地を持つようになった。
慈善事業にも力を入れ、病院をつくったりした。
アイザック・ニュートンは、フラメルを尊敬し、フラメルの著作を読んで多数の注解を加えた。
(2023年1月4日、3月9~10日に作成)